二章 託す者、託される者

第一話 上を目指す為に

「すいません。もし宜しければ、店頭にこのポスターを貼ってもらえないでしょうか?」


品出ししていた八百屋の叔父さんは、振り返り俺を確認すると笑みを浮かべた。


「ああ、今度の試合のか。いいよ、貼っておくから、頑張ってねっ。」


許可をもらい、お礼を言いながら丸めて筒状になったそれを置く。


「有り難うございます。もしチケットを欲しいと言う人がいたら、ポスターの下側に書いてある電話番号で受付けてますので。」


今俺が何をしているのかと言うと、あと一か月ほどに迫った試合の宣伝だ。


我がジムにとっては初めての自主興行という事で、色々手探りでやっているのだが中々新鮮な経験と言えよう。


場所は、隣町の泉岡県営体育館。


五月二十日、俺がメインイベントを初めて務める試合でもある。


出場するのは大半が地方のジムに在籍している選手で固められており、会長曰く、資金力のないジムが協力して看板選手を中心に盛り上げていこうという狙いらしい。


お礼の兼ね何か買っていこうかと思い商品を眺めていると、さっそくポスターを貼ってくれたようだ。


何となく感慨深く対戦カードに目をやると、いくつか知った名前もいる。



五月二十日泉岡県営体育館 十五時開始


第一試合フライ級四回戦 

河合武人かわいたけひと(岩田)対 土井悟どいさとる(北野ボクシング)


第二試合バンタム級四回戦 

椎名幸雄しいなゆきお(鈴木ボクシング)対 水田彰浩みずたあきひろ(東北フィットネス)


第三試合68㎏契約四回戦 

マグナム武田たけだ(鶴巻拳闘会)対 吉田忠人よしだただひと(成瀬ボクシング)


第四試合スーパーバンタム級六回戦 

相沢光一あいざわこういち(鈴木ボクシング)対 マーク堀田ほりた(宮野拳闘倶楽部)


第五試合ライト級六回戦 

広瀬浩司ひろせこうじ(宮野拳闘倶楽部)対 斎藤和也さいとうかずや(北野ボクシング)


第六試合ミニマム級八回戦 

高野正平たかのしょうへい(鈴木ボクシング)対 新実義孝にいみよしたか(成瀬ボクシング))


第七試合フェザー級八回戦 セミファイナル

日本フェザー級十一位吉村康よしむらやすし(鈴木ボクシング)対 同級十二位飯岡正いいおかただし(岩田)


第八試合スーパーフェザー級八回戦 メインイベント

日本スーパーフェザー級十二位遠宮統一郎とおみやとういちろう(森平ボクシング)対 OPBF東洋太平洋同級十四位ジェスター・サントス(フィリピン)



