第31話 この先の事

試合翌日の四月十日。


早朝目が覚めると、まず鏡を見る。


多少の痣は所々あるが、前ほど酷い顔にはなっていない様で一安心だ。


確認を終えた所でストレッチをした後着替え、軽めに走る。


試合の後だが今回はそれほどのダメージを負っていない為、休むのは何だか気分的に落ち着かない。


検診もいらないと昨日叔父に言ったのだが、頑として譲らず、今日は少し遅れて学校に行く事になりそうだ。


軽めのロードワークを終え自宅に戻ると、既に叔父も起きており、眠そうな目をしたまま挨拶をしてきたので取り敢えず返しておく。


そしてシャワーを浴び食卓へ向かうと、珍しく叔父が用意を済ませていた。


だが基本的に料理をしない叔父が用意したのは、全てレンジでチンのお手軽なもの。


しかも普段はあまり見ない唐揚げ等の脂っぽい物が多くある。


普段はなるべく低脂肪高タンパクを心掛けているのであまりこういうものは食べないが、試合直後なら俺にも多少の甘え位は出る。


何より、折角叔父が用意してくれたものに口を付けないのでは、あまりに可哀そうだ。


「この後、一緒に病院行くぞ。軽く診るだけだ。直ぐ終わる。」


学校側には既に叔父が連絡をしているらしい。


向こうもこちら側の事情を知っている為、話が早くて助かると言っていた。







「うん、問題無し。もう行っていいぞ。」


言う通り検診は直ぐに終わり、思ったより早く学校に向かう事が出来そうだ。


だが時計を見ると二限目が始まったばかり、授業の途中で入っていくのは嫌なので少し時間を潰す事にした。


まるでサボっている様な感覚で、そわそわした気分を抱えながら本屋に入る。


向かったのはスポーツ雑誌の置いてある棚。


毎月買っているボクシングの月刊誌を手に取ると、ばらばらと捲っていく。


後ろにある白黒の記事の部分に、新人王戦のトーナメント表が乗っており、注目の選手などは写真付きで紹介されている。


勿論俺も名前だけは載っていて、それだけでも興奮するには充分だったが、いつか俺もカラーページで特集される様な選手になりたいとも思った。


そして丁度良い時間を見計らい、雑誌を会計した足でそのまま学校に向かう事にした。






「おっす。遅かったな遠宮。もしかしてサボりか?」


席に着くと、右隣の田中がそんな風に茶化してきたので、冗談っぽく肯定しておく。


左隣の阿部君にも挨拶すると、


「お早う遠宮君。あ、あれ?…何か顔に痣出来てない?」


それを聞かれると返答に困ってしまう。


因みに片方にだけ君付けなのは、単に心地良い距離感が人によって違うだろうと配慮しての事だ。


彼らとは知り合ってまだ間もないが、何となく馬が合う気がする。


そんな思いもあり、ボクシングをやっている事を彼らには話しておこうかと思った。


そんな事も話せずに友達もないだろう。





昼休み、三人で昼食を食べている時にあの話を切り出してみる。


「あの…さ…えっと…。」


しかし、いざ切り出そうとするとどうにも気恥しく先が紡げない。


上目使いでもじもじとするその様は、さぞ気持ち悪く映っていた事だろう。


「な、なんだよ…。便所でも我慢してんのか?」


田中が怪訝そうな表情でこちらを見やる。


「待って、何か話したいみたいだよ。あ、もしかして、下ネタ関係かな?」


阿部君は全く見当違いな方向に考えが行ってしまっている。


「そうならそうって言えよ。良いやつ持ってるぜ~俺。貸してやるよ。」


田中も勘違いしてひそひそと小声で話し始める。


「い、いや、違うって。それは…まあ…借りるけどさ。」


このままではきりがないと、意を決して口を開いた。


「あのさ、実はボクシングやってて……」


人に聞こえない様に小声で話し始めると、彼らもそれを察してか、耳を澄ますべく顔を寄せてくる。


