第29話 新人王戦開始
俺が乗った体重計のメモリを係員が注視する。
だが、中々計量パスの合図が出されない事に焦燥感が募っていく。
不安に駆られ待つ事数秒後、
「遠宮選手、五十八,九㎏、スーパーフェザー級リミットです。」
少し寿命が縮んだ気がした。
海外の選手には再計量を当然の様に受け入れる人もいるが、自分には到底真似出来そうもない。
「統一郎君お疲れ様。ちょっとドキドキしたね。ジムで量った時はもう少し余裕だった気がしたけど。やっぱり少しずれるのかな。」
本当心臓に悪い。
最終手段としてパンツを脱ごうかとも考えてしまったくらいだ。
まあ、パンツ程度では殆ど変わらない事は分かっているのだが。
会長もほっとした表情で経口補水液を手渡してくれた。
手渡されたドリンクに口を付け、漸く人心地着く事が出来ると一先ず試合を待つだけになった現状に安堵感が込み上げる。
「腹減ってるだろ?終わったんなら、さっさと飯でも食って体休めた方が良いんじゃねえか?」
今回は牛山さんも計量会場まで付いてきていた。
泊まるホテルが前回と同じ場所の為、確認の必要が無い事が理由の一つ、もう一つは計量の現場を見てみたいという好奇心かららしい。
牛山さんの言葉に同意し荷物を持った後、足早に会場を出る。
今は何となく、相手選手と鉢合わせになりたくない気分だった。
心に余裕が無い状態だと、必要以上に相手を大きく見てしまう可能性があると思ったからだ。
「よしよし、どんどん食え。」
目の前に並んでいるのは、パスタとハンバーグ、そしてチャーハン。
ここに来るまでに、おにぎりとバナナも胃に収めている。
食い過ぎには注意が必要だが、前回もこのくらいは食べて問題無かった為大丈夫だろう。
因みに全部牛山さんの奢りだ。
会長も出すと言ったのだが、そこは一切譲らず押し通していた。
俺も自分で出すと言い掛けたが、牛山さんのプライドを傷付けるかとも思い大人しく受け入れた。
そもそも手持ちがあまり無いし、都会のレストランはそれなりに高い。
そうして食事を取った後、殆ど寄り道をする事無く以前と同じホテルの一室で横になる。
消化を待つ意味も兼ね天井を眺めて過ごしていると、スマホに着信。
表示された名は相沢光一、少し笑みが零れる。
「おう、俺だ統一郎。明日試合だろ?ガンガン行って、ガンガン倒せよ!」
電話に出ると、俺のスタイルには全く合う筈も無いアドバイスをしてくれた。
恐らく言葉通り実行したら間違いなく酷い目に遭う事だろう。
因みに相沢君は今年から社会人になっている。
高校を卒業してからは大学には行かず、地元の工場に就職したらしい。
彼ならばプロになっても直ぐにスター選手になれると思うが、オリンピックを目指すと本人が言っている以上、俺が口を出す事ではないだろう。
「とにかく、お前はすぐ弱気になるからダメなんだよ。ガンガン行けば何とかなる。」
終始自分の感覚を中心に置いたアドバイスを言いまくった後、電話が切られた。
だが、直ぐ弱気になるという点は的確だった気がする。
自分を信じろ、そう心で唱えながら少し落ち着かない気分を感じつつ目を閉じた。
四月九日、赤コーナー側選手控室。
その広いとは言えない部屋は、緊張感に満たされていた。
備え付けのパイプ椅子に座り、目の前では会長が俺の手にバンテージを巻いている。
残念な事に、叔父は今回仕事の都合上来れなかった。
俺が家を出る際にしていた悔しそうな顔を思い出し、良い報告が出来るよう気合を入れ直す。
当日計量は五㎏増で前回とほぼ変わらずだが、何故か体は前よりも軽く感じる。
目を閉じると、普段よりも早くなっている自分の鼓動の音が聞こえた。
『踏み込んだら迷うな』
どこかのジムの会長かトレーナーが、選手に語り聞かせている。
決して大きな声ではない。
それでも耳に届く程度にこの空間は静寂で満たされている。
瞼を開け、自分を落ち着ける為に深呼吸をすると、目の前の強面と視線が合った。
牛山さんは険しいという程では無い表情のまま、口を一文字に結び腕組みをしている。
この落ち着きは年の功というのだろうか、非常に頼もしい。
息を吐き再度目を閉じていると、二度目になる感覚が顔を覆う。
べちゃりという擬音がぴったりな表現で、ワセリンが顔に塗られた。
この感触を感じると、いよいよかという気分になり、神経が張り詰めて行くのを感じる。
僅かにざわついた空気が、前の試合が終わった事実を告げていた。
俺の出番は、あと三試合後。
時間の感覚も曖昧な中、試合に備え体を動かしていた。
バンテージには既にチェック済みのマークが記されている。
後は係員が呼びに来るのを待つだけだ。
会長が手に持つのは赤いグローブ。
いざその時を迎える為、右を会長が左を牛山さんが嵌めてくれた。
見た感じ新品に近いグローブ。
そして感触を確かめる為、胸の前で数回当てパンパンと音を鳴らした後、気持ちを落ち着ける様に軽くシャドーで調子を確認する。
「遠宮選手、準備お願いします。」
係員の声を聴いて、いよいよかと胸が高鳴りつつもトントンと軽く跳ねてみた。
調子は悪くない。
牛山さんと目が合い、視線でどうだ?と問い掛けてくるので頷き返す。
「じゃあ、行こうか。」
会長の声にも軽く頷き返し、その背中を眺めながらリングへと向かった。
試合会場へと続く階段を上りながら、大きく深呼吸。
(落ち着け、緊張はしても良い、でも舞い上がるな。大丈夫…大丈夫だ。)
