第34話 骨軋む剛拳
「五十八,……九㎏。遠宮選手スーパーフェザー級リミット一杯です。」
途中、物凄く間が空いた所で血の気が引いた。
心臓もバクバク言っている。
試合前にこんなに疲れて大丈夫なんだろうか。
「良かったね。はいドリンク。ゆっくり飲むんだよ?」
会長が手渡してくれたドリンクを、まるでおちょこを傾ける様に口を付ける。
「明日の対戦相手はもう先に計量済ませて帰ったらしいから、顔会わせずに済んだね。」
何となく試合前に対戦相手と会いたくない。
会長はそんな俺の気持ちを見透かしているのだろう。
牛山さんは前回付いてきた時に自分が行っても何もする事が無いと感じたらしく、俺が移動中に口にするものを買いに出てくれている。
因みに牛山さんとは正式にマネージャー契約に近いものを結んだらしい。
車の運転に各種作業、流石に月謝をもらってやらせる事ではないと、会長が殆ど無理矢理にそういう形にした様だ。
「おう、どうだった?…って、その顔なら大丈夫だったみてえだな。」
牛山さんも心配してくれていたらしく、安堵の表情を浮かべる。
その後三人で食事をしたのだが、減量がきつかったにも関わらず平然とバクバク食べる俺に、会長は呆れた顔をしていた。
「統一郎君は本当に胃が丈夫なんだね。普通だと減量直後は胃が小さくなってるから、そんなに食えない選手が多いんだけどなぁ。」
誉め言葉だと受け取り、構わず食い続ける。
勿論、牛山さんの奢りで。
その後はいつものホテルにチェックインして休む事に。
因みに今回も叔父は仕事が抜けられず来られないらしい。
ベッドに横になると、スマホを開き相沢君にメールを打つ。
試合前は毎回彼とのやり取りが恒例になりそうだ。
今までそれで勝ってきているので、今ではジンクスみたいなものになりつつある。
『明日試合だよ。いつも通りKОは出来ないかも知れないけど必ず勝つよ。』
まだ向こうの仕事が終わる時間では無い為、暫し待つと返信が来た。
『だから、KО狙っていけ!そんなんじゃ人気出ねえぞ!』
痛い所を突いてくる。
何だかんだと興行は商売だ。
メインを張る選手に人気がなければ始まらないのが事実。
つまり、このままでは例え勝ち続けても、自分がメインの興行を張るのは厳しいという現実に直面する。
まあ、そういう所は会長に任せておけば何とかしてくれるだろう。
妙案があるような気配を漂わせているし。
(そういえば相沢君が就職してから一度もスパー出来てないな。)
やはり学生の時の様にこちらに来るというのは厳しいのだろう。
長期休暇と言えばゴールデンウイークくらいで、それでも精々数日のはずだ。
その中で、自分の練習を疎かにしてまで来るメリットを与えられるかと言われれば自信は無い。
ならば、いずれこちらから出向くのも良いかもしれない。
そんな事を考えている内に、いつの間にか眠りに落ちていた。
八月一日、試合当日空は快晴、まあ屋内だから関係ないが。
猛暑日の中、荷物を抱える二人の後について控室へ。
ギシギシとなるこのパイプ椅子に座ってバンテージを巻いてもらうのもこれで三回目だ。
周りを見ると、牛山さんは相変わらず腕を組んで門番みたいに立っている。
この迫力ある顔がこういう場所では特に頼もしい。
(相変わらず緊張はするな。前よりましになってるって事も全然無いし。)
一体同じ事を何度繰り返せばこの心臓の音は小さくなってくれるのだろう。
とは言え仕方ない部分もある。
まだたった三回目なのだから。
心臓は警鐘を鳴らす様にバクバクと脈打っていた。
自分を落ち着ける為、周りの声に耳を澄ましてみると、
『どうだ?痛くないか?』『大丈夫です。』
どうやら、今話していた選手は拳を痛めているらしい。
『いつもこっちのガード下がるから、気ぃ付けろ。』『はい。分かりました。』
俺も今まで何度も会長にミットで叩かれながら矯正されてきた。
こうして耳を澄ませていると、不安なのが自分だけじゃないと分かり少し落ち着いてくる。
「会長、少し氷貰っていいですか?」
試合前にあまり水分を取るのは良い事ではないのだが、暑さからか喉が渇いて仕方ない。
「良いけど少しだけだよ。」
許可をもらいクーラーボックスを開け氷を手に取る。
すると、前回の試合の時よりも氷が多い気がした。
「あれ?前の時ってこんなに氷入れてましたっけ?」
「ああ、念の為だから、あまり気にしなくていいよ。」
