第二十五話 王者の力

五月初旬の日曜、早くも夏を感じる気温の中、いつも通り葵さんの部屋に転がり込む。


「良い天気だね~、一郎君はどこか行きたい所ある?」


そう問い掛けられ頭を巡らすと、プールや海、山などが浮かんだが、日帰りで帰って来る事を考慮すると昼も過ぎている為どうにも気が乗らない。


「外に出るのは気が乗らない?良いよ良いよ、じゃあ部屋の中でごろごろしましょうかね。」


まだ何も語っていないのだが、表情を読み取っているのか、こちらの意図を正確に把握して先回りする様に語り掛けてくる。


とは言え、クーラーの効いた部屋で彼女と駄弁る以上に楽しい事が想像出来ないのも確か。


そんな事を考えていると、彼女はいつもの定位置で胡坐を掻く俺の太ももに頭を乗せ、誘う様にこちらを見上げてくる。


何が楽しいのかニコニコとしているその顔を眺めていると、こちらも楽しくなってくるから不思議だ。


「あっ、そうそう、次の試合ちょっと遠い所でやる事になったよ。」


伝え忘れていたのを思い出し、彼女の頭を撫でながら話す。


「もしかして、外国とか?それ大変じゃない?」


いつかそんな時も来るかもしれないが、今はまだその時期じゃないだろう。


「違う違う。駿河だよ。行った経験あったりするかな?」


俺のその問い掛けに、彼女は一瞬だけ難しい顔を覗かせた。


「はは…、行った事も何も、前に住んでた所だからね。お土産いらないよ?」


えっ?となったが、どういう経緯でこちらに一人で暮らしているのか探らない方がいいだろう。


誰しも知られたくない事というのはあるものなのだから。


「気を使わなくていいよ。そんなに大した事情ある訳じゃないから。只ね、私が子供過ぎて馬鹿だっただけの事だから…。」


折角気にしないようにしているというのに、そんな事を言われたら気になって仕方がなくなる。


「ふふっ、そんなに気になるんなら後で話すよ。適当な時期を見計らってね…。」


適当な日というのはいつだろうか。


彼女が短大を卒業する頃かもしれない。


そう考えると、何とも言えない寂しさが込み上げてくる。


微妙な空気が漂った部屋の中で、彼女の微笑み掛ける表情だけがいつも通りだった。












五月下旬、明君のプロテストを前日に控え、最終確認が行われる。


必要な物はあるか、道は分かるか、渋滞になるかもしれないから早めに出る等々。


検診などは勿論叔父が済ませている。


今日は明君のお父さんもジムにやってきており、色々話を聞かれた。


「会場には私も入れるんでしょうか?…そうなんですね。…なるほど。」


本人よりも緊張している様に見え、ちょっと不安が募る。


「大丈夫だよ菊池さん。会長がお墨付きやったんだから。しゃんとしろ!」


見かね、牛山さんが気合を入れるためその背中をバシィンッと叩いた。


「そ、そうですね。私が不安に思っても仕方ないですよね。やるのは明だし。」


檄が効いたか、一本筋が通った様に背筋が真っ直ぐになり、表情が引き締まった気がする。


そんな父親を横で見ている明君本人は、とても恥ずかしそうに顔を赤らめていた。


意外に本人はいたって冷静であり、緊張している感じも見受けられない。


当日になればどうなるか分からないが、今の様子を見る限りそれなりに安心感がある。


その後、頑張ってきますと告げ二人並んで帰っていった後ろ姿を眺めながら、自分を送り出した時の周りの人達もこんな気持ちだったのだろうかと感じ入る。


「大丈夫ですよね?明君。」


その問い掛けに対して会長は軽く微笑んだ後、頷く事で返してくれた。







明君のプロ試験から一週間ほど経った頃、ホームページの合格者発表欄を確認すると、しっかり彼の名前も載っており、森平ボクシングジムに三人目のプロボクサーが誕生した。


その後、届いたライセンスを眺める彼の表情は、自分や佐藤さんのそれと相違なく、ここまでやってきた達成感とスタートラインに立ったことを認識し、引き締まった表情をしていた。







