第十話 複雑な思い

九月十三日泉岡県営体育館、前日計量会場。


「お互い何とか無事にパス出来ましたね。」


佐藤さんは初めてとは思えないほど落ち着いた感じで、飄々とした雰囲気を纏っている。


「本当そうですよね。この瞬間が一番ハラハラしてるかもしれません。でもそう言う割には、佐藤さんは余裕そうに見えましたけどね。」


「そんな事ありませんよ。何だかんだでリミット一杯でしたし、やっぱり緊張はしました。」


とてもそうは見えなかったのだが、顔には出ないタイプなのかもしれない。


周りを見渡すと、珍しいメンツで話をしている光景が目に入った。


成瀬ジム親子と会長、そして不可思議なほど親しげにしている牛山さん。


近くに行って挨拶がてら経緯を聞いてみると、この間の試合後一緒に飲む機会があったそうで、向こうの会長と牛山さんが意気投合して、今に至るらしい。


この社交性は本当に見習うべきものだとつくづく思う。


視線を巡らすと、何かの取材に答えている加藤選手の姿も見える。


取り敢えず耳を傾けてみると、どうやらボクシング専門誌の記者らしい事が分かった。


今まで俺の取材に赴いた事は無い為、目当ては加藤選手の方だろう。


三度もタイトルマッチに挑んだ選手なので、コアなファンがついているのかもしれない。


当然こちらにも取材にやってきていくつか質問をしていった。


その後は特にやる事もないので、佐藤さんと一緒に談笑しながら時間をつぶしていると、


「遠宮君、明日はよろしく頼む。」


背中から声を掛けられ視線を向けると、そこには対戦相手である加藤選手がいた。


「あっ、はい。どうも、こちらこそよろしくお願いします。」


前日計量の段階でこんな風に話し掛けられるとは思ってもいなかったので、少し動揺してしまう。


「うん。新人王戦見てから、最後の試合は君が良いと思っていたんだよ。」


爽やかな笑顔で、そう言われてドキッとした。


最後の試合、という事は明日で引退するのだろうか。


もしかしたらこちらを動揺させる為の罠かとも思ったが、そんな素振りは無い。


「光栄です。明日は全力でぶつからせてもらいます。」


「それでいい。こちらもそのつもりだ。良い試合をしよう。」


差し出してきた手を握り、がっちりと握手を交わす。


去っていく背中を眺めながら、今までにはない微妙な感覚が沸き上がるのを感じていた。


「何か不思議な人ですね。色んな意味でやりにくいというか…。」


佐藤さんの言葉通り、今の俺には試合前の選手の感情にあってはならないものが混じっている。


「確かに。でも、試合まではまだ時間がありますから整えておきますよ。」


自分に言い聞かせる様にそう語った後、見覚えのある三人組の少女が遠慮がちに声を掛けてきた。


「遠宮さん…明日も私達がラウンドガールやるのでよろしくお願いしますね。」


どうやら全員の計量が終わるのを見計らって挨拶に来たらしい。


若い娘さんにしてはなんとも律義な事だ。


「そうなんですか。楽しみにしています。あっ、こちらは同門の佐藤さんです。明日デビュー戦なんですよ。」


そう言って横にいる佐藤さんも紹介すると、予想していなかったのかドリンクが気管に入り咽ている。


「ゴホッゴホッ、あ、どうも。佐藤です。よろしくお願いします。」


「あ、はい、どうも。何度かジムに取材に行かせてもらっているので知っているかもしれませんが、私達BLUESEAというアイドルグループをやらせてもらってます。」


そんな感じで軽い挨拶を交わした後、三人組は帰っていった。


「驚かせないでくださいよ。まあ、若い女の子と話せてラッキーでしたけどね。」


本当に迷惑だったらどうしようと思ったが、そういう訳ではなさそうでほっとする。


そうして二人で椅子に座って休んだ後、用事が済んだらしい会長達と合流して帰路に着く事にした。










九月十四日、試合当日の赤コーナー側控室。


通常ランキングの高い方が赤コーナーになるのが普通なので、それに倣えば俺は青コーナーになる筈なのだが、こちらのホームということもあり向こう陣営が華を持たせてくれた様だ。


