第十三話 不自由な右手
「お客様、こちらの品など如何でしょうか。」
そう言ってショップの店員が差し出してきたのは、サファイアのピアス。
「九月の誕生石にもなっておりますので、プレゼントには最適かと。」
俺が今選んでいるのは、言うに及ばず葵さんへの誕生日プレゼントだ。
勧められた品をまじまじと眺めながら、身に着ける彼女を想像しつつ考慮していく。
そうして最終的に選んだのは、透き通った青のサファイアに三日月の装飾が添えられた品。
見た目の高級さに反して値段は手頃なので、受け取る側にも気を使わせなくて済みそうだ。
それに誕生日用のラッピングをしてもらった後、彼女の元へと向かった。
車で五十分ほど走りいつものコインパーキングに車を停め、部屋の呼び鈴を鳴らすが返事が無い。
「ごめんごめん、ちょっと買い物出てた。思ったより早かったね。」
電話をしようかと思っていた所、両手に買い物袋を抱えた彼女が走ってきた。
どうやら食料品を買いに行っていたようだ。
「今日はね~。外食じゃなくて私の手料理をご馳走しようかと思いましてね。えへへっ。」
「そうだったんだ。じゃあ、楽しみにさせてもらおうかな。」
彼女は任せてといった感じの表情をした後、鼻歌交じりにキッチンへ向かっていった。
俺はテレビでも見ながら出来上がりを待とうと思うのだが、チラチラと視界の端に映るエプロン姿の彼女が気になって集中できない。
それでも湧き上がる煩悩を抑え大人しく待っていると、何とも美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐる。
「もうすぐ出来るからね~。大人しく待ってて下さいね~。」
どうやらこちらの視線に気付いていたらしく、投げかけた笑みにはどこか色気を感じさせた。
こういう視線は女性に丸分かりらしく、見透かされると何となくいたたまれなくなってくる。
それを誤魔化す様に軽く咳払いしてテレビに視線を向ける俺を眺め、彼女は面白そうにくすくすと笑っていた。
「出来ましたよ~。どうかな?私の自信作。」
そう言って彼女が料理を運んでくると、香ばしい食欲を誘う匂いが室内に充満した。
脇には右手の怪我を考慮してかフォークとスプーンが添えられている。
「へぇ、豚の生姜焼きか。旨そうだな、もう食べて良い?」
もう我慢出来ないといった感じの俺に、どうぞ召し上がれと微笑みながら頷き返してくれる。
「いただきます。」
口に含むと、どうやらタレも自家製のようで、生姜の良い香りが鼻を抜け、火の通し方も低温からじっくり焼き上げたらしく肉の固さも申し分ない。
勿論味も文句なく、自分が作るよりも彼女が作ってくれたものの方がずっと美味しく感じられた。
そして昼食も済み、今日はどうするかと洗い物をしている彼女へと声を掛ける。
「怪我もしてるんだし、今日はここでゆっくりしていって。たっぷりサービスするから…ね。」
その言葉に思わず生唾を飲み込んでしまった。
彼女は俺を横目で捉えながら、先程迄とは違う妖艶な女の色気を漂わせている。
そして、水で塗れた手をタオルで拭きながらこちらに歩み寄ると、ゆっくり俺の首に手を回し唇を重ねた。
こちらも頭と腰に手を回し、受け入れる意志を伝え更に深く求めあっていく。
「…一郎君は動かなくて良いよ。怪我が悪化したら大変だもん。今日は私に任せて…。」
まるで夢見心地の様に響く彼女の声とその快楽に、俺は只々身を委ねる事にした。
行為が済むと、互いに快楽の余韻を噛み締めながら体を横たえ、まったりとした時間を過ごす。
「これ、やっぱり痛いよね。」
彼女は仰向けになっている俺の胸部に顔を乗せながら、右手を指差し眉を顰める。
「只ヒビが入っただけだからそこまで酷いものでもないよ。不便ではあるけどね。」
明日からの仕事でどう思うかはまだ分からないが、今の所問題は無いと思っていた。
「不便だろうね~、それじゃ。それとも左手でするの?ふふっ。」
敢えて何を、とは聞くまい。
彼女のニヤニヤとした表情が聞くまでもなく物語っているからだ。
「葵さんがいてくれるから俺にはそんな必要ないかな。それじゃ駄目?」
俺がそう返すと、軽くキスをしてくれた。
そうして日が傾いて暗くなり始めた頃、今日の一番重要な用事を忘れていた事に気付く。
折角買った誕生日プレゼントを車に置いてきてしまっていたのだ。
「そろそろ帰る?じゃあ、駐車場まで一緒に行くね。」
取りに戻ろうかと思っていたが、見送りに来てくれるのなら好都合。
「一郎君、じゃあね。今度はどこか出掛けたいところ調べておくから。…ん、何?」
「これ、葵さんの一日早い誕生日プレゼント。気に入るか分からないけど貰ってくれると嬉しい。」
恐らく俺がプレゼントを買ってくることは分かっていたはずだが、満面の笑みで返してくれた。
「…可愛いピアス。めっちゃくちゃ大事にする!ありがとっ、一郎君!」
こんなに喜んでくれると、送ったこちらとしても非常に嬉しい事この上ない。