【ナックルフェスティバル】と銘打って行われるこの興行は、地方では珍しいほどの試合数になっている。


その中でもボクシングマニアや記者の人達にとって、一番の注目は第四試合だろう。


去年の全日本選手権者にしてアマチュアの強豪、相沢君のデビュー戦。


その注目度はいつも買っているボクシング雑誌でも取り上げられていた程だ。


実は彼がライセンスを取ったのは一月の事で、ここまで初戦がずれ込んだのには訳がある。


相沢君たっての希望で、弱い奴とはやりたくないと言っていたらしく、その実力が知れ渡り敬遠されている中で鈴木会長はかなり苦労した様だ。


まあ当たり前と言えば当たり前の事なのだが。


相手のマーク堀田という選手もデビュー戦だが、こちらもアマの強豪でB級スタートの猛者だ。


下手をすると、この興行で最もハイレベルな試合になるかもしれない。


それではメインを張る俺の立つ瀬がなくなるので、目に物を見せてやる必要があるだろう。


会長の目論見としては、俺と相沢君を二枚看板として全面に出してやっていきたいとの事。


だが向こうの事情もある為、上手くはいかないかもしれないとも語っていた。


他にも、依然俺と手を合わせてくれた広瀬さんや吉村さんもいる。


彼らもレベルの高いボクサーなので、地方興行といっても中央のそれに見劣りする事はなさそうだ。


問題は俺の相手、聞いた時には正直驚いたが、思い出すと父のキャリアも三分の一程は東南アジア系の選手との試合だった。


どうやら成瀬ジムは向こうに太いパイプがあるらしく、こういうマッチメイクはお得意なのだろう。


日本に招致する東南アジア系のボクサーというと噛ませ犬の様な相手を連想しがちだが、少なくとも今回の相手に限っては違う。


九戦八勝六KO一敗、年齢は一九歳でまだまだこれからという選手。


つまり落ちてきた十四位なのではなく、上がっていく途中の十四位という事だ。


試合の映像を見せてもらったが、バネのある柔らかな体が印象に残っている。


ふと考え込んでいた自分に気付き、練習もあるので急ぎ買ったばかりのコンパクトカーに乗り込み帰宅した。


今日は休日だが、今月からは週五日で勤め先のドラッグストアに出勤している。


まだまだ覚えてない事も多いが、一月から出ているのでそれなりには慣れて来ている様だ。


自宅に帰り着いた後、いつもの練習着に着替えジムに向かう。


戸の前に立つと、サンドバッグを叩く軽快な音が耳に届いてきた。


「お疲れ様です!」


佐藤さんも明君も、一旦手を止め挨拶をしてくれる。


正直こういうのは慣れないが、俺が遠慮していては彼らはもっとやりにくいだろう。


そう思い軽く頭を下げた後、淡々と準備にかかる。


そしていつもと同じくストレッチをこなし、シャドー、サンドバッグに続きミット打ち。


「よっしゃ、んじゃぁやるか。坊主。」


今日ミットを持つのは会長ではなく、牛山さんである。


会長はどこへ行ったのかというと、すぐ近くにある元はコンビニがあった空きテナントだ。


四月から週に一回ほどボクシング教室なるものを開いていて、今はちびっ子たちを見ている時間。


恐らくはこれからの若者にボクシングへの興味を持ってもらい、裾野を広げていく狙いだろう。


一方、牛山さんのミットの腕はどんな感じかと言うと、これが中々上手い。


どうやら教わっていたのはセコンドの仕事だけではなかったらしく、元々力が強い事もあり十分に俺の練習に耐えうる存在となっている。


寧ろ違うタイプの選手と戦っている気分になるので、偶にはこういうのも刺激になって良いかもしれない。


丁度ミット打ちが終わった頃、会長が戻ってきた様だ。


「やあ、やってるね。すまないね牛山さん。僕の我が儘で。」


謝罪をしているが、お互いそれほど気にはしていない様で声は明るい。


「そんな事ねえって会長。毎日だと流石に手が痛くてきついが、偶になら寧ろ歓迎だ。まあ、明くらいなら毎日でも問題なく出来そうなんだがな。」


その明君も最近はかなり力強くなってきたと思う。


日々の練習からも、それほど遠くない時期に来るであろうプロテストを意識している事は見て取れた。


「そうですね。それなら時々お願いする事にしますよ。よし、じゃあ幸弘君、準備良ければスパーやろうか。」


その相手は勿論俺だ。


明君同様、こちらもそろそろプロテストを受けても良い頃合いと判断したらしく、その先を見据えての練習にシフトしてきている。


佐藤さんは本当に高いレベルで基礎が身に付いているので、テスト程度なら落ちる事はまずないだろう。


仕事の都合でジムに来れない日もあるが、走り込んでいるのはこうして手を合わせれば伝わってくるのだ。


問題があるとすればスパーリング相手である俺との階級差だが、それもヘッドギアをつけ、グローブの大きさで調整しているのでそれ程問題には感じていない。


そしてボクシングスタイルは互いに左を主体とするタイプだが、その使い方は違う。


俺が左を主戦力にするのに対し、彼はカウンターの餌にする。


違う使い方をするからこそ吸収し合えるものもあり、大変有意義だ。


最近はスパーを終えた後、外でマウスピースを洗っている時などに会話をする機会も増えている。


「遠宮さんのジャブってやっぱり真似出来ないですね。カウンター合わせようにも早すぎるし。いつの間にか微妙に距離変ってますし。後、とにかく痛いです。」


「散々練習しましたからね。一朝一夕でやられたら俺の立場がありませんよ。」


「対策出来ないってのが強みですよね。ジャブはジャブですし。」


ジャブを重点的に鍛えてきたのは、その意味もある。


強力なブローというのは警戒されると使いにくくなるのが常だが、ジャブにそんな事はない。


世の中にはフリッカージャブというのも存在するが、何にでも長所があれば短所もある。


それを踏まえると、やはり奇をてらう事の無い教科書通りが一番なのもかもしれない。


それに今は新しい武器を身に付けている所で、恐らく次の試合でお披露目出来るだろう。


そしてそのパンチを活かす為には、更にジャブを磨き上げる必要がある。





ジム内に戻ると、明君がミット打ちを行っている姿が目に入った。


最近は彼とも手を合わせる機会が増えてきている。


と言っても流石に本気でやる訳ではなく、ガードが空いた所を狙い警告の意味も兼ねて軽いパンチを当てる程度のもの。


それではこちらに得るものがないと思うかもしれないが、意外にそんな事もない。


力の差があるからこそ、相手をコントロールする感覚が掴めるのだ。


彼も高校生になったので、後一、二年もすれば激しいスパーを経験する事になるだろう。


彼の本質が分かるのはその時だ。


相手が手加減している時と、本気で打ってくる時、それでも怯まず打って出られるか。


本気で打たれた時の痛みと言うのは、やはり直に感じなければ分からない。


強い心を持つというのが、ボクシングにおいて最も重要と言ってもいい資質だと思う。


こうしてこのジムもそれなりになってきたのを感じながら、夜のロードワークへと繰り出した。


だが最近、これまでと変わらぬコースを走っているのにどうも調子が出ない。


神社の石段を中段まで駆け上がると、心に隙間風が吹いている様な気さえする。


その理由は明白だ。


境内を見上げると、まだそこに笑顔を向ける彼女がいる気がしてならない。


自分の女々しさを自嘲する様に軽く笑うと、雑念を振り払い今一度駆け出すのだった。

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