「佐藤、落ち着いて行けよ。まあ、相手が坊主より強えって事はねえはずだ。」


牛山さんがグローブを付けながら、緊張を解す為か語り掛けている。


こうして同門の選手を控室で眺めるのは初めての経験で、何だか新鮮に感じた。


「はい。仕事仲間も応援に来てくれているので、負けられませんからね。」


本人はとても落ち着いたもので、俺のデビュー戦の時とは大違い。


そう思い横を見ると、明君は相変わらずそわそわしてあまり落ち着いていない。


あと一、二年もしたらこちら側になるかもしれない事を考えると、少し不安に感じてしまう。


それでも人間その時が来れば、意外に腹を括れるものだから大丈夫だとは思いたいが。


「ん?どうやら時間みたいだね。行こうか、幸弘君。」


会長の言葉に頷いた佐藤さんの顔は、今まで俺が見た事も無いほど精悍だった。


もしかしたら、彼らから見た俺もこんな風に見えているのだろうか。


その背中を見送った後、控室に残されるのは当然俺一人。


今までは選手が俺だけだったから全く気に掛けなかったが、余分な人員などいないので必然的にこうなる。


室内には成瀬ジムの面々もいるが、流石に試合直前に話しかけるのはありえない。


「寂しそうだな、統一郎。集中しろ。集中。」


一人ぽつんと椅子に腰かけていると、よく聞きなれた声が耳に届く。


「あ、叔父さん、来れたんだね。でも直ぐに佐藤さんの試合始まるから、ちゃんと応援してあげてよ。」


久しぶりに都合のあった叔父も今回の試合は応援に来てくれていた。


「直ぐ戻るって。お前の方こそもっとしゃんとしろ。気が抜けてる様に見えたぞ。」


その言葉には否定出来ない部分がある。


この間の計量の時の加藤選手の顔が頭に残り、何だか非情に徹する自信が無い。


「何があったか知らねえが、まだまだ上を目指すんだろ?こんなとこで躓くなよ。」


そんなに情けない顔をしていたつもりはないが、叔父には分かってしまうらしい。


「分かってる。…そうだよな。相手がどうとか関係ない。勝たなきゃダメなんだ。」


叔父の言葉でやっと踏ん切りがついた気がして、漸く意識が集中出来ていくのが分かった。


「それでいい。余計なこと考えて勝ち続けられるほど甘い世界でもねえだろ。」


そう言って観客席に帰る叔父の背中を視線で見送った後、ガウンで頭をすっぽりと覆う。


自分の世界に籠り、椅子に座りながら深呼吸を繰り返すと、精神が試合モードに移行してきた様だ。


静かな控室には時折響く会場の歓声が聞こえ、今行われている試合の激しさを物語っている。


そうして静かに時を待っていると、廊下からは聞き慣れた声が聞こえてきており、試合が終わった事実を告げていた。


間もなく戸が開き会長達が入ってきたのを見計らって立ち上がり、少し緊張しながら結果を尋ねる。


「おう、文句のねえ結果だ。第三ラウンドTKO勝ち。坊主のデビュー戦とは比べようもねえ出来だったぞ。」


結果は上々だったようだが、自分を引き合いに出されると多少微妙な気分になる。


「それは言い過ぎですよ。たまたま上手くカウンターが当たって倒せただけですから。」


そう言う佐藤さんの顔は、多少の痣があるだけで比較的綺麗なままの状態を保っていた。


「これで統一郎君の試合に弾みを付けられたね。仲間内の空気っていうのはメンタルに影響を与えるものだから。」


確かにその通りだと思う。


これで佐藤さんが負けていたら、陣営の空気はかなり重いものになっていただろう。


心持ち気分が軽くなった俺は、ガウンを着たまま軽くシャドーを始めた。


毎試合終わる度に人が減っていき、控室の静寂も増していく。


その静寂が迫る試合の時を意識させ、否が応にもピリピリとした空気が漂い緊張感が増してくる。


「遠宮先輩、リングシューズの紐、ちょっと緩くなってるみたいなんで結び直しますね。」


どうやら視野が狭くなっていたのか、明君が指摘してくれた事には全く気付いていなかった。


「ああ、有難う。」


変わっていない様に見えた彼の成長に、俺は少し感慨を抱きながら靴紐を結び直すその姿を眺めていた。


以前の彼なら、こういった些細な事に気付く余裕はなかっただろう。


そんなに年も離れていない筈なのに、何故か保護者目線で見ている自分に気付き、少し複雑な気分になってしまった。


その後、会長にミットを持ってもらい軽く汗を流しながら心身ともに準備を進め、いよいよその時がやってくる。


「よし、じゃあ行こうか。」


後に続き通路に出ると、のぼりを掲げ道を作る後援会の人達。


その中に佐藤さんの姿も見えたので、KO勝ちしたばかりの縁起の良い拳にあやかろうと、グローブを軽く当てリングへと向かった。

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