閑話 託されたもの
今までの己の試合では、聞いた事も無い黄色い歓声が響いていた。
「……セブン!、エイト!」
レフェリーが声を張り上げカウントを数えた後、立ち上がった己の顔を覗き込む。
(あ~あ…立っちまったよ。どうせもう勝てねえのは分かり切ってんのにな…。)
相手を睨みつける表情とは裏腹に、心の中ではそんな事を考えてしまっていた。
その相手、御子柴裕也の実力は戦前の予測を大きく超えるもので、今の自分ではもはや手の届かない事は誰の目にも明らかだろう。
熱戦に見えてはいるが、こちらのパンチがまともに捉えたのは一、二ラウンドのみで、それ以降のラウンドは盛り上げる為にそう見せていると感じた。
つまり、たった二ラウンドでこちらの全てを見切ったという事だ。
その底知れない能力には寒気すら覚える。
(つか、こいつ俺が戦った世界チャンピオンよりも明らかに強えぞ…。どうなってんだよ全く…。)
ボクシングファンの間では、自分は何度打たれても前に出続ける、不屈の闘志を持った炎の漢などと呼ばれているようだ。
だが、実際は違う。
自分を前に進ませるのは、いつもこの胸の中で燻る何か。
もう諦めてしまえば楽になれると、何度思ったか分からない。
そんな時、いつも胸の奥であの声が聞こえてくるのだ。
『あんたやっぱり強ええなぁ。こりゃ息子にも自慢出来るわ!』
試合後の礼儀となっている挨拶の中で交わされた、何気無い一言。
相手の視線を追ってリング下に目を向けるとキラキラと目を輝かせた子供がおり、それが男の息子である事は一目瞭然だった。
あれはもう十年以上前の事、色々な偶然も重なって決まった一度目の世界挑戦に失敗し、再起を誓って上がる、敗戦から一年以上も経過したリング。
世界戦とは言っても俺のランキングは十四位だった為、あの敗北でそれも失い世界は恐ろしく遠いものになった。
当時は強打の新星などと持て囃されており、自分を天才だと思っていたのにこのざまである。
俺がボクシングを始めたのは高校を出て直ぐ、よくある話だが、当時はやんちゃしており喧嘩の延長線上でという流れ。
定職にも就かずブラブラとしていた自分だが、何故か若者特有の根拠の無い自信には満ち溢れていた。
そんな現状もあり当時付き合っていた彼女からは猛反対されたが、プレゼントなどを買ってやったらあっさり折れて頑張ってと激励してくれた。
因みに今の妻だ。
正直自信はあったが、それ以上に上手く行き過ぎた事が一度の挫折で長期間に渡り足踏みしてしまった要因だろう。
久し振りとなる試合の調整役として選ばれたのは、三十を過ぎて大した実績も無い目に見えての噛ませ犬。
この相手なら問題無いと高を括っていたが、試合は意外な粘りを見せられ、大差の判定となったにも関わらず気分は晴れないままだった。
相手の名前すら覚えていなかったが、侮っていた自分を恥じる気持ちが生まれ、試合後の挨拶で初めて顔を見た気がする。
その表情は、負けたにも関わらずそれを一切感じさせないほど快活な笑み。
男はにっこり歯を見せて笑うと、胸に残り続ける事となるあの言葉を残した。
「有り難う御座いました!いやぁ~、有名人と試合出来るなんてラッキーだったわ!」
普通は試合で負けたらもっと悲痛な表情をしているものだが、そんな感じは見受けられず戸惑ってしまった。
そんな自分の戸惑いを感じ取ったのだろう、少し苦笑いを浮かべた後、
「負けたのは勿論悔しいけどよ。でも、憧れの選手の一人と試合出来たんだから満足よ!」
そう続けた後、視線をリング脇に落としたのを見て、誘われる様に自分もそれを見る。
「いやぁ~、でもやっぱりあんた強ええなぁ、こりゃ息子にも自慢出来るわ!」
視線の先には、父親が負けたというのに目をキラキラ輝かせる少年。
「おっと、どうやら俺は邪魔らしいから早く退く事にするわ。」
そう言って足早に引き上げた後、リングアナのインタビューが始まった。
たったそれだけの出来事、何故それがこんなにも胸に残り続けるのか、それは今となっても分からずじまいだ。
「直政!視界どうだ?ちゃんと見えてるか?」
トレーナーの真田さんが腫れた瞼を治療し、その具合を確かめる様に語り掛ける。
「問題ねえよ、おっちゃん。ぶっ飛ばしてくるから見とけ。」
おっちゃんと呼ぶのはあるボクシング漫画の影響で、最初は嫌がられたが、今では何の違和感も感じていないのか受け入れてくれる。
強気な発言をするのは、出来るからではなく、やるしかないからだ。
(あぁ、まただ。また、あの言葉を思い出している…何故だ?)
