第八話 試合前の一時
「…今、何時?もう帰る時間?」
昼寝を始めて小一時間ほど経っただろうか、彼女は眠そうな目をこすりながら上体を起こした。
「まだ二時にもなってないよ。どこか出掛けようか?」
問い掛けるが、聞こえているのかいないのか、眠そうな顔をしたまま太ももに顔を埋めてしまった。
しかしそれも束の間、急に再起動するとさあ出掛けようと言い始めたので、目的地を決める事もなく取り敢えず車に乗り込みドライブをする事に。
「どこ行こっかな~。一昨日に花火大会あったんだよね~。今日だったら良かったのにね。一郎君は行きたい所ないの?ラブホテル以外で。」
そういえば祭りなんてものにも行った事が無いなと思いつつ、口を開く。
「俺を何だと思ってるんだよ…。じゃあ、少し遠出しようか。」
話すのは他愛の無い事ばかりだが、この時間は何よりも楽しい。
そしてやって来たのは、高速を使えば一時間も掛からない場所にある水族館。
彼女とこうして出掛ける様になってから、今まで行った事の無い場所へ数多く赴く様になった。
ここもその一つだ。
水族館の規模としては小さい方だが、珍しい魚が展示されていて中々面白い。
「見て見て一郎君、前にも見たけど、やっぱりこれ凄いきもいね。あははっ。」
以前来た時と同じ事を言って眺めているのは、大王グソクムシという生物らしい。
きもいと言っている割には、何故かとても嬉しそうだ。
アーチ状のトンネルになっている場所もあり、頭上一面を青が覆い魚達が泳ぐ姿は美しい。
「何か海の底にいるみたいだね。気持ちいいなぁ~。」
俺の横では、彼女も子供のような瞳をして見上げている。
そしてこの水族館の中でも一番俺の目を釘付けにするのは、色取り取りのクラゲ達だ。
「一郎君は本当にそれ好きだね。まあ、確かに綺麗ではあるけどさ。」
自分でも何故クラゲにここまで目を奪われるのか、不思議な所ではある。
どこか幻想的で、見ていると心が癒されるからだろうか。
「そろそろ帰ろっか。試合近いんだっけ?外食は無理そう?」
少し考えるが、またそこまで切迫している時期ではない。
「いや、まだ大丈夫。今日のを試合前最後の外食にするから。」
返答した後、目に入ったレストランに車を止める。
レストランで食事を取り終え彼女を部屋まで送り届けると、既に十九時を回っていた。
「今日は寝ちゃってごめんね。あれがなければ、もう少し時間も余裕があって…ね?」
彼女の言わんとしている事は分かっている。
今日は体を重ねる時間が取れなかったという意味だ。
「そんなこと気にしなくて良いよ。まるで俺がそれだけを目的に来ているみたいじゃんか。」
行為を楽しみにしているのは否定しないが、それ以上に彼女といる時間が楽しいのだ。
「そっか。じゃあね。また来週…。」
彼女はそう言って首に手を回すと、唇を重ね、更に舌を絡めてきた。
今日はする時間がないと分かっている上で、何とも残酷な仕打ちをするものだ。
キスを終えたあと悪戯っぽく笑う彼女を背にして、俺は悶々とした気持ちを抱えたまま帰宅する事になった。
「すいません。ポスター、また宜しいでしょうか?」
八月初旬、九月十四日に決まった試合のポスターを各店舗を回って貼らせてもらう。
前回のポスターは文字だけだったが、今回の表紙には俺を含めた数人がファイティングポーズを構えた体勢で載っていた。
そして、今回の興行は地方対中央の図式で行われる様だ。
中央のジムが地方の興行に参加するというのは中々に珍しい事ではないだろうか。
「おお、いいよ。今度も頑張ってね。試合十四日か…。俺は行けそうにねえな。」
この靴屋の店主である男性が、残念そうにしている。
「まだまだこっちでやる予定なので、都合がついたら是非見に来てください。」
「楽しみにしてるよ。目の前でチャンピオンの試合が見れる日を。」
頑張りますとだけ伝え、次の店へ足を運んだ。
そうしてポスター全てを張り終える頃には空は赤く染まり始めており、その足でジムに向かうと、会長は明君と一緒に近隣のジムを回っている為、少しいつもとは違う雰囲気に感じてしまう。
「牛山さん、ミットお願いしますっ。」
「分かってるって。よいしょっと。佐藤、次お前やるから準備しとけよ。」
明君が長期休暇に入ってからは、こうして週に一回牛山さんがミットを持つ。
腕前もかなり上がってきており、もはや素人とは言えない域に達しつつある。
この年にして、ここまで身を粉にし尽くしてくれる事には本当に頭が下がる思いだ。
(あれ?そういや、牛山さんって今いくつだっけ?)
