第二十八話 簡単な相手ではないさ

「ちょっと冷静じゃないね。逆に考えてみよう。相手がインファイトに拘るって事は、差し合いでは勝てないと見ているって事だ。」


言われてみればそう、どうやらよほど冷静さを欠いていたらしい。


「次のラウンド、見せてやりなよ。その左の厄介さを。」


その言葉を聞いて、体の芯に炎が灯った。


「はいっ!」


第二ラウンドのゴングが鳴り、視線を向けると先のラウンドと同じ構え。


「ふぅ~~っ…シッ!シッ!シッ!シッ!シッ!」


覚悟を決めた。


接近戦は分が悪すぎる現状も理解した。


経験から来る引き出しの量が圧倒的に違う事が理由だろう。


(いくらでも打ってやるっ!こうなれば根競べだ!)


左、左、左、左、左、左、左、左、左、左、左、左。


狂った様にジャブを突く。


これには流石に困ったか、ガード越しの表情が少し歪んだのを確認した。


元王者はバックステップした後、上げ続けていた腕を解す様にブラブラとさせる。


何となく狙いが見えた。


これに誘われてこちらが踏み込むと同時に、あちらも踏み込む気だろう。


気を抜いている様に見せかけながら、その雰囲気は変わっていない。


当然誘いには乗らず、只その場で構えを維持したままじっと待つ。


経験の浅い者であれば痺れを切らして向かってくるのだろうが、当然それは期待出来る筈も無く、元王者は冷静にゆっくりと重心を整え仕切り直した。


(よしっ、この距離なら行けそうだ。冷静に、冷静に行こう。)


そう思っていた矢先、相手は上体を左右に揺らした後、乾いた音を響かせ踏み込んでくる。


「シッシッシッ…シィッ!」


先程と同じ様に速射性を意識したジャブで迎撃を試みるが、当たった感触が先ほどまでとは違った。


瞬間気付く、相手のガードしている腕が十字に重なっている事に。


(…クロスアームっ!?これにはっ…フック!)


咄嗟にジャブをフックに切り替え、当てると同時にサイドステップ。


追ってくる事を想定して身構えるが、追撃は無く相手はう~んといった表情。


先程のフックはそれなりに綺麗に入った筈だが、効いた感じはない。


世界を知る選手だ、自分程度のパンチなどいくらでも貰ってきたのだろう。


だからといっていくら打っても効かない訳では無い筈だ。


元より自分は単発で倒すタイプではないのだから問題は無い。


互いに距離を測り合い軽く左を伸ばしながら牽制し、第二ラウンドが終わった。






「悪くないよ。段々とこちらのペースになってきてるね。KOを狙う必要はないから、着実に積み重ねていこう。」


その意見には同意だ。


KOを狙うとしたら、コークスクリューが必要になってくるだろうが、先の試合の影響か、打つ事に多少の躊躇いと怖さがある。


それに、今の良い流れを切ってまでやる必要性も感じない。


「はいっ、リードブロー中心で組み立てます。」


これからの道筋を確認し、第三ラウンドのリングへと進み出る。


向こうの表情を見やると、先の劣勢など気にもしていないかの様なふてぶてしさがあった。


(気にするな。表面に出していないだけだ。絶対に俺が優勢の筈だ。)


この流れのまま勝利へと突き進むべく、勢い良く左の連打から入る。


「…シッ!シッ!」


すると、先程までのガードではなく、左腕を少し前に出しジャブの軌道にグローブを置いたまま、じりじりと前進してくる。


不用意にサイドステップでもしようものなら、その瞬間に距離を詰めてくるだろう。


(これは…確かにやりにくいな。だが、それなら攻撃力も落ちるはずっ!)


