第二十六話 大切な試合

七月三日、計量日前日正午過ぎ。


今回ばかりは距離の問題がある為、前日から向かう事になった。


待ち合わせの時間、ジムの前には明君以外のいつもの面々に加え、当然及川さんの姿もある。


「今回はかなり遠いからな。佐藤と坊主は疲れたら横になっててもいいぞ。」


運転席から顔をのぞかせて、牛山さんが口を開く。


その車はいつもの六人乗りではなく、八人乗りのミニバンだ。


この日に備えてレンタルしてきたらしい。


正直、長距離移動の中ジッとしているのは減量で弱った体には結構堪える。


顔に似合わずこういう細かい心配りが出来るのは、本当に尊敬できる所だ。






高速に入ってから、心遣いに甘えて横になり会話に耳を澄ませていると、


「駿河か~。行くの何時以来かな。大学生の頃に富士山登りに行って以来だったかな。」


そう語るのは、及川さんだ。


自分はと言えば、父の試合で一度行っただけなので、殆ど覚えていない。


その試合とは勿論、備前選手の復帰戦である。


「俺は何度か行ってるな。目当ては温泉だ。」


そう語る牛山さんの言葉で、確か有名な温泉があった事を思い出し、何時かゆっくりと浸かりに行ってみたいなと思った。


「ああ~、伊豆ですか。いいですねえ~。僕も何度か行ってますけど、思い出したらまた行きたくなっちゃいました。」


いつも飄々としている会長でも疲れが溜まっているのだろうかと、少し心配になる。


そんなどこかのほほんとした雰囲気のまま、五人を乗せた車は一路駿河へと走っていく。


車に揺られて八時間以上は掛かっただろうか、着いた頃にはすっかり夜が満ちていた。


「必要な荷物は俺と会長が持ってくから、お前たちは及川さんと一緒に先に行ってろ。」


分かりましたと頷いた後、佐藤さんと一緒に及川さんの後ろを付いて歩く。


「このホテルね、富士山が見えるらしいよ?向こうのジムが取ってくれたんだって。太っ腹だよね~。まあ、そうは言っても君達はそれ所じゃないと思うけど。明日計量が終わってからもここに戻ってくるから、その時ゆっくりと見ればいいよ。」


