第23話 未熟者

当日計量、ドクターチェックも終わり、今俺は控室備え付けのパイプ椅子に座っている。


目の前ではいつもと同じ表情で、会長が差し出した俺の手にバンテージを巻いていた。


いつも賑やかな牛山さんも今だけは静かだ。


その理由はこの独特の雰囲気だろう。


これから試合に臨む選手達とトレーナー等も複数いる為、狭い部屋は結構な密度になっている。


それにも関わらず室内は異様なほど静かだ。


ちらほらと他の選手の知人などが応援に駆けつける為、一時賑やかになったりするのだが、直ぐにトレーナーや会長達のアドバイス以外何も聞こえない静かな空間に舞い戻る。


青コーナー側第一試合十七時四十五分試合開始予定。


心臓の音が煩い。


落ち着かなければと思えば思うほど気になる。


父も同じ気持ちだったのだろうか。


だからこそ強い言葉を吐いて、不安を消そうとしていたのかもしれない。


勿論、今となっては想像する事しか出来ないが。


その考えに至った時、俺も同じ場所に来たんだと実感が涌いてきた。


「……ぉぃ…ぉぃ!」


ふと、聞きなれた声が耳に入る。


声がする方に視線を向け顔を上げると、所在無さげにしている叔父の姿が目に入った。


「いや~、始めて来たが雰囲気凄えな。入りにくいのなんの。あいつの時もそうだったか?」


当事者の俺でさえ少し飲まれそうな空気が漂っているのだ、無理もない。


幼かった俺はどう感じていただろうか、よく思い出せないな。


「叔父さん、来るとは聞いてたけど本当に来てくれたんだ。」


「何とか都合ついてな。良いカメラも買ったし、これでばっちり撮ってやるから、良い試合頼むぜ。」


それだけ言い放つと観客席へ戻っていった。


(そうだ、支えられてここまで来れたんだ。勝たなきゃ、勝たなきゃ駄目だ。)


顔にワセリンが塗られ、慣れない感触に顔をしかめてしまう。


慣れないと言えば、このファールカップもそう。


少しサイズが合っていないんじゃないだろうか、ぶかぶかしている気がする。


そして係員のバンテージチェックも終わった後、試合用のグローブを嵌められていく自らの拳を眺めながら、深呼吸を繰り返した。


渡されたグローブは四回戦だからだろうか、新品のものではなくそれなりに使い古されている様に見える。


胸の前でバンバンと両拳を当てると、中に詰まっている綿が少しズレているのに気付いた。


グローブの感触ではなく、殆ど拳の感触がそのまま伝わってくる。


皆同じ条件でやっているのだろうか、それとも…、


「これで打たれたら、凄く痛そうですね。」


俺は苦笑を浮かべつつ、会長に問い掛けてみる。


「当たれば直ぐに倒れてくれるよ。良かったね。」


打たれた時の事を真っ先に考えた俺とその逆を考える会長、勝ち上がって行ける人達はそういう考え方をするのかもしれない。


そんな事を思ってしまった。


ふと気付くと、出入り口に視線を向けていた牛山さんがこちらに向き直っている。


「どうやら出番だぞ。」


控室の扉の所には係員が立ち、こちらの準備を確認していた。


「じゃあ、行こうか。」






四階の控室からリングのある五階へと歩いていく。


所々にシミの様なものが見える廊下が、歴史を感じさせた。


その廊下を歩いて直ぐ、この階段を昇ればもうリングは目と鼻の先だ。


覚悟を胸に秘めつつ登り切った瞬間、先程迄とは違う空気が肌に纏わり付いてくるのを感じた。


一気に鼓動が早くなり、観客席の裏を通り抜けるとリングが視界に入る。


裏から見る観客席は意外に高いなと、どうでも良い事を考えながら気を紛らせリング下で松脂をシューズに付けた後、会長が上下に広げ待つロープを潜った。


鼓動が更に跳ね上がる。


体がふわふわして感覚が分からない。


リングアナが両者ともにデビュー戦であると紹介している。


レフェリーから中央に呼ばれ何やら説明を受けるが、何を言っているのか全く耳に入ってこない。


まだ何もしていないのに呼吸が荒くなる。


喉が渇く、水が飲みたい。


そして両者が自陣に戻り、いよいよ試合が始まろうとしていた。


(今は駄目だ…自分が何をしてるのか分かんない、どうにかしないと、どうにか…)


会長が何かを言っていた様な気がするが、今の俺には届かない。


カァーンッ!


