第二十九話 耐えてくれ

「…シィッ!…っ!」


耐えてくれ、そう願った会長の言葉を只々愚直に実行していた。


既に足は使えない。


それでも上がらなくなった足を引き摺りながら、泥沼を行く様に進む。


こんな状況になっても切れを失わないジャブには、少し自信が満ちる。


追い詰められた時に頼るべきは積み重ねたもの、何かでそう読んだ気がしたが、今まさにそれを実感している所だ。


劣勢である事は誰の目にも明らかだが、要所要所で放つ左は的確に顔面を捉えており、備前直正の右瞼が腫れ上がっている。


実際ダメージになっているのかは定かではないが、これが完全に視界を塞げば、必ずチャンスは生まれるだろう。


「…っぅ!!」


ミドルレンジからのワンツーを何とかガードで凌ぐ。


相手はインファイト一辺倒ではなく、こちらのフットワークを殺すや否や、激しく出入りを繰り返すヒットアンドアウェイに切り替え始めた。


あまりの絶望振りに自嘲の笑みさえ浮かぶが、喰いしばって左。


(右目だ。右目を狙う!視界さえ塞げばきっと…。)


今までのデータから、この前チャンピオンはかなり腫れやすい質だ。


その一点の小さな望みに縋り、諦める事無く手を出し続ける。


只では貰ってやらない、一発貰うなら一発返す。


最悪相打ちでもいい、そんな悲痛な覚悟で打ち合った。


耐えていれば必ずチャンスは来る、その会長の言葉が真実である事を、俺は知っているのだから。


ガードで受け止めるか、躱すか、弾くか、それとも引くか、たったそれだけの判断ミスでひっくり返るのがボクシングだ。


「…っ!…シィッ!…シィッ!」


またもボディを打たれ体が曲がりそうになるのを堪え、食い縛ってワンツー。


必死さから顔が歪むこちらとは対照的に、向こうは表情からも冷静さが見て取れる。


(関係ない…。その時が来るまで耐えるだけだっ!)


苦しい第四ラウンドが終了した。









「良く帰ってきたよっ、必ずっ必ずっ、その時は来るからね!」


皆大忙しだ。


腫れ止めの金具を当てたり、氷嚢で冷やしたり、マッサージに汗拭き。


(有難いな…。俺はこんなにも支えてもらっている…。)


「いいかい。左に返しのフックを混ぜよう。あの腫れだ。もう半分以上は視界が塞がっている筈だからね。」


言葉にする事無くただ頷いた。


ダメージは色濃いが、その殆どがボディブローによるものであるのが幸いしてか、比較的意識はしっかりしている。


だがどうしても限界はあり、その限界が近い事は肌で感じていた。


(これ以上腹は打たせちゃ駄目だな。意志だけじゃどうにもなりそうにない…。)


ならば最重要で阻止すべきは、踏み込まれる事だと判断した。


響くゴングに重い体を引き摺りながら進み出る。


第五ラウンド、向かい合う相手を見やると、少し右瞼の腫れが引いている事に気付いた。


どうやら腕の良いセコンドらしく、こういう展開にも慣れているのだろう。


(とは言っても、元の腫れがひどかったせいかやっぱり塞がってはいるな。)


ならばと、狙いを一つに絞り集中砲火。


「…シッシッシッシッシッ!!」


右瞼を狙い、未だ切れ衰えぬ速射砲を乱れ打つ。


これには相手も嫌がっているのが伝わってきた。


一旦バックステップで距離を取られるが、残念ながらこちらに追う足は無い。


だが強引に潜り込んでボディを打ちに来なかった事で、それなりにダメージの蓄積があると判断した。


勿論どちらが上かと言われれば、こちらの方が圧倒的に苦しい状況だが。


「…シィッ!」


この距離を嫌ったか、思い切り踏み込んでくる前王者に相打ち覚悟の左。


(この状況だ。急所以外なら上は打たせてもいいが腹は駄目だ。)


もう一度踏み込んでくる相手の体を左ストレートで強引に止めた後、思い切り右を強振。


バックステップした相手に、右は豪快な空振りとなった。


今の自分はどんな表情をしているのだろう。


さぞや鬼気迫る、恐ろしい表情をしているのではないだろうか。


互いの手が届かない距離になり、両者仕切り直すため体勢を立て直す。


次の接触が一つのターニングポイントになるかもしれない。


ゆっくりと息を吐き、意識を沈み込ませ集中していく。


(潜り込んできたら相打ち覚悟でアッパーからフック…。中間距離で打ってくるなら…左のコークスクリューで玉砕だ。)


両者のピリピリとした気配を感じ取ってか、会場の歓声も鳴りを潜めた。


少しずつ、少しずつ、距離が縮まり角を突き合わせる様に何度も軽く左で牽制。


両者のベストな距離にはまだ遠い。


あと一歩どちらかが踏み込めば、恐らくこの試合の行く末が決まるだろう。


「…ふっ…ふっ…ふっ。」


短い呼吸を繰り返しながら、勝負を決める一撃の隙を探り合う。


拍子木の音が響いても尚、動じる事無く動かない。


いや、両者ともに聞こえていないのだろう。


そして、そのまま第五ラウンドが終了した。








陣営へと戻るが、俺の雰囲気に引き摺られてか、誰も口を開かない。


何を言われても、もう覚悟を決めてしまっている為、意味は無いのだが。


セコンドアウトがコールされ、立ち上がって振り向く。


会長からも、牛山さんからも、及川さんからも、向ける瞳から信頼を感じた。



対角線上の相手と視線が交差し、ゆっくりと距離が縮まっていく。



そして、あと数cmで勝負の時。



(……………下っ!)


相手は右のフェイントを入れた後、体を横に傾けた体勢で左ボディを狙ってきた。


一瞬、言語では追い付かない思考が乱れ飛ぶ。


ガード、打ち下ろし、パーリング、スウェー、様々な選択肢が刹那の時を流れていく中、体が勝手にそれを選択していた。



パンッ!



軽く放たれたそれは紛れもないジャブ。


そしてそれは相手の顎先を掠め、数舜に渡りその自由を奪った。


相手のボディもまともに突き刺さっているが、一瞬耐えればいいだけの事。


気付けば意志よりも先に体が動いていた。



「…シュッ!!」



右のコークスクリューブロー。


相手の視界でも捉えているであろうそれは、自由を奪われた体に無情にも突き刺さる。


そして体全体が後方に弾かれ、背中からマットに落ちた。







数秒の静寂が会場を包み、直ぐに悲鳴とも取れる声が鼓膜を震わせた。


「ワンッ!ツーッ!スリーッ!……」


備前直正はコーナーポストを背もたれにして立ち上がると、天井を見上げたままカウントを聞いている。


足はがくがくと震えており、それが目に見えて限界が近い事実を訴えていた。


手応えは充分、だがそれでも、これでは終わらないだろう。


そんな確信があった。


「セブンッ!……」


カウントセブンで立ち上がった姿に、地鳴りかと思うほどの大歓声。


(そうだよな…。これで終わるほど甘くはないよな…。)


立ち上がった時に続行の覚悟は決めており、誰に言われるでもなくフラフラと進み出る。


最早ジャブすらも切れを保ててはいないだろう。


「…ボックス!」


幽鬼の如く進み出て、両者の体がぶつかる。


「……シィッ!」


どちらも限界が近い事は明らか。


そのパンチは弱々しく、本来なら決定打になど成り得ないだろう。


「…っ!!…シィッ!」


相手の見るからに手打ちのパンチがボディに刺さる。


それだけで腰が落ちそうになるのを必死に耐え、俺もただ右を叩きつける。


備前直政はそれを受けふら~っとロープにもたれ掛かると、反動に押され戻ってきた。


そしてよろよろと俺に体を預けると縺れ押し合った体勢のまま、ゴングが鳴り響いた。

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