第十二話 大ポカ

「…っぐ!!……がっ!?」



こんなにまずいと思った感触は初めてかもしれない。


(これは…折れたか!?顔に出すなっ!平静を装えっ!)


そう自分に言い聞かせるが、どうやら相手はこちらの状態を正確に把握しているようだ。


そして最早怖いものはないと言わんばかりに、勢いよく距離を詰めてくる。


ジャブを打つ度に振動が右の拳へと伝わり痛みが走った。


(舐めんなっ!やられっぱなしで終われるかっ!まだ終わってねえっ!)


心の中で精一杯の虚勢を張り、せめて精神だけでもと迎え撃つ環境を整える。


右を殆ど使えない状態にされたとはいえ、まだ一縷の希望はあるのだから。


トルネードフックは元々左用に開発されたものであり、追い詰められた時、一発で逆転する事を想定して作られた。


正に今がその時と言えるだろう。


「統一郎!一回下がって左っ!」


いつもの呼称を付ける事無く会長が叫んでいるが、それでも後ろに下がる事はせず重心を落とし、相手のラッシュを防ぎつつじっとその時を待つ。


「…っぅ!!……っ!!」


ガードする度に痺れる様な痛みが走り顔が歪む。


この状況、守勢に回っていては悪くなる一方。


事ここに至っては、覚悟を決めて倒しに行くしかなかった。


「…シッ!」


狙ったのは、大振りなフックの真ん中を貫く左。


しかしこちらの放った左のショートストレートに、相手は構わず相打ち覚悟で振り回してくる。


当然の如く相打ちになり、一瞬視界が歪んだ。


それでも心だけは折れない。


(もう倒すパンチはないと…そう思ってるんだろ?……舐めんなよっ!)


上は固いと見たか、執拗にボディを叩いてくるが構わず叩かせ続ける。


(誘って狙う!ここで勝負に出るしかない!)


耐えかねたと見せかけて右のガードをすっと下げると、その瞬間、狙い通りに左フックを強振してきた。


(ここっ!)


相手の力のこもった左フックに狙いを定め、起死回生の一発を狙い定める。


外したら負ける、そんな気持ちが頭を過るが、色々なものに目を瞑り振り切った。



「…シュッ!!」



腰を、肩を、肘を躍動させ、手首の返しも加え大きく弧を描いたそれは、攻撃に意識が向いた相手の隙を突き、側頭部へ思い切り突き刺さった。


相手はフックを振り切らぬ体勢のまま、よろよろと前のめりになりながらロープへとしがみ付く。








「ダウン!コーナーに戻ってっ!…ワンッ、ツーッ……」


この状態では継戦能力など見込める筈もなく、形だけ息を整えると、コーナーポストを背にただ祈りながらその時を待った。


相手は直ぐに立ち上がるが、失った平衡感覚を取り戻すこと叶わず、その体は右へ左へとフラフラ流されている。


そして何とかファイティングポーズを取るが、やはり立ったままの姿勢を維持出来ず、またも尻もちを着いてしまった。


(立つなっ、立つなっ、立つなっ、立つな~~~っ。)