前に突き出した手を攻撃に使うには一度引き戻す必要がある為、初動が一拍遅れると判断した。


「…シッ!シィッ!」


ワンツー。


突き出した手を弾き、空いた軌道へ右ストレート。


相手は器用に頭部を捻り、直撃を避けながら左ボディを返してくる。


「…っ!!」


良い所を叩かれ、一瞬表情が歪んだ。


どうやらこの流れは既定路線だったらしい。


この相打ち、どちらが勝っているのか微妙な所だ。


長丁場を想定するなら、この打ち合いが続けば足が止まるのはこちら。


だが直撃を避けてはいてもダメージを完全に殺せている訳では無く、相手にもそれなりのリスクがある事は確かだろう。


自分のタフネスに自信がなければ、とても取れる作戦ではない。


(くそっ…足が止まったら流石に抑え込む自信は無いな。)


何度か同じやり取りが続き、全くふらつく素振りすらない相手を眼前に収めると焦りも出てくる。


時計が残り一分を過ぎた頃だった。


一瞬の迷いから生まれた隙を突かれてしまう。


グローブを突き出したまま前進してくる相手に対し、迎え撃つか引くか考え、一瞬対応が遅れてしまったのだ。


それを見た相手は、すかさず腕を十字に重ね突っ込んでくる。


「…シィッ!」


前のラウンドと同じくそれにフックを被せるが、相手は構う事無く突き進んできた。


それはまるで短距離走のクラウチングスタートを思わせる迷いの無さ。


更に勢い止まらず、互いの体がぶつかるのではないかとさえ危ぶまれ、


(何だっ!?更に踏み込んでっ!?)


慌ててガードを戻そうとした時気付く、相手の左肩が自分の右脇下に滑り込む形になっている事に。


この体勢ではクリンチもガードも満足に出来はしない。


瞬間、獣の如き視線がこちらの顔面を射抜く。


(…不味いっ!!)


苦し紛れだが、自由になる左を顎のガードに回す。


その時、ガードの隙間から覗く相手の視線が、俺の視線と重なった。


息が届くほど近くにあるその顔は、何度も左を浴び傷だらけだった。


気圧された瞬間、体の芯を砕く様な衝撃が走る。


「~~っ!?…ぅっ!……ぐっ!!」


狙っていたのは上ではなく下、苦し紛れに上げたガードには一度の衝撃すら響かない。


脇下に肩を滑り込ませた体勢で放たれたのは、がら空きになったみぞおちへの強烈な突き上げ。


更に、レフェリーを死角に背負ってのローブロー気味の一発。


下腹部に鈍い痛みが残る。


そして動揺した隙を見逃さず、更に強烈なボディで畳みかけてきた。


「…っ!!…ぁっ!!……か…はっ!!」


執拗なボディ攻撃に、一瞬だが呼吸が完全に止まる。


あまりの苦しさから、なりふり構わず突き飛ばそうとするが、その体はビクともしない。


だが、そのどっしりとした相手の体をつっかえ棒の様にして、自分の方がよろよろと丸まった形のまま後退し、離れる事には成功した。


そう思ったのも束の間、この好機を逃すほど甘い相手ではなく、丸まってガード一辺倒になっているこちらに対し、中間距離から強打を打ち付ける。


「…くっ!!…っ!!」


この時、俺はある言葉を思い出していた。


『ボディで倒れるのは不味いんだよな~、あれは心折られるからよ。』


何故か、こんな時に父の呑気な言葉が脳裏に響く。


苦しさからマウスピースが零れそうになるほど口が開く、それでもダウンを拒否する意思を込めて睨み続けていた。 

                    

必死で耐えている俺と、猛然と追い込む元王者の間にレフェリーが突っ込み割って入る。


どうやら、歓声が大きすぎてゴングが聞こえていなかったらしい。


相手はこちらを一瞥すると、悠々と自陣へ引き返していく。











「喋らなくていいよ。ゆっくり呼吸して、それだけでいい。」


何も知らない誰かが、今の両者の状態を見比べればさぞ困惑する事だろう。


一方は傷だらけの顔なのにピンピンしており、一方は傷の無い顔のまま満身創痍。


腹部には正に鈍痛というべき痛みが残っている。


そして、このダメージが簡単に抜けるものでは無い事も容易に想像出来た。


会場は、望むままの光景が展開されている事に興奮しているのか、凄まじいまでの盛り上がりを見せていた。


「統一郎君、僕の言うべき言葉じゃないかもしれないけど、ここからは君の精神力が試される。必ずチャンスは来る。耐えてくれっ。」


いつも具体的なアドバイスをしてくれる会長から出たその言葉が、今の状況の絶望具合をありありと示している。


自分としてもそんな会長の顔を見るのは初めてで、そんな顔をさせざるを得ない状況と己の不甲斐無さに腹が立った。


そして、満身創痍の体に静かな闘志を燃やしたまま第四ラウンドのゴングが響く。

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