二章最終話 胸に残る言葉
椅子に座ってしまうと、もう二度と立てないのではないかという不安が沸き上がる。
「統一郎君…次のラウンドの一発目、それに賭けよう。それで駄目だったらしょうがない。もう一度這い上がればいいよ。」
普通こういう時は、駄目だった時の事は言わないのがお約束だと思うが、今は何故かそれで気持ちが軽くなるのを感じた。
「坊主!何度でも付き合うからよ!行ってこい!」
確かにこの人なら何度でも付き合ってくれそうだ。
「遠宮君、可能性を感じる最高の一発を見せてよ!」
及川さんは、こんな状況でも最高に爽やかな笑みを見せてくれている。
「セコンドアウト。」
再会を告げるアナウンスを聞くと、足に力を込め立ち上がる。
(…さあ、行こう。)
足を引き摺り、恐らく最後になるであろうラウンドへと進み出た。
備前選手と視線が合い覗いた顔は、気のせいだろうか、少し笑っていた気がした。
リング中央、どちらからともなく軽くグローブを当て挨拶を交わす。
「よろしくお願いします…。」
静かにファイティングポーズを取ると、決着の時を迎えるべく意識を沈ませていく。
会場が静かだ。
いや違う、静かに感じるだけで静かではない。
聞こえるのは己の息遣い。
そして遠くに聞こえる微かな歓声。
世界がゆっくりと流れる。
頭が、いや、脳が熱い。
限界以上の処理をしているのが原因か、頭の回路がまるで焼き切れてしまいそうなほど熱かった。
世界が自分を中心にして収縮して来る様な感覚。
(この感覚…どこかで……いつだったっけ…。)
朦朧とする意識の中でそんな事を考える。
視線の先には、依然として荒い息のまま鋭い眼光で覗く備前直正。
一体どれほどの時間こうして向き合っているのかも定かではない。
そして遂に動く。
視界の先からは、苦しそうにも、見ようによっては笑っているとも取れる表情で左を打ち込んでくる男。
初動から察するにストレートだ。
思考は定まらず、只の視覚情報としてそれを眺めている。
しかし頭が働かずとも、体に染み込んだ本能が、只ひたすらに静かな世界で己の為すべき事のため勝手に体を動かしていた。
迫りくる左拳の内側にそっと右を添え、軌道を逸らす。
自然、体が半身の体勢になった。
左足が後ろ、右足が前。
(最高の…一発…ジャブ…左……コークスクリュー……)
今までの経験が走馬灯の様に流れていく。
半身になった体勢から左が伸びる。
俺は気付いていなかったが、これがサウスポースタイルで放つ初めてのパンチであり、ストレートであり、コークスクリューだった。
渾身を込めて放った一発を捌かれ、体勢整わぬ備前直正。
それでも流石というべきか、首をひねり何とか衝撃を殺そうとしたが間に合わない。
バァンッ!!
瞬間会場には、肌を、骨を穿つ強烈な音が響く。
元王者は衝撃で弾かれロープに背を預けると、ズルズルとマットに沈み込んでいった。
天井のライトを見上げながら、何を考えるでもなく呆けていた。
頭はジンジンと痛むが、徐々に熱は引いている様な気もする。
そうして音の消えた世界に佇んでいると、背中に軽い衝撃があり、世界に音が戻ってきた。
「遠宮君!よくやったね~~っ!」
どうやら及川さんが背中に抱き着いてきていたようだ。
備前選手に視線を向けると、大の字になっているその周りから陣営が揃って覗き込んでいる。
心配になりその傷だらけの顔を俺も覗き込んでみると、むくりと体を起こした。
そしてこちらに顔を向け、快活な笑みで語るのだ。
「おおっ、負けた負けた!…お前やっぱり強ええな。俺に勝ったんだからこっから先、簡単に負けんなよ?でよ…その内今日のこと自慢させてくれ、な?」
そう言いながら、ポンと俺の胸を叩き、何か含みのある表情を向けてくる。
「こちらの方こそです。この試合、一生の自慢になります。」
俺がそう言うと、少し呆気にとられた顔をした後、
「俺程度で自慢されちゃたまらんよ。ようやく肩の荷が下りたってのによ。」
現役を引退して、これからは楽出来るといった意味だと解釈したが、それ以上の意味も含まれている様な気もする。
背後から視線を感じ振り返ると、リングアナの人が何かを窺う視線で覗き込んでいた。
俺は何となく察する。
勝利者は俺であっても、この場の主役は地元のスターでもある備前選手なのだと。
当然インタビューなどがあるらしいので、脇役は早々にリングを降りる事にした。
シャワーを浴びながら、今日の試合を振り返る。
(強かった。何をやっても飲み込む様に返されて、何度もう駄目だって思ったかな…。)
達成感と同時に、いつかの憧れを打ち破った事に多少の寂しさも感じていた。
父に今日一日を伝えられたなら、どんなに喜んでくれただろうか。
そんな事を考えながらシャワー室を後にした。
「おめでとうございます!僕も思わず声を出したんですけど、周りの声が凄くて…全然聞こえませんでしたよね?」
控室で待ってくれていた佐藤さんが語り掛けてくる。
その声は嗄れており、どうやら本当に叫んでいたらしい。
「まあ、あの声援じゃ仕方ないですよ。しかも一人ですしね。」
佐藤さんが大声を出す所など覚えが無い為、一度見てみたいものだ。
「準備出来たみたいだね。じゃあ、時間も掛かるし早めに出発しようか。」
今からではどんなに急いでも日付を跨ぐ事になるだろうが、明日の予定などもあるだろうし仕方がない。
それに、一番大変なのは運転手である牛山さんであろう。
全員で車に乗り込むと、用意してくれていた食事を頂きながら帰路に着く。
「そういやよ、この間一位の選手が負けたから、もしかして坊主が一位って事になるんじゃねえか?」
高速道路に入って直ぐ、牛山さんが思い出した感じで口を開く。
だがそういう事は俺には分からない為、会長に視線を向けた。
「ん?そうだね。判断するのは僕じゃないから何とも言えないけど、その可能性高いね。」
全員がおおっと声を上げる。
「だとすると、挑戦者決定戦待たずして指名してくるんじゃねえか?ほら、この間の防衛戦も一位の奴を指名したんだろう?」
そう言えばと思い至り、今一度会長に視線を向ける。
「どうかな?御子柴君は空気読みそうな感じあるから、適当に五位以下の選手を指名すると見てるんだけど。どうなるかは分からないね。」
確かにあれほどテレビ映りを気にする男だ、そういう事にも敏感そうな気もする。
「そうなると、次は挑戦者決定戦を制して打倒御子柴、そして日本チャンピオンだね。」
及川さんが具体的な目標として言葉にする。
それを聞くと、本当にあれに勝てるのか不安になってきた。
(ま、今考えても仕方のない事だ。まずは、挑戦権を得る事からだしな。)
そう考えた時、疲れが出たか大きな欠伸。
「流石に疲れたろ。佐藤と坊主は横になって寝てろ。そうすりゃ直ぐ着く。」
お言葉に甘え、二人で後ろのシートを占領し眠りにつく事にした。
家に着いた時刻は、深夜も深夜。
流石に叔父も寝てしまっており、起こさないよう気を付けながらそっとベッドに潜り込む。
『自慢させてくれよ。』
眠りに落ちるまで、備前選手の声が頭の中で何度も反芻された。
あの時、確かに感じたのだ。
自分はかつて見上げたあの人の夢を背負ったのだと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます