第33話 その温もりに包まれて

六月も中旬を過ぎ、そろそろ試合に向けて調整をしなければならない時期。


練習後天秤ばかりに乗ると、少しずつメモリを移動させ釣り合う所を探す。


六十六㎏、六十七㎏と移動させていくが竿は下に着いたまま、つまりもう少し重いという事。


毎日量り数値は知っているのだが、願望もあり軽めから量ってしまうのは人の性。


そして漸く釣り合ったのは六十八㎏前後。


減量前とは言え、結構きつい数値だ。


会長と牛山さんも後ろから覗き込んでいる。


「肩回りや広背筋が目に見えて一回り厚くなったから、増えるのは仕方ないね。でも減量で十分なパフォーマンスが引き出せなくなるなら、この先は階級を上げる事も考えていこうか。」


原因は何かと頭を巡らせると一つ思い至る。


会長のメニューの他に、自主的にやっている筋トレで必要以上に筋肉がついてしまったのかもしれない。


これは会長の計画を狂わせてしまった可能性がある。


「大丈夫だよ。駄目だと思ったら早くに止めているし、必要な筋肉である事には間違いない。」


少し表情が歪んでいた俺を見て気を使ったのだろうか、会長がフォローしてくれる。


「でもよ、結局苦しいのは坊主自身だろ?結論お前が大丈夫かって問題なんじゃねえか?」


牛山さんの言う事はその通りだ。


俺はこの階級でやっていきたいと思っている。


某有名ボクシング漫画によれば、苦しい期間に耐えれば慣れてくると書いてあったが、過去二回そんな感覚は無く酷い空腹感だった。


つまり漫画知識が正しければ、まだまだ余裕があったとも言える。


まあ、どの道やって見なければ分からないというのが本音だ。


今回は試合の前に学校が長期休暇に入るので、それがせめてもの救いか。


「そういや今回の相手、どんな奴か分かってんのか?」


次の試合の相手は、シード枠に入った選手で高橋晴斗たかはしはるとという選手だ。


戦績は二戦二勝、そのどちらもKО勝ちを収めており戦績だけ見るとかなり怖さがある。


所属は『ネクストジム』というちょっと変わった名前だ。


調べてみると、元々フィットネス等を中心にしていたジムの様で、チャンピオンクラスの選手はまだいないらしい。


今の所名前と戦績以外分からないが、相手の情報で覚えておくべき事がある場合、会長が教えてくれると思うのであまり気にし過ぎない方が良いだろう。








六月下旬、相変わらず暑い日が続いている。


早朝のランニングでも汗がよく出るので、減量には助かる季節だ。


計算だと一週間で二㎏ずつ落としていけば間に合う計算になるが、過去二回の経験上一気に落ちにくくなる一線があった。


しかも前回よりも重い体重からスタートなので、余裕をもって落とすのが正解だろう。


取り敢えず今回も過去二回と同じやり方で行こうと思う。


水分を一週間くらい前まではそれなりに取るようにして、食事量は徐々に減らし夜は特に少なくする。


後は計量直前で調整、これで行こう。


練習後ストレッチ等をこなし体重計へ、六十六,五㎏まあこんなものだろう。


想定していたより落ちていないが、想定内の誤差だ。


まだ一月あるので精神的にも余裕がある段階、慌てる時期では無い。


「どうだ?なんとかなりそうか。」


心配そうに聞いてくる牛山さんに、大丈夫と力こぶを見せる。


実際まだまだ始まったばかりで体力的には余裕だ。








七月に入り一週間。


朝晩のランニング、少し距離を増やした。


いつもは八㎞程度だが、今は十㎞以上走っていると思う。


空腹感が結構酷いが、今は水分がそれなりに取れている分ましだ。


だが、この時期の練習はいつもより厳しいメニューを強いられる。


「休まない!ガード下がってる!こちらが苦しい時は相手も苦しい!ラスト十!」


いつもやっているはずのミット打ちが、恐ろしくきつい。


いつもは優しい会長がこの時ばかりは鬼に見える。


練習後体重計に乗ると、六十四,二㎏、まずまず順調だ。








七月中旬、朝起きたらまず体重計に向かう。


もはや日課だ。


六十二,五㎏、寝る前から三百gくらい減っている。


普通は五百gから一㎏くらいは減るらしいが、この状態では仕方ないだろう。


学校がある日の朝食は茶碗一杯分くらいのご飯と納豆、加え味噌汁。


あまり動かないので昼に果物を少し食べ、夜は食べない事を心掛ける。


実際これが正しいのかどうか分からない。


