一章最終話 卒業
二月十四日、世はバレンタインデーなるものに浮かれているようだ。
自分には関係ないと思いつつも、仄かな期待を抱きながら今日も石段を駆け上がる。
しかし、残念ながら彼女の姿は見えない。
少し落胆しながら家に帰り着くと、メールが届いている事に気付く。
『もう今日のランニングは終わっちゃったかな?』
それに対し俺はこう返信した。
『丁度これから行こうと思っていた所だよ。』
基礎体力の向上にロードワークは欠かせないものだ。
何も問題は無い。
かくして再度神社の境内へ。
「良かった。今日はもう終わっちゃったかと思ったよ。へへっ、寝坊しちゃいました。」
恥ずかしそうにそう話す姿がとても愛らしい。
その手には包み紙を持っており、それが何なのかは言わずもがなだ。
「はい、これ。チョコレートなんだけど、もしかして食べちゃダメだったりする?」
そんな事はある筈も無いと即座に否定する。
「良かった。多分普通に食べられると思うから。」
その言葉から手作りである事実が伺えた。
もう別れまで如何ほどもない事を思い、受け取ったチョコを大事に抱える。
「有り難う。味わって頂くよ。女の子にもらうなんて生まれて初めてだからね。」
彼女はニコニコとそう語る俺を眺めている。
そして境内に置いてあるベンチに座り、彼女と少しの時間話をした。
この時間が永遠に続けばいいのにと思うほど、幸せな時間だった。
二月某日、俺が訪れたのは遠宮家の実家があった場所のすぐ近く、今は父も眠る墓所。
「ん?誰だろ?さっき来たばかりみたいだけど…。」
墓石を洗おうとした時、自分よりも前に誰かが来ていた痕跡を見つけた。
菊が一輪、控えめに供えられているのが目に入り、少し顔が綻ぶ。
「父さん、新人王取ったよ。これからもっと厳しい戦いになると思うけど頑張るから。祖母ちゃんと、それから会った事無いけど爺ちゃんも一緒に見守っててください。」
今日は父の命日だが、色々忙しいとそれも忘れがちになってしまう。
しかし、それはあの辛い出来事を忘れられるくらい今に没頭出来ているという事でもあり、手を合わせ目を瞑っていると、様々な出来事が瞼の裏に映りこむ。
冷たい風が頬を撫で少し体が冷えてきた頃、我に返った様に供えた花を片付けその場を後にした。
忙しい毎日を過ごしていると、時間が経つのが早く感じるものだ。
慣れない仕事に自動車の教習所そして毎日の練習、不安や寂しさを紛らわす様に慌ただしくしている。
免許取得の為に念のため眼鏡を作ったが、似合っているのか自信が持てない。
そして三月も十日を過ぎた頃、我が校でも卒業式が執り行われた。
後輩に加え同級生からも写真や握手を求められ、その度に自然とは言えない表情で応対する。
「遠宮、阿部も、ほらっ、こっち来い。最後に三人で撮ろうぜ。」
田中の勧めに従い、三人で慣れない自撮り棒を使ってスマホのカメラでシャッターを切る。
この一枚は、俺の学生らしい数少ない思い出になるだろう。
田辺さんとも撮ったが、あの意味深なメールが頭を過ぎりかなり挙動不審になってしまった。
意外だったのは、叔父のかなり涙脆い一面を見た事か。
校門の横に立つ俺を撮りながら、大粒の涙を流し泣いていた。
式も終わり卒業パーティーに誘われたが、何となく気分が乗らなかった為、叔父を先に帰らせ神社の境内の長椅子に座り何をするでもなく空を眺める。
すると、ポツリポツリと傘を差す必要も感じない程度の雨が数滴肌を打つ。
「良い卒業式だったね。遠宮君は?良い思い出になった?」
てっきり卒業パーティーに行っていると思っていた彼女が、いつの間にか横から顔を覗かせており、その首元には俺がプレゼントしたネックレスが輝いていた。
「うん。でも、多分俺はずっとここにいるから、向こうが会おうと思えばいつでも会えるよ。」
皆が様々な場所に旅立っていくのを感じ、取り残された様な気がして何だか寂しい。
彼女とあの二人以外はそこまで深い付き合いをしていた訳でも無いのに、不思議なものだ。
二人並んで座ると、暫し言葉もないまま機嫌を損ね始めた空を見上げる。
