第43話 決勝戦

当日計量は六十四,三㎏。


五,五㎏増で前の試合とさして変わらない。


どうやら自分が丁度良いと思うくらい食べるとこの位増えるようだ。


控室に入ると相変わらずの熱気と独特の匂いが激戦の始まりを予感させ、身を引き締める。


多少の緊張感を抱きながら室内に視線を巡らせると、視界に入ったのは逞しい筋肉を纏った見覚えのある選手。


それはライト級で決勝進出を果たした松田選手その人だ。


相変わらずの剛健な雰囲気に思わず身を固くしていると、向こうからこちらに近づき手を差し出して来た。


「以前はどうも、今日はお互いに頑張りましょう。」


例えるなら、武士もののふと言った感じの雰囲気を持った人だ。


松田選手との試合は俺にとってデビュー戦で、右も左も分からない時に当たって良く勝てたものだと今でも時々思う。


彼がボクサーとしては駆け出しだった事が最も大きな要因である事は明白だ


その人と決勝の控室で会う事になるとは、不思議な縁を感じてしまう。


意外なほどの親し気な態度に表情も緩みこちらこそと言いながら差し出された手を握る。


こうして近くで見ると相変わらず鍛えこまれた分厚い胸板だ。


「統一郎君、こっちだよ。」


会長に促され腰を落ち着けると、拳にバンテージが巻かれていく。


椅子に座りながら巻き終わるまで天井に視線を彷徨わせていると、珍しい事に来客があった。


「どうも遠宮君、今日は応援するから頑張って。と言っても十人位しか連れて来れなかったけど。ゴメンね。」


後援会長の新田さんが足を運んでくれたが、同道した人数の少なさを気に掛けているのか少し申し訳無さそうにしている。


だがこちらとしては応援がいない事が当たり前になっているので、少数であったとしてもいてくれるだけで心強い。


感謝の言葉を伝えた後、集中力を高めながら今日の試合の相手について考える。


宮前和人、五戦五勝二KО、百六十九センチ、オーソドックススタイルで技巧派。


モニター越しのデータでしかないが、頭の中で展開をシミュレーションしていく。


まずはジャブの差し合い、これは勝てるだろう。


ここで負ける様なら正直かなり厳しくなるが、自信はある。


得意なコンビネーションは、踏み込むと同時に放たれるジャブから左フック。


それで決まらなかった場合、そこからアッパーを上と下に打ち分ける。


踏み込んで左を突く時は大体これに繋げてくる印象だ。


得意なパンチは左フック、KОは二つともこれなので要注意。


癖は見つけられなかった。


どちらかと言えば中間距離を得意とする、あまり穴がないタイプ。


一発の破壊力は不明、こればかりは実際受けてみないと分からない。


「統一郎君、そろそろ。」


思った以上に時間が経っていたらしく、係員のチェックが入りグローブが嵌められる。


そして会長がワセリンを手に取るのを見て、少し表情が曇ってしまった。


「坊主はいつまで経ってもそれが慣れねえんだな。」


牛山さんに苦笑され、何度目かになる感触で顔と体の表面を覆う。


(さっき前の試合が始まったばかりだから、まだ結構あるな。)


そう思い、シャドーをして体をほぐしていると、


「統一郎君、出番だよ。」


「えっ!?」


一瞬聞き間違えかと思ったが、どうやら前の試合が開始早々に終わってしまったらしい。


こういうのは不意を突かれた感じになり、実は結構困る。


そうは言っても仕方がないので、新品のガウンを纏いその後に続いた。


リングが近づくにつれざわめきも聞こえてきており、いつもよりも人の気配が濃い事に気付く。


決勝なのだから当然かもしれないが、今回はその中に俺の応援団もいるというのが何とも心強い。





「か~ず~とっ!か~ず~とっ!」


同門か友人だろう人達から相手選手の名前が連呼され、試合が始まる前から向こう応援団がヒートアップしている様子が伺える。


リングを駆け上がるとその声も一旦止み、大人しくリングアナのコールを待った。


「只今より東日本新人王決勝戦五ラウンドを行います。赤コーナー五戦五勝無敗、五勝の内二つがナックアウト勝ち、公式計量はスーパーフェザー級百二十九パウンド二分の一、王拳ジム所属、みやまえ~かずとぉ~。」


