閑話 託すもの 前編

「あ~あ、遂に来ちまったか。この日がよ。」


まだ第一試合も始まらない時刻、最後の余韻を確かめるべく控室で寝転がる。


この会場で試合をするのは四度目だ。


一度目は世界初挑戦の試合、二度目はそれに敗れての再起戦。


三度めは雪辱を誓った二度目の世界戦、四度目はその再起戦。


二戦二勝、これは相性が良いのか悪いのか。


いずれにせよ節目となる試合では、毎回この会場で試合をしている。


そして今日は、最後を飾るべくそのリングへと上がる。


(明日から何すっかな~。仕事探さねえとな。…ジム開くか?)


明日からの自分はもうプロボクサーではないという事実を、どこか受け止めきれない気持ちがあった。


何度も辞めたいと思ったが、いざこの日が来ると湧き上がる、この感情は何なのだろう。


「どうした?浮かない顔じゃねえか。最後だぞ、気合入れろ!」


それでもおっちゃんこと真田トレーナーの檄で、目が覚めた様に落ちた気分が切り替わった。


「そう…だな。会長、おっちゃん、皆、今まで有難う御座いました。今日は最高の試合見せるんで。」


「お前、いくら何でも有難うは早すぎるだろ。そういうのは試合終わってから言うもんだぞ。」


会長は少し呆れ顔、周りの同門の奴らも揃って苦笑いを浮かべていた。


その全ての光景が見納めかと思うと、何故だか愛おしく思えてくる。


「おい直政、お客さんだぞ。」


そう言われ視線を向けると、最愛の家族の姿。


「どうも、すみません…。失礼しますね。」


妻は余所行きの顔を作りながら、恐縮そうにこちらへ歩いてくる。


その脇には、何故か不貞腐れた表情の我が娘も従えていた。


「おい、かおりの奴どうしたんだ?何かやけに不機嫌そうじゃないか?」


そう問い掛けると、妻は申し訳なさそうな顔で言う。


「この子ね、友達と遊ぶ約束しちゃってたのよ。それを無理やり連れてきたから…。」


相変わらず自分の優先順位の低さには目頭が熱くなる。


「拳一はお祖母ちゃんに見てもらってる。ここに連れてきて泣かれてもね…。後、お義父さんとか親戚一同勢揃いしてるから。」


大きな試合ではいつも勢揃いしてくれるが、その度にガッカリさせていた事が思い出される。


「そうか。じゃあ今回は有終の美を飾るとするか。香も悪かったな。」


少しふくれっ面している娘にも声を掛ける。


「別にいいけど…。まぁ、頑張って……。」


そう言うと、連れだって観客席へと戻っていった。
















慣れ親しんだ匂い、感触、空気、全てを記憶に刻み込んだ頃、


「セミファイナル終わったみたいだな。直政、最後だ。お前の集大成を俺達に見せてくれ。」


言葉はいらず、視線だけでその意思を伝える。


纏うは炎の漢の象徴でもある、燃え上がる炎をモチーフにしたガウン。


控室を出ると、後援会、同門の選手、練習生などでなる花道。


両脇を囲む者達が皆、口々に激励を伝え送り出してくれる。


姿を見せると会場がワッと沸いた。


(有難いねぇ、これで気分が乗らねえとか嘘だろ。さあ…行くか。)


松脂をシューズに着け、リング下で少しその場所を見上げた後、駆け上がる。


そして対角線に目を向けると、あまりその父親とは似ていない童顔があった。


(計量の時も思ったが、こいつは母親似だろうな。マダムキラーって感じだ。)


自分の記憶にあるあの男は、どちらかといえば堀の深い顔をしていた。


それと比較すると、その息子は随分可愛い顔をしている。


(ま、顔の作りで勝負が決まる訳じゃ無し、頼むぜ、ガッカリさせんなよ。)


リングアナの口上と、湧き上がる歓声を聞きながら、精神を試合モードへと最終調整していく。


そしてレフェリーに呼ばれ中央へ進み出ると、


(あれ、このレフェリー。世界戦の時と同じ人か。それも二回ともこの人だったっけな。確か会長から出身がここだって話も聞いたな。)


なんでも会長とは昔馴染みらしく、何度も酒を酌み交わす仲とか。


勿論、だからと言って公正さは変わらないのだが。


「……、悔いのない試合をする様に。」


一瞬視線がこちらを向き、思わず苦笑が漏れた。


(分かってるって。つか、レフェリーってそんなこと言うのかよ。)


コーナーに戻ってから思い返すと、自然笑いがこみ上げてくる。


「どうした直政?」


不思議そうな顔をした真田さんが問い掛けてくる。


「別に何でもないっすよ。ただ、良い試合しなきゃって思っただけです。」


首を傾げながら差し出したマウスピースを、歯に合わせる様に何度か噛んだ。










「よろしくお願いします。」


リング中央、グローブを合わせ体勢を整える。


(さてさて、まずは自慢の左を見せてもらおうかな。)


ガードを高く上げると、相手のジャブをしっかりと受け止める。


(なるほど、なるほど、これは優秀だ。差し合いじゃ勝ち目はなさそうだな。)


相手の力を認めつつ、しかしどうにもならない訳では無い事も理解した。


(こうしたらどうする?)