少しの沈黙が場を支配し、何となく俺の方から口を開いた。
「もう少しで会えなくなっちゃうね。俺は…苦しいよ。」
上を向いたまま、声を絞り出し伝えた。
彼女は俺の視線を追う様に空を見上げた後、
「私はね、小さい頃ピアニストになりたかったの。それを友達に話したらなれる訳無いって言われて、それだけで諦めちゃったんだ。」
何の事を言っているのかと不思議そうにする俺を尻目に、彼女は話し続ける。
「それでも趣味としては続けてて、ある日境内の掃除をしている時、貴方が見えたの。毎日走ってるなぁ~って、何の為にあんなに頑張ってるんだろうって。」
柔らかな笑みを浮かべながら話す彼女の横顔を、ただ見惚れる様に眺めていた。
「それから、貴方の生い立ちや目指す場所を知って、ちょっとした事で諦めた自分が何だか恥ずかしくなっちゃって、もう一度だけ目指してみようって思えたんだよ。」
そう語った後、少しの間、またも二人を静寂が包み込んだ。
そしてこちらを向いた彼女の瞳には、今にも零れ落ちそうなほどの涙が揺れていた。
「だからね…貴方に会って、私も…っ、頑張ろうと思えたから…っ。」
苦しそうに、けれど嬉しそうに彼女は語る。
「…だから……ありがとうっ。」
晴れやかな笑みを向ける彼女の瞳からは、一筋の涙が零れ落ちていく。
俺はその美しさに囚われ視線を外す事が出来ない。
そしてどちらからともなく顔を寄せ合うと、彼女は静かに瞳を閉じてくれた。
探る様な動きでぎこちなく唇を重ね、歯がカチンと軽く当たりお互いが少し苦笑しあう。
再度、今度は失敗しないようゆっくり唇を合わせる。
啄む様なキスを重ねながら彼女を抱きしめると、少し震えているのが分かった。
それがどの様な感情から来るものか分からないまま唇を離し、またも暫しの静寂が二人を包んだ。
「…ごめんね。ずっと一緒にいてあげられなくて…でも…。」
彼女は泣きそうな顔で、桜のネックレスを握り締めていた。
そんな顔をさせてしまっているのは間違いなく俺であり、それを思うと酷く胸が痛んだ。
「俺は、明日未さんのことが…」
俺は今更になり意を決した言葉を紡ごうとする。
しかし、遮る様に口を開いたのは彼女の方だった。
「四年って長いよ?会えるのは一年に一回くらいになると思う。それに遠宮君の周りにはこれからきっと素敵な女の子が沢山現れる筈。それでも変わらないって言える?」
その言葉を聞き、それでも変わらないと言えるほど、俺は強くなかった。
時間というのは残酷だ。
救いにもなるが、同時にどんな強い感情でさえも風化させてしまう。
現に、父の亡くなった時の辛さをもう忘れかけている自分がここにいた。
声だけでは、言葉だけでは足りないのだ。
人は直接会ってその熱を感じ、本当の意味で感情を更新させていくのではないだろうか。
それが善きものにしろ、悪きものにしろ。
降る雨は徐々に強さを増したが、彼女の頬を伝うものは雨粒だけでは無かっただろう。
ただ二人で空を見上げ、俺は伝える筈の言葉を最後まで伝えられないまま、横で静かに涙を流す彼女を抱きしめる事さえ出来なかった。
その後、離れ離れになる辛さを思い出したくないと一度も境内には上らず、顔を合わせない日々が続き、彼女が旅立った後で酷く後悔した。
それでも永劫の別れというわけではないと、気持ちを奮い立たせる。
彼女が新しい場所で頑張るのなら、俺も勝ち続けよう。
例え倒れても、何度でも何度でも立ち上がって。
その活躍が、彼女の耳に届くまで。
三月も終わり、本当の意味で新しい一年が始まろうとしていた。
「よっしゃ!ロードワーク行くか。」
早朝、雪が解け若芽が芽吹く、春の装いとなったいつもの川沿いを走り出す。
これから俺はどんな道を歩んでいくのだろうか。
きっと楽な道ではないだろう。
それがどんな道だとしても、もう迷いはしない。
俺は今、幼き日、憧れと共に見上げていたあの場所に立っているのだから。
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