第七話 同門
「ついに佐藤の奴もプロになったか。これで二人目だな、会長。」
牛山さんの言葉に、会長も嬉しそうな表情で頷く。
六月下旬、森平ボクシングジムに二人目のプロ選手が誕生した。
俺の後に続いたのは勿論佐藤さん。
ジムに届いたライセンスを見て、感慨深げに眺めていた姿が印象深い。
そしてその気持ちは俺にも凄く分かる気がした。
スタートラインに立っただけだというのは理解しているのだが、それでも一つの区切りである事には間違い無いのだから。
「統一郎君の次の試合は、九月の初めを予定してるよ。佐藤君のデビュー戦も同時にね。」
次の試合の予定を聞いた会長が、今進めている興行の説明をしてくれる。
「今、同階級で統一郎君より上のランカーがいるジムと交渉している所だよ。佐藤君のデビュー戦の相手も同じ所で交渉中だから、楽しみに待っていてよ。」
どうやら交渉に手応えを感じているらしく、その表情は明るい。
「俺より上って事は、今が九位だから八位以上って事ですね。」
この間の試合もあり、今月発表されたランキングは一つ上がっていた。
「そうだね。上手く交渉が進めば、七位の選手と当たる事になるから、気を引き締めておいて。」
自分の階級のランカーは殆ど頭に入っており、今七位にランクされている選手は三十三歳のベテランだった筈だ。
公式では身長百六十八cm、リーチ百七十cmとなっていたはずだ。
勝ったり負けたりを繰り返してきた、正に叩き上げのボクサーと言えるだろう。
「凄いですね。もう日本タイトルが見えてきたと言ってもいいんじゃないですか?」
自分の試合も同日に行われる筈なのに、佐藤さんは結構余裕そうだ。
まあ、今から緊張していても身が持たないだろうから、在り方としてその方がいい事は確かだろう。
「まだまだ見えてはきませんよ。二位くらいにならないと…多分挑戦権は手に入らないと思いますし。」
毎年行われる、タイトルへの挑戦権を賭けた試合は、基本一位と二位の選手で競われる。
その為、うちの様な新興ジムがタイトル挑戦権を得るには、どうしてもその条件を満たさざるを得ない。
勿論ケガなどで欠場した場合は下のランキングの選手にもチャンスが回ってくるのだが、そんなことを期待するのではあまりにも志が低すぎるだろう。
「そういえば、ランキングって誰が決めてるんですか?団体の偉い人でしょうか?」
佐藤さんが、今湧き出たらしい疑問を会長に問い掛ける。
問い掛けられた会長は少し思い出す仕草をした後、口を開いた。
「国内ランキングの場合は、団体の担当者とか雑誌の記者で構成される委員会が決めてるね。試合の結果、内容、後は人気とか、言いたくないけど所属ジムの興行力とかも影響してくるかな。何事もお金が回らないと始まらないからね。」
さらっと裏の事情も暴露する当たりが、会長らしい。
「取り敢えず、勝ち続ければ何の問題もねえって事だ。坊主、分かったか。」
横で自分も興味深そうに頷いていた癖に、牛山さんはまるで最初から分かっていた様な口振りだ。
そのすぐ後には、用事があったのかいつもより遅く明君もやってきた。
ライセンスと言えば、明君も本人の意思と会長の判断次第ではそろそろだ。
丁度良く俺の横でストレッチしているので、ちょっと聞いてみる事にしよう。
「明君は、誕生日いつだっけ?もしかして、もう十六になった?」
「あ、はい。もう少しです。来月の二十日が誕生日になります。」
思った以上に差し迫っていた。
俺の中では、このジムにやってきたばかりの中学生だった時の感覚が抜けておらず、自分の事に手一杯で、周りに目を向けてやれてなかった事に今気付く。
「そっか。明君としてはライセンスいつぐらいに取りたいと思ってるの?」
「そうですね。会長の許しが出るなら、早ければ早いほど良いです。」
どうやら本人のやる気は充分の様だ。
これは後で会長に伺いを立てておかなければならないだろう。
勿論俺以上に考えてくれているのは分かっているのだが、何もしないというのは先輩として駄目な気がした。
練習後、会長と二人だけになった頃を見計らって、先程の件を問うてみる。
「うん?ああ、明君の事か。そうだね、本人も真面目でやる気もあるし、そろそろ本格的なスパー行こうか。」
とは言え、明君の体重は現在大体で五十五㎏前後。
俺の普段の体重が六十㎏代後半である事を考えると、流石に体重差がありすぎて本気でという訳にはいかない。
ならば必然的に佐藤さんにとなるわけだが、こっちもかなりの実力者。
少なくともそこいらの練習生ではとても勝負にならないレベル。
こうして考えると、選手層の薄い弱小ジムの問題点は後を絶たない。
「会長、相手はどうするんですか?俺や佐藤さんだと、ちょっと厳しいかと…。」
「それは問題無いよ。統一郎君の時と同じ方法を取るからね。」
言われて気付いたが、その手があった。
うちに適当な相手がいないなら、外に求めればいい。
「なるほど、近隣のジムを回るんですね。確かにそれなら丁度いい相手もいそうです。」
「実はね、もう話を通してあるんだよ。明君が長期休暇に入ったら回ろうかと思ってるんだ。それまでは二人に適度な手加減をしてもらって調整だね。」
もう俺の専属という訳にはいかない事実に、寂しさと嬉しさを同時に感じてしまう。
(仕方ない。会長がいない時は、牛山さんに頑張ってもらう事にしよう。)
この間、牛山さんにミットを持ってもらいコークスクリューを放つと、苦笑いの様な表情になっていた姿が思い出される。
それでも口では何ともないと言っていたので、何とかなるだろう。
「それ、何読んでるの?資格試験のテキストか~。一郎君、頑張るね~。」
七月下旬、最近は毎週日曜が来る度、葵さんの所に転がり込むのが習慣になっていた。
今俺が読んでいるのは、来月実施される医薬品関係の資格試験の教本だ。
「うん。店長が時給も上がるから取っておいた方がいいって。」
朝のロードワークが終わるとこちらに来て、夕方までまったりとした時を過ごしてから帰る。
今の俺にとって一番安らぎを得られる時間だ。
「ふ~ん、難しいの?勉強って嫌いだな~。退屈だし。」
俺も別に好きでやっている訳ではないので、その言葉には概ね同意する。
「合格率が四割くらいらしいから、そんなに難しくはないと思うけど、どうかな?」
胡坐を掻く俺の足を枕にして、彼女はいつも通り下から覗き込んでくる。
猫が日向ぼっこしている姿によく似ていて、とても微笑ましい。
だが、彼女とて日頃遊び回っている訳では無いだろう。
口ではさも自分が怠け者であるかの様に語るが、本棚には福祉関係の資格のテキストや、受講を検討しているのか、カウンセリング講座のパンプレットなどが並んでいる。
テキストには多数の付箋が挟まれており、俺の前では勉強している姿を見せないが、陰ではしっかりと努力している筈だ。
「頑張れ頑張れ、ふふふっ、ふぁ~ぁ……何か眠くなってきたね。」
彼女はそう語った後、俺の足を枕にしたままスヤスヤと気持ちよさそうに寝息を立てていた。
あまりにも気持ちよさそうで、思わずこちらまで眠りに落ちてしまいそうになったが何とか振り払い、その頭を撫でながら一人勉強に勤しんだ。
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