向こう応援団からの声援が響き、会場のボルテージが一段上がった。


「青コーナー四戦四勝……森平ボクシングジム所属、とおみや~とういちろう~。」


俺が紹介されると、これまではなかった声援が飛んでくる。


「よっ!地方の星!」


その声を受け、会場からは少し笑い声が漏れていた。


出来ればもう少し違う言葉を選んで欲しかったものだが。


それでも良い感じに体の力が抜けた様な気がするので、結果オーライだ。


リング中央で両者向かい合うが、お互いに俯き目を閉じて集中している。


レフェリーの説明が終わり軽くグローブを合わせた後、両者背中合わせでコーナーに戻っていく。





「相手は似たタイプだけどそれぞれ得意にしている物は違う。向こうの得意なコンビネーションの出端を挫いて調子に乗らせないようにしよう。」


マウスピースを銜えながら、頷いた所でゴングが鳴った。


軽くグローブを当て挨拶を交わした後、お互いにある程度の距離を取る。


そして牽制する意味を込め左を伸ばす。


「シッ!」


伸ばした左を払い合いながら、両者回り込み探り合う。


次第に牽制から流れを掴むための鋭い左へと変わっていき、


「シッ!シッ!」


ジャブ二発、相手の左を一発目で弾き間髪入れずにもう一発を打ち込んでいく。


パンっと乾いた音が響き、取り敢えずファーストヒットはこちらが取った。


すると相手は引く事無く強く踏み込んで、左を伸ばしてくる。


一発目は上を狙って、二発目は更に踏み込んでボディに真っ直ぐ打ち込んできた。


ボディは無警戒だった為捌ききれなかったが、浅くダメージは殆ど無い。


それでもさっきの一発を帳消しにされた様で、何とも嫌な感じだ。


取り返すべくぴくっとグローブを動かしフェイント、反応した瞬間にジャブを突く。


このまま突き合っても差し合いでは俺が勝つという明確な意思を込めたつもりだ。


(左フックを狙う。…早いラウンドでタイミングを掴んで置くべきだろうな。)


得意なパンチを狙い撃てれば、一気に流れはこちらに傾くだろう。


狙いに感づいているのか、両者中間距離で慎重な差し合いが続いた。


「シッ!シッ!シッ!」


ジャブ三発、初撃を弾かれるが、回転の差ですぐさま二発を返し顔面を捉えた。


更に追い打ちを掛けようとするが、鋭い右ストレートを放たれ一旦距離を取らざるを得ない。


すると、付け入るように踏み込んで来て左フックが放たれた。


「…っ!……シッ!」


ガードで防いだ後、更に仕掛けてくる右での追撃を下がって躱し、ジャブで動きを制する。


(重さはそれほどないが、思っていた以上に鋭い。)


そうは言っても、これを何とかしない事にはいずれ調子に乗ってくる事も目に見えている


更に集中力を高めながら中間距離で左を突く。


どうやらこの距離での主導権は握れそうな手応えがあった。


(問題はいつ来るかだな。踏み込んだリードブローから入ってくるはずだ。)


相手の一番得意なコンビネーションを思い浮かべる。


踏み込んだジャブからの左フック、これが向こうのKОパンチだ。


「シッ!」


こちらが牽制の為ジャブを放った瞬間、相手が踏み込んでくるのを察知した。


それに合わせてもう一発左を突くが、お互いの左が頬を掠める。


(…来るっ!)