立たれたら終わりだという絶望感から、心の中で祈り続ける。


「………ファイブッ………エイトッ、ナインッ、テンッ!」









大博打が当たった事に暫し呆然としていた。


会場には割れんばかりの歓声が響いているが、とんでもないポカをした事でとても勝利の喜びに浮かれる気分に等ならない。


「すいません会長、指示を無視したりして…でも、あのままじゃ…。」


会場には歓声とKOタイムを告げる場内放送が響いている。


「良いよ。相手の作戦を見抜けなかった僕の責任も大きい。それよりも、今日は一刻も早く病院に行って診てもらう事が先決だ。」


項垂れる俺に気を使ってか、牛山さんも明君も押し黙ったままだ。


ふと相手陣営への挨拶をしていなかった事を思い出し慌てて視線を向けると、今まさにリングを降りようとしている所だった。


このままでは挨拶をしないまま終わってしまうと思い、急いで駆け寄っていく。


「あ、有難う御座いました。今日は良い勉強させてもらいました。」


「こちらこそ。最後に良い勝負が出来た。有難う。君は上に行ける選手だ。世界チャンピオンと戦ったっていつか自慢させてくれよ。」


そう語る笑顔は、試合前日に向けられた笑顔そのままだった。


加藤選手が今日取った作戦は、遅かれ早かれ誰かが実行に移しただろう。


そういう意味では、こんなに勉強になった試合もそうない。


「遠宮選手、こちらに。」


リングアナにそう促されるまで、インタビューの事をまた忘れていた。


「今日も劇的なKO勝利でした。この試合、ご自身では何点ぐらい付けられますか?」


「そう…ですね。三十点ぐらいでしょうか。」


「それはまた厳しいですね。完勝だった様に見えましたが、やはり上を意識してという事でしょうか。」


インタビューも終わり、リングを降りる時ちらりと最前列の一席に視線を向けると、葵さんが心配そうな目でこちらを見ていた。


心配掛けるのも嫌だったので、大丈夫という意味も含めてグッと無事な左拳を握って見せると、複雑そうな顔で微笑みながら頷いている。


ズキズキと痛むが我慢出来ないほどでは無かった為、シャワーを浴び着替えた後で叔父の車に乗り、近くの病院へ向かう事になった。













「う~ん、これは運が良かったですね。人差し指と中指の二本ですけど、亀裂骨折で済んでます。これなら早ければ一月から一月半くらいで治るかもしれませんね。」


叔父の知人でもある整形外科の先生が、レントゲンを見ながら語っている。


因みに、今日の試合のリングドクターを務めたのはこの病院の外科の先生らしい。


「良かったな統一郎。でも癖になったりするから、あんま無茶すんなよ?」


叔父は良かったというが、一月以上も右が使えないというのは大きなブランクになりかねない。


診察を終えた後、会長にも電話をし結果を伝えておいた。


『なるほど、そんなに重くなかったのは僥倖だね。大丈夫、それ用のメニューを考えておくよ。』


何気なく話していたが、その声からは安堵感が滲んでいた。


「そうだ統一郎。ビデオ取っておいたから、着くまでそれでも見てな。」


そう言って叔父が渡してきたのは、今日撮影に使ったデジカメ、車にはパソコンもある。


早速繋いで再生すると、佐藤さんの試合は第一ラウンドの終わりからしか撮れてない。


「叔父さん、やっぱり間に合わなかったじゃん。もっと早く来ればよかったのに。」


「いやいや間に合ったけど、撮影するのを忘れてたんだよ。それより佐藤君も結構強えな。第三ラウンドのカウンターなんかすげえセンス感じたぞ。」


確かに叔父の言う通り、相手の左に合わせて綺麗に右を打ち抜いている。


本人は偶々だと言っていたが、見る限り完全に狙って打っており、完勝と言っていいのではないだろうか。


しかしこの映像には一点不備がある。


インターバルの最中、リング上を殆ど映していないのだ。


だが俺の試合だけはインターバル中もしっかり映されており、ラウンドガールの姿も堪能出来た。


流石に試合中は煩悩を出せるほどの余裕は無い為、視界には入っていても殆ど覚えていない。


「統一郎…一体どこに注目してんだよ。その娘ら有名なのか?テレビあんまり見ねえから分かんねえな。」


流石に食い入る様に見過ぎていたようだ。


グラビアなどを見ても特に何とも思わないのだが、身近な存在のこういう姿は内側から何かがこう湧き上がって来る。


それはそれとして、試合に集中すると色々見えてきた。


やはりあの頭で受け止めたのは、最初から作戦であった様だ。


勿論、打ってきたらという程度のものだったのだろうが、今回は上手く嵌ってしまったらしい。


とは言え、言うは易く行うは難し。


隙があるパンチとはいえ、一秒にも満たないコンマの時間。


その刹那の時間に、何の躊躇いもなく強打に向かって自分から突っ込んでいけるものだろうか。


その考えに至った時、加藤選手が試合前に言っていた、これが最後だという言葉が思い浮かんだ。


(最後の一発が決まらなかったらどうなってたんだろ。左突いて逃げながら良くて判定勝ちって所か…。締まらないな、本当…。)


今回の試合をただ痛い目を見ただけにするか、糧とするかは自分次第だろう。


そんな事を考えながら映像見終わった頃、どうやら家に着いたようだ。


「そんなに落ち込んでも仕方ねえだろ。もうやっちまったんだから。寧ろその程度で済んだ幸運を喜んでおけばいいんじゃねえか?」


「分かってるんだけどね。…でもそうだよね。落ち込んでても仕方ないし、出来る事やるしかない。」


「それでいい。明日休みだろ?女のとこ行って慰めてもらったらどうだ?」


ニヤニヤしながら言ってくる叔父の顔には多少イラっとするが、確かにそれが良いかもしれない。


一応、葵さんにメールで聞いてみると明日は大丈夫とのこと。


あまり情けない所を見せるのもどうかと思うが、今更という気もする。


(そういえば葵さんの誕生日明後日だっだな。プレゼント何買っていけばいいだろう?)

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