氷を多く使う事態もあり得ると、そういう相手だという事だろうか。
三度目になり周りが見えてくると、セコンドというのは結構色々な道具を持っている事に気付く。
腫れ止め金具のエンスウェル、ハサミ、綿棒、ワセリン、止血用薬を薄めた物。
(瞼とかカットしないようにしないとな。二人だけだと大変かもしれないし。)
雑念に囚われていると感じ、余計な事を考えるなと言い聞かせながら集中力を研ぎ澄ます。
係員のバンテージチェックも終わり、もう試合まで幾ばくも無いだろう。
俺が目を閉じていると顔にべちゃりという感触、最早お馴染みのワセリンだ。
これには未だに慣れない。
ふぅ~っと何度も深呼吸を繰り返していると、グローブが差し出される。
どうやら予定よりも試合の消化が早いらしく、こちらも慌ただしくなってきた。
グローブを嵌める二人も心なしか急いでいる。
今日の色は前回とは違い青。
このグローブの色についてだが、協会が定める規則ではこれと言って色への言及はないので、実は結構何でも良かったりする
大きな試合等ではどちらも同じ色だったり、凄い派手な色だったりするのだ。
恐らく試合前の話し合いで両陣営合意の元、決まっているのだろう。
(さっきと比べれば大分落ち着いてきたな。余計な事ばかり考えてるし。)
先程から考えているのは、金色のグローブを付けていた選手がいたなぁという事。
そして、それが誰だったか思い出せない事だ。
それはそれとして、体を解す為のシャドーを続ける。
調子は良くも無く悪くも無く、まあ通常運転だ。
寧ろ良すぎると欲が出て無理に倒しに行ったりしそうだから、この方が良いのかもしれない。
そんな事を考えていると、係員が通路側から入ってきて出番を伝えてくれた。
「よっしゃっ!行くかっ!」
牛山さんに背中を叩かれ、パチンという音が響く。
そして大きく息を吐き軽く頷いた後、二人の背に続き前に歩み出た。
「あ、すいません。ちょっとうがい良いですか?」
階段を上がる前に、通路脇にある水道で口を濯いだ。
会長が警戒するほどの相手だと思うと、緊張感から喉が渇く。
気合を入れ直し会場に入ると独特の熱気が充満しており、その空気が観客の入りを物語っている。
前の試合が続けて早い回のKОであった為か、その興奮から会場はざわついていた。
リングへ続く道を歩き松脂をシューズに着けると、リング上で待つ会長に視線を向ける。
その視線は眼下を捉え、いつもの様にロープを上下に広げたまま俺を待っていた。
(よしっ!行くぞっ!!)
これからの試合に弾みをつけるべく、軽やかにリングに駆け上がる。
ライトの熱気なのか、リング上は更に熱い気がした。
対角線上にいる相手に目を向けると、初めてその風貌を目にし思わず声が漏れる。
「うわぁ…。」
それもそのはず、相手の容姿があまりに想像とかけ離れすぎていた。
身長は俺と変わらないか少し低い位に見えるが、目立つのはその髪型だ。
金色に染め上げ、サイドは短く切りそろえた角刈り風味。
そしてトップはパンチパーマ。
古き良き時代の香りが色濃く残った、何と言うか、特攻服とかとても似合いそうな風貌をしている。
仲間らしき人達も会場の一角に陣取っており、そこから迫力ある檄も飛ぶ。
「はぁるぅとぉ~~っ!しばいたれや~~っ!」
それらしい巻き舌で送る声援は、正に見た目の印象そのまま。
東日本のトーナメントなのに何故か空気は関西だ。
加え、やはり標準語よりも迫力がある。
相手は仲間達の声援を背負い、流れが何となく向こうに傾いた気がした。
リングアナの両選手紹介も終わり、レフェリーが手招きして中央に呼ぶ。
「両者共、ローブロー、バッティングに気を付けて。フェアプレーを心掛ける様に。」
注意を聞きながら、相手は額が付きそうなほど顔を近づけて来ていた。
ガンつけるという表現が正しいのだろうか。
こちらとしてはそんなものに付き合うつもりは更々無い為、目を伏せて終わるのを只々待つ。
コーナーに戻ると、マウスピースを差し出しながら会長の指示に耳を傾けた。
「あの感じだと開始直後から打って出てくるかもしれないから、気を抜かない様にね。グローブを合わせたら取り敢えず距離を取って様子を見よう。」
こくりと頷き、前を向く。
そして、カァーンっと第一ラウンドのゴングが鳴った。
リング中央に進み、まずはグローブを合わせる。
その時覗き込んだ相手の目は、獣の様にぎらついていた。
(…来るっ!)