そしてひとしきり聞き終えると、二人で顔を見合わせ、


「マジか。プロボクサーが身近にいるとか何か凄えな。女にモテそうだし。」


田中も俺に気遣ってか、ひそひそと言葉を交わす。


モテた事等一度も無いので、言っている事には頷けないが。


「う、うん。本当に凄いよ。いつかテレビとか出られるかも。」


目指している場所を考えれば完全に否定する訳にも行かない為、そう成れればいいなとだけ返しておく。


「で、でも、なんで秘密にしてるの?別に恥ずかしい事じゃないのに。」


何でと言われると自分でも明確に言葉にする事が出来ず、首を傾げてしまう。


「俺は何となく分かるぜ。結果出てねえのに夢だけ語ると、馬鹿にする奴等も多いからな。」


田中の言った言葉は恐らく正しい。


皆に凄いと思われたい、ちやほやされたい気持ちは自分にもある。


だがそれは最優先じゃない。


結果的にそうなればいいなとは思うが、自分から触れ回ってまで得たい訳ではないのだ。


なので、二人には出来ればあまり言わないでほしいと伝えておく。


「分かった。じゃあ遠宮が結果を出すまでは誰にも言わねえよ。阿部もそれでいいよな?」


田中にそう聞かれ、阿部君も頷く。


「つ、次の試合って決まってたりするの?」


阿部君がそう聞いてきたので、トーナメントに出場している事と、次の試合は二回戦目で八月一日である事を伝える。


「俺は多分七月で引退になると思うし、見に行ってみたいけど…距離がな~。」


田中が残念そうに語る。


その気持ちは嬉しく思ったが、移動費用等を考えるとかなりの額になるだろう。


「いつか大きな試合が出来るよう頑張るから、その時頼むよ。」


「なるべく早く自慢出来るようになってくれよ。未来のチャンピオン。」


そのいつかを迎える為に負けられない。


そう心の中で呟き、力強く頷いた。






翌日の早朝、いつものコースを走り折り返しに差し掛かると、神社の石段を箒で掃いている明日未さんの姿があった。


俺が挨拶すると、彼女も笑顔で挨拶を返してくれる。


今日は良い日だ。


どうせなら何か話したいと思い石段を登っていくと、合わせて彼女も下りてきてくれた。


そして優和な笑みを崩さないまま語り掛けてくる。


「遠宮君とは別のクラスになっちゃったね。ちゃんと友達出来た?一人で寂しくしてない?」


貴方は俺の母さんですか、と思わずそんな言葉が口から出そうになった。


だが、安心させるため気の合いそうな友達が出来た旨を伝えると、ほっとした表情を浮かべる。


俺はそんなに頼りなく見えるだろうか。


まあ見えるのだろう。


「良かった。それが一番心配だったんだよ。遠宮君人付き合い苦手そうだから。」


叔父でもここまで心配しないのに、手の掛かる子供と同列に扱われるのは少し残念だ。


それでも気に掛けられると嬉しいのが男の性というものらしく、少し話を続けた後、気分良く残りのロードワークを消化する事が出来た。








五月初旬、珍しく早めに帰った叔父と共に食卓を囲む。


今日のメニューは鳥の胸肉とささみを使った料理だ。


「相変わらず見事なもんだな。料理屋出来んじゃねえか?」


そう言われ、現役を引退したらそんな未来も悪くないと想像した。


叔父は帰りの遅い日が殆どである為、こうして話す機会は多くない。


新しいクラスはどうか来週にあるテストはどうかなど、いつもは話せない分、色々な事を聞いてくる。


因みに俺の成績は、いつも平均より少し下くらいをキープしている。


これでも一応授業はちゃんと聞いているのだ。


「卒業後はどうすんだ?就職するにしてもこの変だと工場くらいしかねえし、しかもあの辺は交代勤務ばかりだからな、練習にはかなり支障が出ると思うぞ?」


何故叔父がそんな事を知っているのか疑問に思い聞いてみると、病院では工場の健康診断なども請け負っており、社員さんと話したりもするらしく、結構内情に詳しいとの事。


