第二十七話 あの日見上げた場所

時刻は十五時を回り、控室には慣れた独特の緊張感が満ちていた。


床にはこの間と同じ様にマットが敷かれており、俺はその上で体を解している。


今頃第一試合の選手は、威勢よく声を上げて控室を後にしていく頃だろう。


いつもはそれなりに密度のある控室も、今日は自分達だけのものだ。


試合が進む毎に少なくなっていく選手の姿がある種の合図になっていた感もある為、何となく不思議な感じもする。


どうやら着々と試合は進んでいるようで、廊下から聞こえるざわめきにも似た音が、第二試合の開始を告げていた。


佐藤さんは目を閉じて軽くトントンとステップを踏むと、ゆっくりと目を開く。


「佐藤選手、準備お願いします。」


それと同時に聞こえた係員の声が試合開始を告げ、表情を戦う者のそれへと変えた。


「勝ってきてください!」


そう言って拳を突き出す俺に、両の拳でトントンと上下から二度軽く当てた後、覚悟を感じさせる瞳のまま三人のセコンドの後に続いていった。


再び静寂に包まれる。


そして室内にいるのは正真正銘自分だけになった。


いつも周りには、最後の確認と険しい表情でシャドーをしたり、軽いミット打ちをしている選手もいる。


だが今日は完全に一人残され、設置されている鏡を覗くと情けない顔の男が映っているだけだ。


居ても立ってもいられず、ハッとしてシャドーを始めては止め、そわそわとしてはまたシャドーを始め、会場から洩れる歓声にドキリとしては、息を吐き自分を落ち着かせる。


人の心配などしている場合ではないと理解しているのだが、そんな風に達観できるほど成熟していないのも確か。


そんな時、ある事を思い出す。


(そう言えば…父さんもこの会場の青コーナー側控室だったな。)


当時、備前選手の世界タイトルマッチはゴールデンタイムで放映されていた。


一年ほどのブランクがあるとは言えど注目選手の再起戦、その相手として父がリングに上がると知った時には、親子共々結果など考える前に浮かれたものだ。


ふとその事を思い出し、誰も座っていない備え付けの医療用寝台に腰掛けてみる。


(そうだ。こうやって座っている父さんに俺は話し掛けていたんだ。)


今はもういなくなってしまった為、逆の立ち位置にその人は存在しないが、こうしていると初めて自分が前に進んでいる事実を実感出来た。


(もし父さんが生きていたら、どんな言葉を掛けてくれただろうか…。)


寝台に座ったまま前を見ると、一瞬そこに父が立っている気がした。


あの豪快で懐かしい笑顔を浮かべながら。


もし周りに人がいた場合、今の自分はどういう風に映っているのだろう。


そんな事も考え、そわそわしたと思ったら、いきなり何かを思い出した様にまた寝台に座る。


「ははっ。何やってんだ俺。」


誰にも聞こえない程度に呟いた時、廊下からあのざわめきが聞こえた。


立ちあがり迎えると、佐藤さんの顔は傷一つない綺麗なもの。


「勝ったんですね。その表情見れば言わなくても分かりますよ。」


結果は第四ラウンドTKO勝ちとの事。


俺の言葉に対し、出て行く時とは打って変わった穏やかな表情で頷き、


「観客席で応援してます。頑張ってください。」


熱をもって熱くなった拳を、俺の胸に押し付ける。


頷き返しそれを確認した後、笑みを浮かべシャワー室へと向かっていった。
















刻一刻と過ぎ去る度に、己の熱とは逆にこの場の熱が下がって行く様な気がする。


軽く左を突くと、会長がミットで側頭部を打つ仕草。


ガードを上げ、それを凌いだ返しでワンツー。


控室にいるのは自分達だけ、誰に気兼ねする事もない。


セミファイナルも直に終わるだろう。


深呼吸してリズムを取りながら跳ねると、会場の歓声が止んだ。


牛山さんは氷の入ったバケツを持ち、及川さんはグローブなどの最終確認をしている。


会長は俺の顔と体に軽くワセリンを塗った後、静かに口を開いた。


「出番だよ。さあ行こうか。」
























「只今より、本日のメインイベント、スーパーフェザー級十回戦を始めます。」


俺はいつか見上げた場所に立っている。


照らすライトは眩しくて、熱い。


会場は、今か今かと待ちわびた観客達の喧騒で満たされていた。


「青コーナ~九戦九勝、九勝の内三つがKO勝ち、未だ負け無し。今宵、駿河が生んだ炎の漢、その最後の花道を飾るべくやってきた北のホープ。公式計量は百二十九パウンド二分の一、森平ボクシングジム所属ぅ~日本スーパーフェザー級四位ぃとおみやぁ~~とういちろう~~。」