ネットで調べても皆それぞれのやり方があるようで、適度に食べて動いた方が良いと言う人や、中には空腹感を紛らわす為、脂身を食うとか言う人さえいた。


調べても正解は分からず、結局経験を積みながら自分に合うやり方を探すしかないみたいだ。


少し焦りが出てきた感があるが、大丈夫と言い聞かせる。


計量前日か二日前くらいから、完全に水分を断てば何とかなるだろう。


まだ空腹感はそれなりにあるが、少しずつ薄らいで来た様な気もする。


顔を洗い、朝食を取り、叔父に行ってきますと告げた。


「気を付けて行けよ。……いや、送ってってやろうか?」


そんなに酷い顔をしているのだろうか。


自分ではまだまだ元気なつもりなのだが。


学校はもうすぐ長期休暇に入る為、その後はかなり楽になるだろう。


そして強い日差しがを照りつける中、ふらつく頭を何とか覚醒させやっと教室に辿り着く。


「おっす遠宮。…また頬がこけてきたな。倒れそうだぞお前。」


田中が言うほど本人はきつくないのだが、見た目でそう見えるのだろうか。


因みに田中所属の野球部は一回戦負けで、三年生は敢え無く引退となった。


「お、お早う。遠宮君。減量ってやつだよね。何かリアルだね…。」


阿部君も何だか病人を見る様な目で見てくる。


「大丈夫。見た目ほど弱ってない。ほら。」


俺はそう言いながら、力こぶを見せる。


「おおっ、お前脱いだら凄いんですってやつだな。」


田中は体育祭の一件以来俺を弄られキャラのような扱いをしてくるので、偶には逞しい所を見せて払拭しておかなければならない。


「す、凄く太くて固いね。普通の高校生レベルじゃお目に掛れないよこれは。」


阿部君はもう少し言い方を考えてほしい。


何人かの女子がこっちをチラチラと見ているじゃないか。







七月も下旬に差し掛かり、計量日まで一週間を切った。


本日の練習も終わり恒例の計量タイム。


六十,七㎏、一見順調に見えるが、三日前から八百g程度しか落ちていない。


(大丈夫。何とかなる。まだ食事も減らせるんだから。大丈夫だ。)


心の中で強がるが、食事は一日で茶碗一杯分くらいなので減らすなら殆ど絶食状態となる。


そういえば今は殆ど空腹感を感じなくなった為、そういう意味では不思議とそこまできつくない。


だが、水分を抑えているせいかそっちがきつい。


「やっぱり相当きつそうだね。統一郎君は普段から減量初期状態みたいな生活してるからね。」


会長にも心配をかけてしまっているので、笑顔で大丈夫と返しておく。








計量二日前の夜、練習後体重計へ。


五十九,六㎏でリミットまでは七百g、大丈夫、何とかなりそうだ。


食事はもう殆ど取っていないが、水分の方は抑えているとはいえ少しは取れている。


今から計量まで、完全に断てば行けるはずだ。


(ああそうだ…。ロードワークついでに願掛けもしていこう…。)


重い体を引き摺りながらいつものコースを走り、神社の境内へ続く石段を登る。


「はぁっ…はぁっ……」


やはり弱っているのか、乱れた息が中々戻らない。


こんな事で勝てるんだろうか、ふとそんな不安が頭を過ぎった。


(新人王戦が終わったら階級上げるか…………それは何か嫌だな。)


どうやら自分でも思いの他この階級に拘りがあるらしい。


階級を変える事を想定すると、何故か情熱まで消え去っていく気がするのだ。


これも減量のせいなのだろうが、普段考えない事まで考えが及んでしまう。


今まで、現状、これから、色々な不安が心には根付いている。


学校に来た求人に目を通したが、近場の工場等は短い間隔での交代勤務が全てで、それ以外となると距離の問題もあるし残業や試合の時の休暇の問題もあり、面接で正直にそれを話して雇ってくれる企業は無いだろうと予想出来る。


立ち竦みながら夜空を見上げて思案に耽っていると、このまま突っ走って大成出来なかった未来を想像してしまった。


例えば十年先ボクシングを辞めた後、只の無職もしくはバイト等で食い繋いでいる自分を想像する。


あまりの惨めさに涙が込み上げてきた。


本当にこのまま突っ走っていいのか?そんな迷いが頭を過ぎる。


(俺は何になりたかったんだろう…。世界チャンピオンになりたい訳じゃなかった気がする。)


色々な考えが巡る中、いつか会長に明言したはずの言葉まで否定してしまう。


いつもなら絶対にそんな事は思わないはずだが、夜の静寂と闇が弱った心を更に沈ませていくのだ。


(俺は父さんの様になりたかった。だからこの階級じゃなければ意味が無いと、そう感じてしまうのだろうか?)


思考はぐるぐると答えが出ないまま、回り続ける。


(そもそもジムを起ち上げる事にしたって、どうせ無理だと分かった上で言ってみただけだったんじゃないのか?他の所に行ってやるほど情熱なんて無かったんじゃないか?)


一度悪い方向へ向かった思考は、際限なく落ちていく。


(大体こんな所でやっとこさ勝ててる程度の奴が、上なんか行けるわけないっ!ましてや世界なんか…。)


夜の境内の賽銭箱の前で、一人佇む。


傍目から見ればさぞ危ない奴だと思われるだろう。


(只の思い付きで人振り回してっ!本気でもないくせにっ!最低じゃねえかっ!)


気付けば悔しさからか情けなさからか、ポロポロと涙が頬を伝い零れ落ち、まだこんなに水分があったのかと不思議な感覚を覚えていた


「どうしたの?大丈夫?遠宮君だよね?」


突然聞き覚えのある声がして、慌てて涙を拭う。


夜だから誰もいないと思って油断していた。


偶然にしてもあまりにタイミングが悪すぎるだろう。


泣いている顔など見られたくない為、俺はぷいっと顔を背けた。


「な、何でもない。ちょっと願掛けしてただけ…。」


どこに泣きながら願掛けする奴がいるというのか。


乾いた口から精一杯の声を出して答える。


明日未さんは何も聞かずハンカチを取り出すと、涙を拭いてくれた。


弱っている時に優しくされると更に泣きたくなり、涙と共に普段は絶対口にしない弱音が次々零れていく。


「俺はっ、わがままなガキでっ、人振り回してっ、後に引けないからやっててっ……」


俺は一体どうしてしまったんだろうか。


自分でも何を言っているのか分からない事を繰り返していた。


彼女はそんな俺を、子供をあやす様に頭を撫でながらうんうんと頷いている。


一通り毒を吐き終えると、それなりの時間が経っていた。


そうなれば必然、頭も冷えて冷静さも戻ってくる。


とんでもなく恥ずかしい状況である事に気付き、金魚みたいに口をパクパクしていると、


「落ち着いた?良く分からないけど、こんなにやつれるまで頑張ったんだね…。」


優しく囁きながら頬を撫でられ、普段なら狼狽える所だが今はそんな余裕さえなかった。


「俺はそんな大した奴じゃなくて、只の我が儘なガキだ。」


思わずぶっきらぼうな態度で取ってしまう。


これでは母親に甘える本当の子供みたいだと己を恥じるが、彼女はそんな俺の言葉を静かに微笑みながら聞いてくれている。


そして一通り聞き終わった後、幼い子供を勇気づける様に優しく語り掛けてきたのだ。


「仕方なくやってる事でそこまで頑張れるほど人って強くないと思うよ?それが出来るっていうのは、これ以上ないほど貴方が本気だからだよ。きっと。ね?」


彼女の言葉は、綺麗な声も相まって俺の中にスゥーッと染み込んで行く様だった。


さっきまで心を覆っていた不安がが嘘の様に晴れていく。


そうだ、本気じゃないなど有り得る訳が無い。


例え始まりが思い付きで言った事でも、この道を行くと決めたのは俺なのだから。


「あ、でも、仕事で過労死する人とかもいるよね。一概にそうとも言えないのかな?」


そんな事を俺に聞かれても、分かる訳がない。


折角凄く良い言葉をもらって感動していた所だったのに…。


それでも、体は重いままだが心は軽くなった気がする。


ここ最近は父の試合を見た時の感動を忘れていたかもしれない。


確かにあの時、父の歩けなかったその先を俺が歩いて見せると誓ったのだ。


俺は彼女に礼を告げ境内を後にした。


肝心の願掛けを終えていない事に気付かないまま。








計量当日、念の為出発前に再度体重計に乗る。


58,8㎏。


ほっとするが、向こうの計量とはズレがあるかもしれないので油断は出来ない。


体は水分を完全に断っている為、軽い脱水症状を起こしている状態だ。


「何とかなったね。やっぱりトーナメントが終わったら階級上げようか?」


会長が気遣いから問い掛けてくるが、俺の答えは決まっていた。


「…この階級でやっていきます。」


喋るのが少しきついが、これはしっかりと伝えておかないとならない。


会長はそれ以上何も言わず、ただ頷いた。

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