まるで祈る様に、大丈夫と心の中で繰り返した。
前はここを登った後の事を、殆ど覚えていない。
(ふわふわした感じは無い。今回は大丈夫だ、大丈夫な筈だ。)
あの時の失敗をもう一度繰り返さぬよう、心に覚悟を染み込ませる。
そうして己を整えながら階段を登って行き、観客席を裏から眺めながらリングへと向かい花道を通った。
すると、思った以上に観客が多い事に気付く。
前回の試合でもリングを降りる時の事は覚えており、見た感じ観客はまばらだった印象だ。
しかし、今回は少なくともその倍は入っているだろう
。
(大丈夫だ。皆俺を見に来ている訳じゃない。)
プロボクサーとしてはどうかと思う事を考えながら、
ふぅ~っと大きく息を吐きリングを見上げた後、その場所でロープを上下に広げ待つ会長と目が合い、軽く頷き合う。
そして、タンタンタンっと軽快な音を響かせ、リングへ駆け上がった。
(こんなに眩しかったかな。心臓の音は相変わらず煩いけど。大丈夫、地に足は着いてる。)
二度目のリングは、マットの白も相まって、目が眩むほど眩しい気がした。
「只今より、東日本新人王スーパーフェザー級一回戦、第一試合を始めます。赤コーナ~一戦一勝、公式計量は……とおみや~とういちろう~。」
リングアナに紹介され前後に二度お辞儀をした後、軽くシャドーをして緊張を解す。
「青コーナ~二戦一勝一敗、公式計量は……さとう~しゅうじ~。」
両者の紹介も終わると、レフェリーの合図に従いリング中央で向かい合う。
「バッティング注意して…」
前回は全く頭に入ってこなかった、レフェリーの言葉も聞こえている。
相手の体格は、並んだ感じ身長は変わらないくらいで俺より若干細く見えた。
強引に打って出て来るタイプには見えないが、俺の予想など当てにはならないだろう。
そして軽くグローブを合わせた後、両者がコーナーに戻り決戦に備える。
「統一郎君、大丈夫?」
「はい、問題無いです。」
「うん、大丈夫そうだね。無理に倒しに行こうとだけはしないように。でも消極的になりずぎるのもダメだよ。」
「了解です。慎重に、でも積極的にペースは取りに行きます。」
会長はマウスピースを差し出しながら語り掛け、同時にこちらの精神状態を確認しているのだろう。
気分が高揚してはいるが、今はしっかり地に足は着いている。
(前回の様な失敗はしない。)
そう心に誓った時、第一ラウンドのゴングが響いた。
歩を進め、リング中央で軽くグローブを合わせた後、少し距離を取り相手の構えを観察する。
右のグローブを顎の位置に、左を胸の辺りに下げ視界を広く保つ様な構えだった。
デトロイトスタイルに似ているが、カウンター重視の構えだと推察出来る。
即ち、ある程度距離を取って戦う、こちらと似通ったスタイルと見た。
互いにリング中央、円を描き左を差し合う思った通りの展開。
そしてこれは俺にとって最も自信のある展開でもあった。
「シッ!」
向き合い、自分の距離を保ちながら左を突き合う流れ、最初のクリーンヒットを取ったのはこちらのジャブ。
それを受け、相手が少し下がった所を踏み込むべきか迷うが、誘いである事を考慮し距離を保ったまま丁寧にジャブを突く。
すると相手はこちらを消極的と判断したか、踏み込んでくる気配。
「…っ!」
そう思った直後、左のフェイントを交えながら右の強振を放ってくる。
これはしっかりとガードで受け止めた。
(強気に来るな。少し誘ってみるか。)
ジャブに合わせて少しバックステップすると、それを見た相手は追いかけてワンツーを放つ様相。
「……シィッ!」
ワンツーの右をヘッドスリップで逸らしながら、踏み込んで左ストレート。
一瞬捉えたかと思ったが、浅い。
ペースを握る決定打にはならなかった。
向こうは一旦仕切り直しを計り、バックステップをして距離を取ろうとする。
踏み込んで畳みかけるか、またも選択を迫られるがまだ慌てる段階では無い。
結果、追い掛けるのではなく落ち着いてじりじりと距離を詰める戦法を取った。
こちらはフェイントを交えながらプレッシャーを掛け、相手がフットワークで描く円は内側から押し出される様に、段々とロープ際へ追いやられていく。
相手はロープが背に擦れる位置を嫌がり回り込もうとするが、それは許さぬと的確にジャブを突きながら更に隅へと追い立てる。
「シッシッシッ……シィッ!」
時折右の強打を織り交ぜ、倒せるパンチもある事を伝えながらじりじりとにじり寄っていく。
気付けば俺はロープを背負う事無く、相手は常にロープ際を移動する展開。
(これでいい。無理に行くのではなく落ち着いて隙を待つ。)
こちらのペースで試合は進み、カンッカンッと拍子木の音が鳴り響いた。
「…っ!?」
その瞬間、相手は重心を下げ思い切り踏み込んできた。
「シッ!シィッ!」
予備動作でそれを察知し、下がりながらワンツー。
ガードの上からだが、確実に動きを止めた所でゴングが鳴った。
「良い感じだ、文句無いよ。焦る事は無いんだ。距離を守れば問題無く勝てる。」
ゆっくり呼吸を整えながら、会長の指示に耳を傾ける。
(焦らず、焦らずだ。ゆっくり向こうが隙を見せるのを待つ。集中、集中だ。)
セコンドアウトがコールされ椅子を下げる時、目が合った牛山さんも拳を握り頷く。
こちらもそれに頷き返し、第二ラウンドのゴングを聞くと進み出た。
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