狙うのはカウンター。


「…シィッ!」


放ったのは、フックの内側を真っ直ぐ走る右ストレート。


相手のKОパンチに合わせたはずのそれは、一瞬タイミングが遅かった。


こちらのパンチはまたも頬を掠めるにとどまり、一方相手のパンチは丁度俺の耳の辺りを捉える。


「…っ!?」


三半規管が乱れ平衡感覚が崩れる。


一瞬ふらっとしたが、苦し紛れに返した左が浅く当たり難を逃れた。


その時、レフェリーが間に入ってくる。


いつの間にかゴングが鳴っていたようだ。





明確にどちらのものとも言えないラウンドに、晴れない表情のまま腰掛ける。


「フックを狙い撃つのは悪い作戦じゃなかったよ。これからの相手の出方次第だけどきわどい判定になるかもしれないから、ラウンド終了間際、特に集中していこう。」


水を口に含みながら頷く。


終了間際、ジャッジに印象付ける為に出てくるかもしれないから気を付けろと言う事だ。


(これは難しい試合になりそうだな。)


集中を高める様に息を吐き、第二ラウンドのリングへ歩を進めた。


ラウンド始め、相手はいきなり踏み込んで左を突いてきた。


フックを警戒しガードを上げるが、続くコンビネーションでボディを突かれてまともにもらってしまう。


(くっそ、完全に調子に乗ってきたな。一つの事に意識が行きすぎだ。全体を見ろ。)


とにかく流れを引き戻したい為、有利に運べる中間距離で立ち回りジャブを突く。


相手はそれをしっかりとガードしながら、打ち終わりを狙って踏み込んで左を突いてくる。


しかしそこからボディ、ストレート、アッパーと変幻自在に打ち込まれ、後手を引く展開が続いた。


しかも不味い事に上はガード出来ているが、ボディはかなりもらってしまっている。


このままではいずれ足が止まるだろう。


そうなれば今度は向こうが足を使って一方的に突いてくるはずだ。


(さて、どうするか。まだ余裕のある今のうちに何か掴まないとな。)


良い状況ではないが、劣勢に立たされるのは初めてではない。


そして今まで積み重ねてきたものが間違っていないと信じるしかない。


左でフェイントを入れ、右ストレートを放つ。


相手がガードで受け止めた瞬間、踏み込んでボディ、これもガードされるが何となく良い感じだ。


(よく考えれば、相手だって同じタイプでアウトボクシングが得意な筈だ。)


思いついたらやってみろの精神で、色々試してみる事にした。


こちらの打ち終わりを狙って踏み込みながら放ってくる相手の左を掻い潜り、体が密着するほどの距離から左右のボディフックを放つ。


「…シュッ!フッ!……シッ!」


そして、相手も打ち返そうとした時に左を突きながら距離を取る。


所謂ヒットアンドアウェイというやつだが、警戒されればそう上手くは決まらなくなるだろう。


だがこうして中間距離を中心にしながらも、相手の警戒するべき選択肢を増やしていく戦法だ。


回りながら立ち位置を調整し、ちらりと電光掲示板に目を向け残り時間を確認する。


「シッ!シィッ!」


残り時間を把握した後、ワンツーから入った。


踏み込んで来ようとした瞬間に今度はバックステップ。


追ってこようとした所を、今度は逆に左を掻い潜り密着する。


そして頭がぶつかりそうな距離になった所で下がる事無く重心を落とし、そのまま左右の細かいパンチを叩きつけていく。


(あと五秒くらいか。インファイトは俺とそこまで差がない。いや、互角と言ってもいいか。)


残り時間は僅かだが、注意深く打ち返そうとした瞬間のカウンターを狙う。


そして相手の反撃が来ないままゴングが鳴った。


作戦が上手く嵌り気分が高揚する。


会長のアドバイスを思い出し、しっかりラウンド終了間際ジャッジに印象付けられたはずだ。


これには会長も満足だったらしく、


「随分上手くやったね。最後のが無かったら微妙だったけど、今ので確実に取ったと思うよ。でも、右のタイミングを計ってたから必ず打ってくるよ。気を付けて。」


一番自信のあるパンチを、という事だろう。


つまり左フックだ。


なら俺も、当初の予定通りそれを狙うとしよう。

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