ふと気になったので、俺と佐藤さんのミット打ちが終わった後、聞いてみた。
「俺か?今年で六十一だ。分かったら少し手加減しろ。…いや、やっぱりするな。坊主に手加減されると思うと何か癪に障る。」
酷い事を言っている様な気もするが、既に還暦を迎えていたとは知らなかった。
「赤いちゃんちゃんことか、送った方がいいですかね?」
佐藤さんがそう聞いてくるので、二人で送ろうかと相談していると、
「年寄り扱いすんじゃねえよっ。お前ら二人共さっきは遠慮なくパンチ打ってただろうがよっ。」
そう言われれば、確かにその通りだ。
「俺の事よりも自分の事考えてろ。お前らもうすぐ試合だろうが。特に佐藤、体重はいいのか?」
そういえば、佐藤さんが余裕そうにしているから気にしていなかったが、減量大丈夫なんだろうか。
「大丈夫だと思います。自分の場合、落とすのは六㎏くらいなので。」
俺よりもかなり楽な数字だった。
「佐藤さん細身ですからね。でも油断はしないで下さいよ。風邪とか引くんで。」
俺も依然、それで痛い目を見た経験がある。
「なるほど、そういう心配もありましたね。確かにそうなったらきついな。」
余計なお世話かとも思ったが、言っておいて正解だったらしい。
「まあ、佐藤さんも俺も、お互い健康に気をつけて頑張りましょう。」
「そうですね。体調崩して試合とか、馬鹿らしいですもんね。」
佐藤さんとは何となく話のテンポが合う。
そのせいか、話下手な俺とでも会話のキャッチボールがスムーズにいくのだ。
「何かお前らの会話聞いてると、試合を控えたボクサーとは思えねえな…。」
のほほんとした空気に、牛山さんは呆れの浮かぶ顔でそう語った。
八月下旬、減量も本格的になり苦しい中、勧められていた例の資格試験を受けた。
正直自信は無い。
だが、この二か月くらいは結構頑張ってきたので、是非とも一発で合格したい所だ。
試験会場に入ると予想していた以上に人が多くて驚く。
百人近くは間違いなくいたのではないだろうか。
しかし合格者数に制限があるわけではなく、一定の点数を取ればいい方式なので問題ない筈だ。
試験科目は五つに分けられており、午前と午後に跨いで行われる。
そして食事も満足に取れない中、苦しいながらも何とか全ての日程を終える事が出来た。
次の日曜日、いつもと同じように葵さんの部屋でくつろいでいると、
「そう言えば、試験どうだった?合格できそう?」
行為の後の為お互いに一糸纏わぬ姿だが、それを気にした様子もなく問い掛けてくる。
「どうなんだろ。合格発表は十月の始めになるらしいから、よく分かんないな。」
それまでは、運を天に預けるだけだ。
「そっか、受かってるといいね。また同じ試験受けるのめんどいもんね。」
それもあるが、手数料などが結構掛かる為、何度もやるのは遠慮したい。
そんな風に、ベッドの上でお互いの熱を感じながら過ごしていると、ふとある事を思い出した。
次の試合のチケットを渡していなかった事に気付き、俺は横に脱ぎ散らかしている上着から取り出して渡す。
「これ最前列のチケット。無理にとは言わないけど、出来れば見に来てくれると嬉しいな。」
彼女は上体を持ち上げると、そのふくらみを隠す事もせず嬉しそうにそれを受け取った。
「必ず行くよ。一郎君のカッコいい所を見せてもらいにね。」
彼女は俺の耳に息を吹きかける様に語りながら、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべている。
そうしてゆったりとした時間を過ごし日が沈みかけた頃、名残惜しさを覚えながら帰路に着くのだった。
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