「お返しとかは考えなくていいからね。どうしてもっていうなら、今日みたいにお手製の料理をご馳走してくれればいいから。」
無理して高額な物をお返しに渡されでもしたら、何の為のプレゼントか分からなくなる。
「分かった。一郎君がそれでいいなら、また心を込めて作らせてもらうね。」
その答えを確認した後アクセルを踏み、バックミラーに映る彼女が段々小さくなっていくのを、少し寂しく感じながら帰路に着いた。
次の日の早朝、しばらくスパーリングなどが出来なくなるのを考慮に入れ、いつもより長い距離を走った。
鍛錬の為、一時期足が遠のいていた神社の石段を何度も往復して駆け上がる。
以前は試合の度に祈願に訪れていたのを思い出し、それほど時間が過ぎた訳でもないのに酷く懐かしい気がした。
(次の試合の時は、また来てみるのもいいかもしれないな。)
汗を洗い流して出勤すると、指に包帯をしているのを見た店長が、品出しは大変そうだからある程度治るまでレジを中心にやっていこうかと言ってくれた。
正直、あまりレジに入る機会は無い為そっちの方が緊張するのだが。
案の定ミスを連発してしまい、みんなに迷惑をかけてへこんでしまった。
とは言え、あまり落ち込んでいても仕方ないので、気を取り直してジムに向かう。
どうやら今日は俺が一番最後らしく、みんなもう練習を始めていた。
「来たね統一郎君。今日からは取り敢えず早く治す事を最優先にして、焦らずやっていこう。」
そう言いながら手渡してきたのは、足首に着けるウエイト。
「しばらくロードワークに出る時は、これを付けて走ってくるといいよ。あまり重いやつを付けると筋を痛めたりするから、この軽いやつをつけてね。」
渡された感じでは、片足一㎏もなさそうだ。
「後、シャドーをする時は、このリストウエイトを付けて外してを一ラウンドごと交互に繰り返す様に。」
そう言って手首用のも渡される。
何故交互にする必要があるのかは分からないが、会長の言う通りにしておけば間違いないだろう。
「あ、勿論右を強く振ったりしないように気を付けて。しばらくは左重視でやろう。」
「はい、分かりました。と言っても、元々左しか取り柄のないやつですけどね。はは…。」
今まで右が活躍した事など数えるほどしか無い為、自嘲気味の笑いが零れてしまう。
「ふぅ~、やっぱ痛えのかそれ?その姿見る限り、あれは少し控えた方がいいんじゃねえか?」
サンドバッグを叩き終え、休憩中の牛山さんが俺の右手を見ながら語り掛けてくる。
「いや、あれは俺が不注意過ぎただけですよ。KO狙えるパンチ手に入れて調子乗っちゃいました。」
一発のパンチでKOするのは全てのボクサーが憧れる姿であるはずだ。
だが、簡単ではないから憧れるのであって、そこの所の理解が不十分だったといえるだろう。
「ま、ヒビなら精々一月くらいなもんだろ。それまで大人しくしてろよ。」
牛山さんは語りながら、明君にグローブを嵌める。
リング上では会長がミットを嵌めたまま、軽快なシャドーをしていた。
こうなってくると一番迷惑してるのは佐藤さんかもしれない。
「すいません佐藤さん。しばらくスパーリングも出来なくなって。」
何せこのジムでスパーリングの相手と言えば、消去法で俺しかいない。
「いやいや、明日からは明君とやる事になってますから大丈夫ですよ。勿論ある程度加減は有りでの話ですけどね。」
「あ、そうなんですか。確かに明君も結構なレベルになってきてますもんね。」
「ええ。正直そこまで余裕もって相手出来るほどの差はないかもしれません。」
流石にそれは謙遜が過ぎるが、そう思ってミット打ちを眺めていると成長著しい事が見て取れる。
会長のやり方を見るに、明君はかなり近距離で打ち合うタイプのボクサーの様だ。
今まで気を付けて見た事がなかったが、体全体もかなり筋肉質になってきている。
「なるほど、ゴリゴリのインファイターですね。明君の身長ってどのくらいかわかりますか?」
「確か、百六十二cmくらいだと思いますよ。潜り込まれるとかなり厄介そうです。」
「ああ確かに。相手が佐藤さんだと十二、三cmくらいの差か。寧ろやりにくくなるんですかね?」
自分の場合、リーチ差があればあるだけやりやすくなる印象なので得意な相手と言える。
「僕の場合得意ではないですね。インファイト好きじゃないんで。」
佐藤さんとはこういう所も非常に気が合う。
集客の事など考える必要がないなら、俺だってインファイトなど極力避ける方向で行く筈だ。
「ああ、分かります。何かああなっちゃうともう思考放棄させられるんですよね。」
「そうなんですよ。出来れば落ち着いて組み立てたいのに、もうしっちゃかめっちゃかで。」
気付けば明君のミット打ちを眺めながら話が咲いていた。
「お前ら…練習しろよ。」
声の方を振り向くと、シャワー帰りの牛山さんが呆れた顔で立っている。
俺たちは二人揃って軽く咳払いをした後、練習に戻っていった。
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