ゴングの音が響き、勝ち目などあるはずのないリングへと進んでいく。
「…っ!!」
踏み込もうとする度に、肉を抉られる様な痛みが走った。
(痛ぇなぁ…。もう諦めてもいんじゃねえか?…………まだ、駄目ってか…。)
チリチリと胸の奥で燻る何かが、諦める事を許さない。
「チィッ!!」
せめて一発だけでもと打ち終わりを狙い放つが、相手のそれはあまりにも早く、頭の中心に強烈な刺激が伝わり初めて打たれた事を認識させる。
リングに滴り落ちる血を確認して、今の自分の顔はどんな風になっているのだろうかと、自嘲気味の笑みが零れた。
それでも何とか耐え凌ぎ、ラウンドは終盤に入る。
「直政…もう充分だろう。これ以上は危険だ。もうやめよう。」
悲痛な面持ちで説得を試みる真田トレーナー。
視界が塞がり良く見えないが、首だけを横に振って意思を伝えた。
(おっちゃん、もう少しだけやらせてくれよ…、もう少しだけ…。)
少しだけ理解し始めていた。
どうしてあの時の自分がこんなにも、あの男の言葉に引きずられてきたのかを。
ラウンド開始直後から一方的に打たれる展開に、レフェリーが顔を覗き込んでくる。
(こいつは昔の俺と同じなんじゃねえか?相手を引き立て役としか見ていなかった俺と…。)
あの時の自分は確かにそういう奴だったと思う。
どう倒したらより面白くなるか、カッコいいか、そんな事ばかり考えていた。
あの男、『遠宮大二郎』と戦うまで、相手の名前すら気に掛けた事はなかった。
レフェリーが俺の体を包む様に抱きしめると、両手を交差する。
(そうだ…俺は理解していなかった…。勝つという事の意味を…。)
両陣営がリングに上がり、一方は歓喜を、一方は沈痛な面持ちを見せる。
(勝つという事は…背負うという事だ。俺は確かにあの時背負ったんだ。あの男の夢を…。)
意識はまどろみの中に消えていった。
試合から一週間ほどが経過した頃、家で寛いでいると、
「ねえねえ、お父さん。裕也君のサイン貰ってくれた?」
どうやら我が娘にとって、父親の体よりもイケメンのサインの方が大事な問題らしい。
ちなみに名は『
(こいつも来年はもう中学か。早えもんだな…。)
そう思うと、この生意気さも成長と感じられる。
「あぁ、今度な…。会う機会があったら…な。」
目頭が熱くなるのを堪え、そう言うのが精一杯だ。
その後ろには、去年生まれたばかりの次男を抱えた妻。
息子の名は『
(こいつが物心ついた時には、俺がボクサーだった事等なかった事になってるかもな。)
そう思うと、多少の寂しさと共に、この厳しい世界に息子が進む事も無いだろうという安堵感も湧き上がる。
その後娘には何度もせがまれたが、妻が助け舟を出してくれて難を逃れた。
自分を不屈の漢などと呼ぶ者達がこの光景を見たら何と言うだろうかと、複雑な思いになる。
それでも娘が可愛い事には違いなく、サインをもらうため頭を下げる事も考えたが、あまりにもプライドが無さすぎると自分に喝を入れ踏みとどまった。
その夜、妻を久しぶりの晩酌に付き合わせ、これからについて語り合う。
こちらが何を切り出そうとしているのか分かっているのだろう妻は、ただ黙ってその言葉を待ってくれている。
そしてグイっとおちょこを傾けると、おもむろに口を開いた。
「次の試合で最後にしようかと思う。その先の事は…まだ決めてない。」
妻はその言葉を、おちょこに注いだ日本酒と共に飲み干し聞いていた。
「そう…。いいんじゃない?体を壊す前に辞めてほしかったのが本音だったし。」
あっけらかんとした顔で語る妻に、少し寂しい気持ちが沸き上がる。
そして、少しの静寂の後、
「…お疲れ様でした。」
そう語る妻の声は、気のせいだろうか、少し震えていた様な気がした。
それから少し経った頃、
「会長、六月か七月に試合組めませんかね?その試合を……引退試合にします。」
会長はこちらの表情を見た時から感づいていたのだろう、優しく微笑んだ。
「随分急だな。ダメージあるだろ?もう少し先にしないか?」
「いえ、この時期でなければ駄目なんです。」
会長は大きく頷くと、寂しさを誤魔化す様に元気よく声を出した。
「分かった!任せておけ!お前の最後の試合にふさわしい相手を選んでやるからな!」
その言葉には有難くて涙が出そうだったが、生憎相手はもう決めていた。
「会長、張り切ってる所申し訳ないんですが、相手を指名させてもらえませんか?」
その言葉に意外そうな表情をした後、横で耳を傾けていた真田トレーナーが問い掛けてくる。
「直政、あんまり無理言うもんじゃないぞ。流石にチャンピオンクラスは厳しいって…。」
どうやら、自分が名のある選手を指名すると勘違いしているようで、その表情からは申し訳なさと困惑が伺える。
「ああ、違うんです。指名したい相手は格で言えば自分よりも下の選手です。」
その言葉を聞いて会長が安堵したのが目に見えて分かった。
「そうなのか。早とちりしてしまったな。で?その相手はどこの選手だ?」
わざわざ指名してまで戦いたいと言う相手に興味津々の様で、二人共身を乗り出して答えを聞きたがっている。
「はい、森平ボクシングジム所属の遠宮統一郎です。」
聞いた後、二人供が『ん?』っと視線を宙に泳がし、会長が口を開いた。
「ああっ、一昨年だったかの全日本新人王か。確かに印象深い試合をしていたが…。」
その表情はあからさまで、最後を締めくくる相手が本当にそいつでいいのかと言っている。
「構いません。どうか、マッチメイクの程よろしくお願いします。」
会長と真田トレーナーが顔を見合わせ、任せておけという返事を聞く事が出来た。
燻っていた残り火が、もうすぐ燃え尽きようとしているのを感じる。
(もうすぐだ。受け取ったものはあるべき場所に返さないとな。でもよ、あんたの夢だけじゃなく…俺の夢もおまけに乗せといてもいいよな?)
その父から受け取ったものを、息子へと返す。
その当然の事を為す為に、最後の炎を燃やす準備を始めるのだった。
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