予想通り合わせたグローブが戻り切らぬうちに、力任せに振り切ってくる。
それを事前に察知出来ていた俺はバックステップで躱すが、相手はそれでも構わず、二発三発と続けて振り回してきた。
三発目をバックステップで躱した後、ジャブで動きを制す。
「…シッ!」
(これでも打ってくるようなら、次で合わせる。)
すると考えを読まれたかの如く、ぴたりと追撃が止む。
セコンドの指示かと思ったが、どうやら違う様だ。
(相沢君と同じ感覚で動くタイプか。それはそれで厄介だな。)
相手は挑発する様にガードを腰まで下げ、打って来いとアピールしている。
(ガードを自ら下げてくれるのなら有難い。ポイント取られた後で後悔すればいいさ。)
避けられるものなら避けてみろと、唯一自信のあるジャブを突く。
「シッ!シッ!シッ!……」
一発二発と入るが、相手はガードを上げようとしない。
お前のパンチなど避けるに値しないと言われている様で、これには少しカチンときて余計な力が入りそうになり、冷静さを保つべく会長に視線を向けると、左拳を少しくいっと上げた。
ジャブだけで良いという意思表示だと捉え、冷静に距離を測る。
そして自分から踏み込むのではなく、相手が間合いに入るのを待ち、
「……シッ!シィッ!」
じりじりと間合いを詰めてくるタイミングを見て、迎え撃ちジャブ。
当たってはいるし少し表情を歪める事もあるのだが、何となく嫌な空気だ。
そこからもジャブを打ちながら少しづつ回り、一定の距離を保っていた。
(この人…凄い勘の持ち主だな。まるで本当に野生の獣みたいだ…。)
そう感じるのには理由があり、再三決定打を放とうとするのだが、何故か大きなパンチを打とうとすると考えを読んだかのようにすぅっと下がる。
その為開始二分を経過しても未だジャブ以外当たっていない。
勿論こちらも時折伸ばしてくる軽いパンチ以外被弾を許していない為、このまま進められれば優勢なのは間違いない。
そう確信しジャブを突きながら回り込もうとした瞬間、肩に何かが当たる感触。
「……!?」
(コーナーポスト!?何でここまで気付かなかった!)
好機と捉えたか、相手の纏う空気が変わった。
(不味いっ!!)
そう思い、苦し紛れに左を突きながら回り込もうとするが、相手はそれを額で受け止め真っ直ぐ突っ込んできた。
(ヘッドスリップってより、頭突きだなこれは…。)
ガードを固め衝撃に備えた瞬間、
「……くっ!!?」
ズシンっと重い感触が左腕にめり込んできた。
それは今まで受けた事がないほどのハードパンチで、骨格自体が耐えられないんじゃないかという恐怖感に襲われる。
ハードパンチャーは才能とよく言うが、どうやらこの男は選ばれた側らしい。
(なるほどっ、大したパンチだっ!打ち合いになれば負けないと、そういう事かっ。)
重心を下げ、ガードを固めて凌ぐ。
「…くっ!……っ!?」
その度に骨が軋む様な衝撃を感じ、冷静さを根こそぎ持っていかれそうになる。
上体が左右に弾かれ揺らされる中、俺はどうするのが正解か必死で頭を巡らせていた。
(慌てるなっ。こういう展開は何度も経験している。こういう時必要なのは…。)
相沢君とのスパーでは、何度も今と同じ状況に追い詰められる事があった。
その為今となってはこういう展開に対する対処もお手の物。
こういう時考えもなく手を出すのが一番の悪手だと感覚が知っていたのだ。
クリンチも一つの手だが、相手もそれは警戒しておりタイミングを間違えば倒されかねない。
俺はガードを固めながらダッキングとウィービングを繰り返し、相手の呼吸やタイミングを丁寧に計り、
「……シィッ!」
パシンッ!っと相手の打ち終わりを狙い放った右のショートストレートが、綺麗に顔面を捉えた。
(……嘘だろっ!?…お構い無しかよっ!?)
クリーンヒットした筈だが、相手は意にも解せず振り回してくる。
しかしそのパンチはしっかりとガードで受け止めた。
「…ぅっ!!」
だが一発一発が恐ろしい破壊力を秘めている為、ノーダメージとはいかない。
それでもこれが最善の筈。
それにダメージという意味で言えば相手の方が間違いなく上だろう。
一番気を付けるべきなのは、ここから抜け出そうと逸りその隙を突かれる事。
(とは言え、あまり受けすぎると骨が折れるんじゃないか…これ……。)
そうして凌いでいると、拍子木の音が耳に届く。
その瞬間、漸く俺が狙い続けていた一発を放ってきた。
「シィッ!」
バシィン!っと乾いた音が響き、相手の左ボディブローとこちらの右ストレートが交差した。
強烈なボディブローだが、軌道の差でこちらのストレートが先に当たる。
どんなハードパンチャーでも、先にパンチをもらえばその威力は減退するもの。
それに生命線の足を止められない為に腹は鍛えに鍛えているのだ、一撃では屈しない。
そして睨み合ったままゴングが鳴り、第一ラウンドが終了した。
(よし!手応えはあった。ダウンこそ奪えなかったが、ダメージはかなりあるはずだ。)
優勢に試合を進められている事を確信し、気合十分自陣へと足を向けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます