第24話 積み重ねたもの
体がふわふわしている。
まるで夢心地、宙に浮いているかの様、現実感が無い。
(…ぁあ…これは……あれだな…プールで…鼻がつ~んと…。)
思考が上手く定まらない。
(会長の慌てた声……初めて聞いたな…。あんな声…出せるんだ……。あれ……何でそんな騒いで……。)
背中のひんやりとした感覚だけがはっきりとしており、それ以外は良く分からない。
「坊主っ!これで終わる気かよっ!!」
「…っ!?」
意識が浮き上がってくる。
会場のざわつきと聞き覚えのある声が鼓膜を震わせる。
「…スリー!フォー!ファイブ!……」
レフェリーのカウントダウンで、漸く状況を正確に理解する事が出来た。
足に力を込める、多少ふらつくが立つには問題無さそうだ。
偶然とはいえ、間にガードを挟んだのが幸いしたのだろう。
ファイティングポーズを取った俺の顔を、レフェリーが鋭い視線で覗き込んだ。
「目を見せて。……よし。」
レフェリーが続行の合図をした直後第一ラウンド終了のゴングが鳴った。
俺はぐちゃぐちゃの思考を抱え、半ば放心状態のまま自陣へと足を向ける。
(ダウンした…4ラウンドしかないのにっ。残りのラウンドを全部取らないと負ける。…負ける?…嫌だ!嫌だ!嫌だ!折角ここまで来たのに…情けない。どうしよう?どうしたらいい…。)
コーナーに戻っても我を忘れ指示すら聞こえていない。
その瞬間。
ぱん!っと会長の両手が頬を挟む。
ひりひりとする感触と行動の意味が分からず会長を見やった。
すると、そこにはいつもと同じ様で何となく違う雰囲気を纏った会長の視線が俺を捉えている。
「やっと見たね。時間も無いから端的に伝えるよ。僕を信じてくれるかい?」
そう言われて、漸く視界に色が戻ってきた。
(俺は何をやっていたんだ、会長を信じてついていくって決めていたのに。)
舞い上がってセコンドの指示すら聞こえず、挙句暴走してダウンまで食らう始末。
あまりの間抜けさに凹みたくなるが、今はそれ所では無いと持ち直し挽回すべく会長の指示に耳を傾ける。
「二ラウンド目は無理して右を打たなくても良いよ。ここと思う所で左を突いて、只それだけで良い。相手が前に出て来たら引き、下がったら追って打つ。君の一番得意なパンチを見せてくれ。」
会長はエンスウェルと呼ばれる腫れ止めの金具を目の下辺りに当てながら語り掛けてくる。
火照った熱と共に頭に上った血も下がり、徐々に平静を取り戻していく気がした。
「坊主、頑張れっ!」
首筋に氷嚢を当てていた牛山さんにも、不安気な声を上げさせてしまっていた事を思い出す。
そういえば先ほどのラウンド、俺は一番得意なパンチを全く出していない。
気付けば乱れていた呼吸も嘘の様に整っていた。
考えれば当たり前だ。
まだ三分しか戦っていない。
今まで馬鹿みたいに走り込み、練習してきた成果がそれである訳がないのだ。
二ラウンド開始のゴングが鳴り、一回大きく深呼吸をしてからコーナーを後にする。
不思議と先程迄のふわふわとした感覚は無くなっており、リングを踏みしめる感触もしっかりと感じる事が出来た。
対角線上に視線を向けると、敵は意気揚々とこちらに踏み込んで来ようとしているようだ。
また同じ展開に持ち込もうとしているのだろう。
飛び込んでくる敵目掛け、見せてくれと言われた自慢の左を放つ。
「シッ!…シッ!…シッ!」
(ここ…ここ…ここ。)
ここと思った所で左を突け。
会長のその指示をまるで機械のように繰り返す。
何も考えず相手を見て同じ事を繰り返していると、段々と慣れ親しんだ感覚が戻ってきた。
ロープを背負わない様に回りながら左を突く。
ジャブが当たる度に敵は動きを止める。
(そういえば俺の左は痛いって言ってたな。本当だ…痛そうな顔した。)
自分でも驚くほど冷静だ。
初めての感覚に戸惑いながらも、ただ作業を続ける。
気付けば敵の動きを止めながら、観客席の声にも耳を傾けられる程の余裕が出てきていた。
「松田先輩っ!ガンバっ!」
恐らく学校の後輩だろうか、観客席には十人程それらしいのがいる。
(応援団がいるのか。良いなぁ、でも、俺にだって頼もしい仲間がいるんだ。)
左しか突いてこない事を悟ったか、敵は前傾姿勢を取ると歯を食いしばって被弾覚悟で突っ込んでくるつもりの体勢。
だが、人は体を硬直したままでは動けない。
敵がいざ踏み込もうとした瞬間、コンマ数秒にも満たない一瞬を狙い撃つ。
それは、ガードの僅かな隙間に滑り込んだ。
「シィッ!」
全く同じモーションから繰り出されたパンチは、ジャブと同じ一切無駄のない軌道で走る左ストレート。
もらう覚悟を決めていたとしても、それは飽くまでジャブの話。
敵は想定以上の強打をもらい思わず踏み込む足を止め、その場でガードを固める。
今までこの左を鍛えた時間が走馬灯のように流れゆく、一体どれほど鏡の前で練習したかも定かではない。
友達と遊ぶ事もせず時間があれば左を突いた。
悩んで悩んで、何度も打つ度にその形も変えていった。
基本は教えてもらえるが、それだけで差し合いに勝てるほどボクシングは甘くない。
最初はその場でただ左を突いていた。
次に教えられた基本のままでは自分よりリーチのある相手には勝てないと思い、踏み込んでより遠くへ届かせる事を意識した。
しかし、それでは強く打てるが連打が遅い。
そもそもそれはストレートなのではないかと思い、ジャブの練習って必要無いんじゃないかと思った事もある。
鏡の前で狂った様に繰り返していた時、予備動作の中で一番ネックなのが踏み込みだと感じた。
踏み込めば、どんなに早く打とうが反応される。
ある日、いつも通り家の姿見の前で頭がぼーっとするほど繰り返していた時、鏡の向こうの自分がいつ距離を詰めたのか分からない瞬間があった。
感覚を頼りに同じ事をやろうとしても、上手く行かずイライラした。
ある時、そういう感覚に陥るのは決まって疲れて踏み込みをサボろうとした時だと気付く。
その後、試行錯誤を繰り返しやっと今の形に落ち着いた。
爪先は地面から離さず滑る様に足首だけの動きで僅かな距離を調節し、上半身は一切ブレさせない。
地面を蹴らず、強くも無く、より遠くへ届かせる事も考えない。
只々無駄な軌道を省き、いくらでも連打が利き、気付かせず避けさせない事だけを追求した俺なりのジャブ。
勿論状況によっては踏み込む事もするし回り込みながらも打つが、基本はこれだ。
ここで活きなければ、今までの俺の時間は何の意味も無い。
頭が今までには感じた事が無いほど冴え渡っていた。
それこそ敵の息遣いまで手に取る様に分かる程。
即ち、負ける気がしない。
だが油断は大敵と気を引き締める。
俺の目標は勝つ事ではなく、勝ち続ける事なのだから。
このままでは埒が明かないと悟ったか、敵はがっちりとガードを固めたまま、またしても被弾覚悟で体ごと突っ込んでくる様相だ。
(相手が前に出た分下がれ…だったな。)
俺はその言葉を正しく実践した。
正確に言うなら左を突きながら逃げ回った。
それでも俺の左は面白い様に当たり、その度に敵は僅かながら動きを止める。
気付いた時には、大量の鼻血が流れ胸部を赤く染め上げた男が眼前に立っていた。
(これは会長のミット打ちと同じ感覚だな。なるほどこの為か。)
引きながら打つという感覚が妙にしっくりくる。
今右を打てばこのまま倒せるんじゃないかと思えるほどだ。
それでも思考を放棄した様に、会長の指示通り左、左、左。
こんな感覚は本当に初めてだ。
まるで敵の一挙手一投足が全て把握出来るかの様な万能感。
拍子木の音が響き、残り十秒。
「シッ!シッ!……シィッ!」
ジャブ二発から、左ストレートを警戒した所に回りながら左フックを引っ掛ける。
そこでゴング。
俺は少し乱れた息を整えながら自陣へと足を向けた。
「ちょっと予想以上だったね。素晴らしいよ統一郎君。次のラウンドから右も織り交ぜて行こうか。」
「はい。でも、倒す事より勝つ事に拘ろうと思います。」
どんなに優勢に進めていても一発は脅威だ。
「凄えじゃねえか坊主!今のラウンド一発ももらってねえんじゃねえか?」
差し出されたマウスピースを銜えながら、呼吸を整え集中力を高める。
そして第三ラウンドのゴングが鳴った。
その直後、相手は走る様にして反対コーナーから向かってきた。
二ラウンド向き合って分かった事がある。
この選手は恐らくボクシング経験はそれ程ではない。
フットワークはお世辞にも上手いとは言えないし、パンチはあるが殆どが大振りで予備動作に注意を向ければ当たる確率は低い。
(気を付けるのは一発だけ……)
振り回す右を踏み込みながら肩でブロック。
「…フッ!…シィッ!」
そこから右ボディ、そしてアッパーに繋げる。
そして相手の強振をバックステップで躱しながらジャブ。
(一定の距離を確保すれば、安定して戦えそうだな。)
先ほどまでの全能感は無くなっていたが、このラウンドも完全に俺がペースを握った。
そして先程とは違い、時折右を強振して強引に来るとこれを見舞うぞと、強い意志を乗せたパンチをガードの上から相手にぶつける。
同じ展開が続く試合、観客にとってはさぞかし退屈かもしれない。
それでも今は勝ちに拘りたい。
ちらりと電光掲示板を見やる。
残り二十秒。
距離を保ったまま、機先を制すようにワンツーを放つがガードの上。
相手は強振を警戒してバックステップした俺を、追う様に踏み込んできた。
そして強引に右を振り回してくるが初回程の力を感じない。
落ち着いてパーリングで捌くと、距離を確保して左。
そこでゴングが鳴り、第三ラウンドの終了を告げた。
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