それはともかく、やはり交代勤務というのは問題がある。


練習時間が一定じゃなくなると、俺はともかく会長にはかなり負担を掛ける事になるだろう。


夜勤明けで練習するというのもあまりやりたくはない。


「パートでも悪くねえと思うぞ?俺の知り合いの薬剤師がやってる店もある。そこだとフルタイムで働けるし、社会保険その他も完備で、簡単な医薬品の資格くらいなら取れると思うしな。」


なるほどと叔父の話に耳を傾ける。


世間体なども考えて、どこに就職するかしか頭に無かった。


この話だけでも、叔父が自分の事を本当に良く考えてくれていると実感させられる。


その事に感謝しながら、聞いた話を熟考してみた。


これからの自分にとっては、収入よりもある程度時間の都合が取れる方が望ましい。


しかし、まだ結論を出すには時期が早いのも確か。


もしかしたら理想的な就職場所が見つかるかもしれないし、考えておくとだけ伝え、軽く試験勉強をするため部屋に戻った。







六月になり毎年恒例の体育祭の時期が来た。


「出場種目を決めるので、希望する所で手を挙げてください。」


毎回思うが、こういう時前沢君のような人がクラスにいると本当に助かる。


誰もやりたがらない纏め役を率先してやってくれるので、本当に有難い。


俺は今回も例に倣って綱引き狙いだ。


「おい遠宮、阿部、リレー出ようぜ。」


田中のその言葉に俺は勿論、阿部君も物凄い勢いで首を振っていた。


そういう花形競技は、自分達のような日陰者には眩しすぎる。


田中だけはクラスでもかなり目立つタイプの為、あまり違和感はないが。


「何だよ勿体ねえな。特に遠宮、お前かなり足早かっただろうが。」


先月の体力測定の事を言っているのだろうが、これはそういう問題では無い。


『体育祭』つまり祭りなのだから、花形競技は全体の盛り上がりも考えるべきだ。


クラスメイトの大半が名前すら知らない人間が出場して、一体誰が得をするというのか。


簡単に言えば、空気を読めない奴になりたくない、これに尽きる。


「じゃあ次は綱引きに出たい人、挙手お願いします。」


前沢君の声に反応し、待ってましたとばかりに俺と阿部君は揃って手を挙げたが、思いのほか競争率が高い。


その結果ジャンケンで決める事になり、俺は負けた。


「な、何かゴメンね。」


阿部君が申し訳無さそうにしていたので、気にするなと伝え、次の目立たない競技に照準を絞る。


「次、玉入れやりたい人。」


手を挙げるが、またも人が多い。


そしてジャンケンになり、敗北。


「これはいよいよリレーやるしかなくなってきたな。」


またもジャンケンに負け、項垂れるこちらを見ながら田中は愉快そうにしていた。


残る競技は、徒競走、リレー、障害物競走、二人三脚、そして借り物競争。


多数に紛れる事が出来ない競技ばかりが残ってしまった。


一番ましなのは借り物競争だろうか。


全ての競技のトリを務める事になる、クラス対抗リレーだけは絶対無い。


溜息をつきながら渋々借り物競争に手を挙げると、自分以外立候補が居らず、今度はあっさり決まった。


気のせいかもしれないが、一瞬みんながどよめいた気がした。


「なんだよ~、そんなにリレー嫌なのかよ。借り者競争も変わんねえだろ。」


何故こいつはそこまで俺をリレーに出したがるのか謎だ。


その本人はというと、徒競走にリレー、さらに障害物競走にまで出るらしい。


真似出来ない事をサラッとやられると、ちょっと尊敬してしまいそうになる。


取り敢えず決まってしまったものは仕方ない。


後はお題に変な物を引かない事だけを祈ろう。

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