甲高い音が響き、未だ心定まらぬまま試合が始まってしまった。


リング中央でグローブを合わせた瞬間、こちらの状態を把握していたか、相手は右を強振してくる。


「…っ!!」


あわやこれで倒されてもおかしくないほどの強打だったが、辛うじてガードの上。


それでも腕が痺れるほどの一発。


体型通りの強打に、頭は更にパニックを起こしてしまった。


そうなるともう打ち返す事しか考えられず、相手の強打に負けじとこちらも右を強振する。


(下がったら押し切られる…。打たないと…もっと強くっ!!)


地に足が着いていないとは、今の俺の事を言うのだろう。


自分の得意な事もやるべき事も思い出せず、強打を打たれれば強打を返す。


まるでフットワークなど知らない素人の如き戦い方。


しかもどうやらそこは相手の領分。


一発のパワーが違う。


その為、同じ数のパンチを打とうとも消耗し摩耗していくのはどちらか、考えるまでもない自明の理である。


クリーンヒットこそないものの、その圧力とパワーに押され気付けばロープを背負っていた。


「…シィッ!!……シィッ!!」


そんな状況になっても、まるで相撲でもしているかの様な距離でひたすら打ち返す。


(くっそ!押し返せないな、なんでだよっ!下がれよっ!下がってくれよっ!!)


力一杯叩きつけても平然と返される事に苛立ちを覚え、更に冷静さを欠いていく。


ロープが背中に食い込む体勢になり慣れないクリンチをして仕切り直そうとするが、その瞬間を待っていたのだろう、低い体勢から深々とボディーに強烈な一発が突き刺さった。


「~~~~~~ぅっ!!……ぅぇっ!?」


色々なものが口から飛び出しそうになるほどの衝撃。


試合前に何か口にしていたら、夥しい惨状を観客に見せてしまっていただろう。


喉を焼く様に胃酸が逆流するが歯を食いしばって飲み込み、膝をつきそうになる足に力を込め、必死になって手を出し続ける。


「……シッシッシッ…シッシッ!!」


その反撃が功を奏し、その中の一発が偶然相手の側頭部を捉えた。


(当たったっ!?ここしかないっ、打ちまくれっ!!)


がむしゃらに左右を連打する。


相手も応じてきて、試合は乱打戦の様相を見せた。


両者共に至近距離で打ち合うが、お互いのパンチに正確性がなく芯を外しており、ダウンを取るまでには至らない。


しかし、ガードが痺れる程の強打にこちらは徐々にその勢いを殺されていく。


それでも強迫観念に駆られ、相手に打たれればそれに反応して打ち返す。


そして相手が大振りなフックを打ってきた所で腕が交錯し、縺れ合う様な形になった。


その時、耳に残り十秒を告げる拍子木ひょうしぎの音が鼓膜を震わせた。


(あと十秒か…クリンチすれば凌げそうだな…。)


腕が絡み合い体が密着した状態であった為そう判断した俺は、相手に体を預け体重を掛けるが、預けるはずのものがそこには無く前方に一瞬たたらを踏んでしまう。


「統一郎君っ!前っ!!」 「坊主ぅっ!ガードォッ!!」


「えっ!?」


声に反応し反射的に腕を上げるが、強い衝撃で弾かれる。


次の瞬間一瞬視界が暗転し、ひんやりとした背中の感覚そして眩しすぎるほどの白い光が眼前を覆った。

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