その言葉通り、完全な絶食状態の今それ所ではない。


だがそれは飽くまでも自分はということであり、佐藤さんは結構余裕があるのか、目を細めて感慨深げに夜景を眺めている。


ホテルに着くと、その立地は富士山を眺めるには最高と言っても良い場所にあった。


ロビーに入り受付の脇に貼ってあるポスターに視線をやる。


それは全面に備前選手が押し出された明日の試合のものであった。


控えめにではあるが自分の写真も載っているので、その場にいた何人かはこちらに視線を向けていた事に気付く。


受付の人も勿論知っていた様で、小声で頑張ってくださいと囁いてくれた。


エントランスから富士はその雄大な姿を夜の闇の中に覗かせており、それを眺めると今の状態の自分でさえ心が震えてくる。


部屋は二人用を一人ずつにあてがってくれたらしく、かなりスペースに余裕があり、心にも余裕があれば子供の様にはしゃいでいただろう。


勿論食事は無い、あっても食べられないのだから当たり前である。


その後は仕上げのロードワークをした後体重を量り、大人しくベッドで横になる事にした。











七月四日前日計量当日、場所は駿河アリーナ。


コンサートや各種スポーツイベントにも使われる会場らしく、二階席もあるかなり本格的な施設だ。


調べたら最大収容人数は1万人近くと書いてあったが、この試合で売られるチケットの枚数は七千枚弱らしい。


間違いなく今まで自分が経験した会場では最大規模。


売り出されたチケットはほぼ完売しており、それだけで元王者の人気のほどが伺える。


計量会場に入ると、備前選手は既に計量を終えているらしく、その周りは地元の新聞やテレビの取材陣で賑わっていた。


「やっぱり地元でもかなり人気がある選手なんですね。」


取材陣の中心で、思いのほか上機嫌で応対する前チャンピオンが目に入る。


「そりゃそうだろうね。以前復帰戦の時も地元でやったけど、その時もかなりの盛り上がりだったらしいよ?」


会長がさも当然という口ぶりで、その光景を眺めている。


「終わりました。問題無く一発でパス出来ましたよ。」


どうやら、佐藤さんの方はいつも通り危なげなく計量をパス出来たようだ。


一方自分の方はというと、


「……ん、ん~五十八,七。はい、大丈夫ですよ。」


お願いだからその不安を煽る様な反応をやめてほしいと思いつつも、無事に通過出来た事に安堵する。


いつもの如くドリンクを口にしながらちらりと向こうに目をやると、一瞬備前選手と目が合い、こちらが頭を下げると軽く頷いた。


そしてこちらに気付いた記者の一人が歩み寄り、質問を投げかける。


「遠宮選手、明日の試合の意気込みを聞かせて下さい。」


「はい、そうですね。自分にとっては憧れの選手の一人でもあったので、備前選手と試合が出来るのは光栄です。そして…出来れば勝って力を証明したいと思います。」


備前選手はそう語る俺に視線を向け、ニヤリと不敵に笑った。


その表情は、やれるものならやってみろという意思をありありと示しており、明日の激戦を予感させるには充分だ。






会場を後にし、食べていいと意識した途端、空腹感が爆発しそうになった。


「さあ、どこで食う?」


運転席の牛山さんがバックミラー越しに視線を向けながら問い掛ける。


俺はゼリーを胃に流し込みながら指を差した。


「お前…ここまで来て全国チェーンのレストランって…。」


全員苦笑いしていたがもう我慢の限界であり、とにかく早く食べたかったのだ。


そしてレストランに入りそれぞれ注文した料理でテーブルが埋まる。


その半分近くが自分の頼んだものなのだが。


「佐藤さん…もぐ…はぐ…小食ですね。そんなんじゃ力出ませんよ?」


もぐもぐと忙しなく口を動かしながら話すと、


「いや、これが普通だと思うんだけどな…。もう結構満腹ですし…。」


そんなものかと思いながら、構わず掻っ込んでいく。


「前にも見たけど凄まじいね。遠宮君の胃ってどうなってるんだろうね。」


サンドイッチを軽く摘まんだだけの及川さんが、苦笑しながらこちらを眺めている。


その後、無事食事も済んだので一同ホテルへと帰る事にした。


部屋に行く途中の通路で何気なくガラス越しの風景に目を向ける。


すると、昨日は余裕がなく見えていなかった絶景が視界に広がった。


天気は快晴で富士の山はその全貌を惜しげもなく覗かせており、我こそはという在り方、その雄大さには思わず言葉を呑んだ。


「二人共、腹ごなしに軽く走ってきたらどうだい?きっと気持ちいいよ。」


そんな会長の提案を受け、佐藤さんと二人その絶景を眺めながら走る事にした。





「はっ…はっ…確かに気持ち良いですね。これは。」


そう語る佐藤さんの表情は、晴れ晴れとしている。


「はっ…そうですね、はっ…はっ…何と言うかこう、良い感じに気分も乗ってきますよね。」


そして、適当な所で切り上げると、夕食を済ませ明日に備える為早めに休んだ。










七月五日、天気は今日も快晴。


時刻は午前十時、荷物をまとめると全員で車に乗り込み会場へ向かう。


「二人共調子はどう?顔色を見る限り、すこぶる良さそうだけど。」


覗く様にして問い掛けてくる及川さんに、自信ありと言わんばかりの笑みを返す。


会場に着き少し間を置いた後、当日計量等を終えその時に備えた。


今回の控室は初めての個室。


個室とは言っても、俺一人で使うというよりは陣営で使うという感じだ。


いつもとは違う感覚に多少の違和感を覚えながらも、こういう部屋を専用で使えると、メインイベンターの自覚が芽生えてくる。


第一試合の開始は十六時。


第二試合の佐藤さんとは違い、自分の出番までにはまだ余裕があるので少し会場を覗いてみると、既に半分以上の席が埋まっていた。


掲げてあるのぼりには『炎の漢』と書いてあるので、備前選手の応援団なのだろう。


ではこちらの応援団はというと、今回の試合に限っては後援会の皆さんに無理はしなくていいと伝えておいた。


後援会長さんは来ると言ってくれたのだがこの距離だ、移動するだけでも相当な時間と費用が掛かる。


なのでこの前の後援会の集まりの時に、勝って必ず次に繋げるとだけ伝え、今回は吉報を待っていてくれるよう頼んだのだ。


そう言った手前、いつもの事だが敗北は絶対に許されない。


覚悟を固めている間にもぞろぞろと会場入りする観客を眺めながら、闘志を燃やす。


そうして時間を潰しているといつの間にか良い時間になっており、控室へと足を向けた。

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