一切手を出さず、フェイントとプレッシャーのみでじりじりとにじり寄る。


遠宮はそれを止めるべく自慢の左を連打してくるが、しっかりとガードで応じ前進を止める事はしない。


(こっからどうすっかな。迂闊に手を出すと左が飛んでくるか…。)


攻めあぐねながらも相手の表情を見やると、意外に余裕は感じられない。


それを見て、物は試しと言わんばかりに見え見えのフェイント。


ダンッ!っと足を鳴らす。


冷静ならばなんて事も無い筈のそのフェイントに、遠宮は過剰ともいえるほどの反応。


(若いっ!)


体勢を整える隙など与えず踏み込み、畳みかける。


そして優勢のままラウンド終了を告げるゴングを聞いた。







「いいぞ直政。完全にペース握ったな。この試合はお前に任せる。好きにやれ。」


頷くと、早めに立ち上がり体を解す仕草をしながらゴングを待つ。


(まさかこのまま終わる訳ないよな?頼むぜ、意地見せろよ?)


この試合で臨むのは、自分の全てを出し切ること。


その為には簡単に倒れてもらっては困るのだ。


第二ラウンド、相手を試す様にガードを上げ前に進み出る。


すると、


「…っ!!」


弾幕の様にジャブの嵐が迎え撃つ。


予想を超える速射性能に、流石に少し尻込みしてしまった。


(マジかよ、ここまでやれんのか。これは、差し合いで勝負しようなんて毛ほども思えんな。前に出るのは厳しい、ちょっと誘ってみるか…。)


そう考え、高く上げていたガードを下げて誘ってみるが乗ってこない。


遠宮は手応えを感じたか、更に自信を持って左を突いてくる。


(調子乗んなよ。やりようがないって訳じゃないんだぜ?)


覚悟を決め、腕を十字にクロスさせると弾幕の中に身を晒す。


しかし、思いのほか遠宮の反応は良く、空いた側面からフックを打たれしっかりと距離を取られてしまった。


(さて、どうすっかな~。…ま、やりながら考えっか。)





そして第三ラウンド。


結局、邪魔なジャブをどうにかしなければ勝負にならないと判断。


相手の動きに合わせ、すっと左を前に伸ばし、その軌道を阻害する。


こうする事で、その左を除けようとした瞬間に打ち込む作戦だ。


左腕は伸ばしたままにじり寄り、その時をじっと待つ。


すると、遠宮は強気に踏み込んでワンツーの構え。


「シィッ!」


この展開も願っていたものだとばかりに、コンビネーションの右に合わせ、ボディを突き上げた。


結果、伸ばしていた腕は弾かれ必然的に顔面は無防備になり、危険な相打ちを繰り返すことになる。


(さあ、タフネス勝負と行こうか…。多分こういう泥臭いのは嫌いだろ?)


そして、そのやり取りを数回繰り返したのちに見えた、その迷いを見逃さなかった。


(ここっ!)


その機に乗じこちらは一切迷う事無く腕を十字に構え踏み込み、ガード体勢を取ろうとした遠宮の右側部に、そうはさせまいと強引に肩をねじ込んだ。


更にその体勢を固定する為、右脇から上に持ち上げ、重心を揺るがせる。


「フッ!」


間髪入れず、ボディに一発。


そしてちらりと視線を向けレフェリーの位置を確認すると、おあつらえ向きに真後ろ。


(悪いな。こういうのも経験しときな。)


心の中で謝罪の言葉を述べた後、下腹部へ一撃。


自分の全てを出すというのは、こういう汚い技も含めての事だ。


もっと言うならば、偶然を装って頭をぶつける事も出来るのだが、流石にそこまで汚い事はする気が起きない。


だが、この状況でレフェリーにローブローをアピールする甘ちゃんならば、そのまま顎を跳ね上げて終わらせてしまうつもりだった。


しかし、そんな様子はなく必死で耐える遠宮にさらに追い打ちのボディブロー。


その顔にはありありとダメージが浮かんでいるが、眼光はまだまだ激戦を予感させるものだった。

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