明君のテストと同時期、珍しくボクシング専門誌『ボクシングフリーク』の記者がジムにやってきた。


「月間ボクシングフリークの松本と言います。始めまして。備前選手との試合に向けての意気込みなんかを、聞かせてもらいたいと思ってやってきたんですよ。」


四十代後半だろうか、白髪交じりで無精ひげを生やしたワイルドな見た目の人だ。


やはり中心は自分ではなく前チャンピオンである事は残念だが、今までこうやって直接出向いてくる事さえなかったのだから、大した進歩と言えるだろう。


「そうですね。世界タイトルにも挑戦した偉大な選手ですので、光栄に思ってます。」


取り敢えず当たり障りのない感じに答えると、記者さんの表情にあまり満足な感じは見受けられない。


「う~ん、優等生だね。若いんだからもう少し強気な発言あってもいいんじゃない?」


見た目に反して随分社交的な人の様で、話している内にこちらも砕けた話し方になっていく。


「実は父と試合した事あるんですよ、あの人。そういう意味でも楽しみな感じはありますかね。」


「ああ~、遠宮大二郎選手か。大成しなかったけど面白い試合する人だったね。」


意外な事にこの記者さんは父を覚えており、自分以外にも父を記憶に残している人がいるという事実に静かな喜びを覚えた。


「そうか、もしかしたら遠宮君を指名したのも何か関係あるのかもしれないね。」


こちらに気を使ってかそんな風に言ってくれたが、恐らくそれはないだろう。


父にとってはともかく、向こうにとっては只の調整試合でしかなかったのだから。


そうしてそれなりに長い時間取材をした後、松本さんは帝都へと帰っていった。


帰り際にまた来るよと言っていたので、後日また会う機会もあるだろう。










六月下旬、新王者となった御子柴裕也の初防衛戦が行われた。


初防衛戦は同一カードのリマッチとなる事も多い。


その理由として上げられるのは、次の試合までの興行権をチャンピオンサイドが持っている事が原因らしい。


しかし今回は交渉の末、王拳ジムが興行権を買い取って行われる流れになったらしく同一カードとはならなかった。


元チャンピオンサイドも再戦を望まなかったのだろう。


こういう場合は大体相性の良い選手をランキング内から選ぶものだが、彼は最初から一位の選手を指名しており、相手もそれを受け今回の試合と相成った。


挑戦者は菅原博隆すがわらひろたか、百七十五cmで二十五歳サウスポーのボクサーファイター。


戦績は十四戦十二勝二敗、ダイヤモンドジム所属。


自分が上を目指す上で必ず当たる事になるだろうと思っていた選手であり、何度も試合の映像を見て研究していた内の一人だ。


主武器は左ストレート、思いっきり踏み込んで打ってくるそれが、相手選手の反応を見る限りかなり伸びてきて避けにくそうなイメージがある。


ダイヤモンドジムといえば、看板選手になりつつある松田選手の所属するジムだ。


彼の試合はダウンが飛び交う派手な試合になる事が多いので、ホールのボクシングファンからの評価も高く、かなりの人気選手になっている。


話は戻り、今回も相変わらずテレビ中継も入る熱の入れようで、チャンピオンの勝利を願う空気が漂っていた。


黄色い声援が響く中、第一ラウンドのゴングが鳴ると、どうやら今回からはインファイトではなく本来の戦い方をするらしく、左のガードを胸まで下げたデトロイトスタイル。


挑戦者も果敢に打って出るが、その全てをパーリング、又はしっかりブロッキングした後、チャンピオンがきっちり返しのジャブを入れて来る為リズムに乗れていない。


(しっかり相手の体勢を見て打ってるな。余裕がある証拠だ。)


チャンピオン側の手数はそれほど多くはないが、プレッシャーを掛ける事により相手に手を出させ、その性能を計っているのだろう。


アマチュア経験からか、相手がサウスポーである事も苦にはしていない模様。


更に踏み込む隙すらまともに貰えない為、挑戦者自慢の左ストレートは未だ不発である。


チャンピオンは左グローブの構える位置を、相手の反応を見て上下左右に動かしながら、臨機応変にジャブを放っている。


軌道すら変容するその厄介さは、モニター越しでも十分に理解可能だ。


結局、挑戦者に見せ場がないまま第二ラウンドが終わった。


そして第三ラウンド、苛立った挑戦者が強引に踏み込んで左ストレートを放つ。


チャンピオンは全て見越していたと言わんばかりに、キュッと軽快な音を鳴らしたサイドステップから、鋭い右ストレートで打ち抜いた。


挑戦者は何とか踏ん張りダウンだけは拒否する意思を示すが、そこから凌げるほど甘い相手ではなく、チャンピオンが一気にロープ際まで詰めると、重心を下げ獰猛に左右を叩きつける。


(これはダウンして回復を図る方が良かったな。これじゃジリ貧だ。)


チャンピオンが強弱織り交ぜたパンチを多才な角度から放ち、ガードの隙間から滑り込んだ所で挑戦者の腰が落ちる。


そして、青コーナーサイドからタオル投入。


完勝と言わざるを得ない試合を見せつけられ、思わず深い溜息が零れた。


前王者との試合まであと一週間。


減量で弱った体ながら、芯から沸々と熱い何かが沸き上がるのを感じていた。

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