観客達はパチパチとそれなりに大きな拍手で迎えてくれる。


何となく雰囲気から、自分の紹介がされている最中もう次に意識が行っている空気が伝わっていた。


「続きまして赤コーナ~、三十七戦二十九勝六敗二引き分け、二十九勝の内十七勝がKO勝ち、今宵十四年に渡る長き戦いにここ駿河の地にて幕を下ろす。公式計量は百三十パウンド~帝都拳闘会所属~日本スーパーフェザー級二位、炎の漢っ!びぜん~~~~なおぉ~~まさぁ~~~~っ!」


待ってましたと言わんばかりに、地鳴りの様な大歓声。


選手紹介は赤コーナーからするのが常だが、この盛り上がりを肌で感じると、この順番がベストだと思える。


分かっていた事だったが、予想以上の大歓声に一瞬怯んでしまった。


両選手の紹介も終わり、白髪交じりのレフェリーが中央へ手招きする。


「…両者、フェアプレーを心掛け…悔いの無い試合をする様に。」


一瞬聞き間違いかと思い、レフェリーの顔を覗いてしまう。


いつもとは違い、何だか気持ちというか感情が入っている気がした。







「統一郎君、相手が相手だからね。どんな展開になっても頭に血を上らせるのだけは絶対ダメだよ。」


経験を活かしてこちらのペースを乱してくる事を予想しているのだろう。


「はいっ、分かりました。」


及川さんと牛山さんも拳を突き出してきたので、頑張りますとグローブを当てた所で第一ラウンドのゴング。


「宜しくお願いしますっ!」


激戦を予感させながら、敬意を表しグローブを合わせる。


そしてバックステップ。


相手が相手という事と、地元での試合では無い事情も相まって、今回はリング中央での戦いには拘らない。


睨みつける様に視線を向けると、備前さんはモニター越しに何度も見た構え。


腕を上げ頭部まですっぽりと覆い、重心は少しだけ落とす。


距離を取って戦う事を前提とした構えではない。


(こうして目の前で見ると、圧力かなり凄いな。それとも自分が必要以上に大きく見ているだけか…。)

「…シッ!」


まずは挨拶代わりのジャブ。


大体の選手はこの一発目で少し動きを止めてくれた。


しかしそこは流石歴戦の猛者、まるで気にした素振りも無く着実ににじり寄ってくる。


ジャブすらも返してこない事が逆にプレッシャーを増大させ、少しずつ後退しているのが自分でも意識出来た。


(この人の試合は何度も見た。決してべた足のファイターじゃない。距離を取った戦い方も出来た筈だ。意地でも接近戦をやりたいって事か?)


備前選手はどちらかというと万能型の選手である。


それなのにも関わらず、まるで相撲取りの様にどっしりとにじり寄る姿に困惑を隠せない。


「…シッ!シッ!シッ!」


ほんの数cm距離を狂わせながら、ジャブを三連打。


それでも関係ないと言わんばかりに、じりじりとプレッシャーを強めてくる。



ダンッ!



「ッ!?」


相手が足をマットに叩きつけ踏み込む素振りを見せた瞬間、大きくバックステップしてしまった。


だが、それは只のフェイント、時間差で今度こそ鋭く踏み込んでくる。


(何やってんだっ!こんな見え見えのフェイントに引っ掛かるなんて…。)


焦った俺は更に判断ミスを重ねていく。


「…ぐっ!?」


クリンチで仕切り直しを計ろうとした所に、潜り込むような右ボディストレート。


それほど効いたパンチではなかったが、踏み込まれてしまった。


そして自分よりも身長は高い筈なのに、低く低く重心を落としそこから突き上げてくる。


それも必要以上に力む事無く、ガードが空く瞬間を虎視眈々と狙いながら。


「……っ!!」


このままでは埒が明かないと、こちらも重心を下げて応戦する。


「…シィッ!」


力を込めた右フックで叩くが、足に根が張ったかの様にその芯はビクともしない。


その瞬間、トンットンットンッっとノックの様な連打。


顎、側頭部、顎、軽いパンチだが、もらった場所が悪く一瞬グラッと来た。


「…チィッ!」


何とか仕切り直しを計るべくバックステップをすると、背に弾力のあるロープの感触。


(嘘だろっここまで下がってたか!?…不味いっ!!)


一気に詰めて来るかと思われたが、爪先をこする体勢でゆっくりにじり寄ってくる。


そこでゴング、ほっと安堵の溜息が漏れた。

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