第22話 デビューを控え
「…準備出来たか?忘れ物ねえか?よ~し、じゃあ行くぞ。」
牛山さんが車の運転席から身を乗り出して声を掛けてくる。
いよいよ試合前日、計量会場へ向かう為早朝からの出発だ。
こうして何時間も掛けて会場まで移動する必要があるというのは、地方ジムならではだろう。
今から緊張していても仕方がないと分かっているのだが、何せ初めての公式試合、何から何までが分からない事だらけなのだ。
移動中に気付いたのだが、今回の相手の情報を俺は何一つ知らない。
自分の事に手一杯でそこまで考えが回っていなかったが、幸い移動距離はかなりあるのでこの時間を使って会長に聞いておいた方が良いだろう。
「…ん?相手選手?今回のプロモーターでもあるダイヤモンドジム所属で名前は
聞いてもあまり意味は無かった様だ。
だが相手もデビュー戦だというのなら条件は同等、勇気が湧いてきた。
「統一郎君は相手の事よりも練習の成果を出す事を考えるべきだよ。相手は未知数だけど四回戦で君に勝てる選手は限られる。僕が保証するよ。」
会長から心強い言葉をもらったが、俺の中ではまだまだ不安が渦巻いていた。
時刻は昼頃、会場近くの駐車場に車を止め目的地であるビルに足を踏み入れた。
四階の一室に置いてある秤の横には、メモリをチェックするのだろう係員が付いている。
服を脱ぎ恐る恐る台の上に乗るとガチャリと音を立て係員がゆっくりとメモリを動かす。
細かく線の入った細長い鉄板が上下に触れ、階級のリミット付近で不安定に揺れ動く。
直ぐにパスの合図が出ない事に、不安が募り心拍数が早くなってきた。
勿論出発前に何度も確認しているので大丈夫なはずだが、それと心持ちは全く別の問題だ。
僅かな間をおいて、係員が口を開く。
「……五十八,六㎏。遠宮選手OKです。」
係員のその言葉でやっと一息付けた気がする。
ふぅ~っと軽く息を吐き台を降り上着を着ながら振り返ると、俺の直ぐ後で計量に望んでいる選手がいた。
どうやら彼が対戦相手の松田選手らしい。
身長は俺より五,六㎝ほど低いが、分厚い胸板と逞しい腕がかなり鍛えこんている事を証明していた。
その体形はボクサーというよりレスリングの選手を思わせる程がっしりとしている。
そうして相手の体を眺めているとふと視線を感じ、こちらも視線を少し上部へ向けた。
すると相手も俺の事を見ていた様で、日本人の特性から反射的に頭を下げてしまう。
だが言ってしまえば向こうも日本人、ほぼ同時に頭を下げてくれて何となくほっとした気分になった。
「一先ずはお疲れ様。じゃあ明日の試合に備えてホテルで休もうか。」
俺が対戦相手の松田選手に見入っていると、緊張を解すかの様に会長が声を掛けてくれた。
流石にこの距離で日帰りは無理があるという事で、近場のホテルを事前に三人分予約していたのだ。
相手側のジムは大手なのだから、部屋代くらい出してくれてもいいのでないかと思うのは失礼だろうか。
手渡されたドリンクに口を付けながら、気持ちを切り替え会場を後にし駐車場へと向かった。
「牛山さん待たせてすいません。」
「おう、計量どうだった。勿論大丈夫だったろ?」
運転席から身を乗り出し牛山さんが語り掛けてくる。
最初は三人全員で行く予定だったのだが、牛山さん自身の提案で行ってもやる事もないだろうから、自分は予約したホテルの場所を確認しておくとの事。
「はい。問題ありませんでした。」
それを聞いた牛山さんもほっとした表情を見せ、その後三人でホテルへ向かい荷物を降ろした。
こちらの陣営が予約したホテルは、遠方から来る選手には結構馴染みの施設らしい。
壁にはボクシングの試合のポスター等も貼ってあり、いつか自分の姿がここに貼り出される日を想像してしまう。
初めてホテルの一人部屋をあてがわれた事に多少の興奮を覚えながら、狭い部屋を歩き回っていると扉からノックの音。
「おーい坊主、腹減ってるだろ。飯食いに行くぞ。」
そうだったと言われて気付く、猛烈に腹が減っている事を。
移動中にバナナやおにぎり等を食べたのだが、どこに吸い込まれたかまるで足りない。
暴飲暴食には注意する様にと会長から苦言を呈されていなければ、恐らくその心配は現実のものになっていただろう。
「何でも好きなもん驕ってやる。」
そう言われまず頭に浮かんだのは肉料理。
だが明日の試合の為には消化の良い物の方が良いかと思い、会長に伺いを立ててみる。
「そうだね…難しい所だけど、食べ過ぎないという条件の元であれば好きな物を食べた方が英気を養えると思うよ。でもなるべく炭水化物を中心にした方が良いかな。」
会長の助言を受け入ったレストランで頼んだのは、ハンバーグ定食にパスタ、更にうどん、普段ならばこんなには食えないが今は不思議なほどあっさり完食出来た。
しかもまだまだ食えそうな感じもあるが、それはやめておいた方が良いと自制が掛かる。
そんな俺を見て会長達は驚きの表情を浮かべていた。
「統一郎君は胃が丈夫なんだね…。ボクサーとしては大事な資質だよ。殆どの選手は減量明けでそんなには食べられないから。」
自分では普通だと思っていた事でも褒められると嬉しいもの、それがどんな些細な事でも自信に繋がるのなら猶更だ。
「ああそうだ坊主、言ってなかったがよ、恵一郎さんも明日見に来れるからな。」
俺が聞いた時は予定が合ったら行くとだけ言っていたが、突然顔を出して驚かせるつもりだったのだろうか。
「そうなんですか。ますます恥ずかしい試合出来ませんね。」
今俺がここにあるのは叔父の尽力無くして語れない。
だからこそ見せてやりたい。
あの場所に俺が立っている事を誇らしいと思ってほしい。
テーブルの下の拳は知らず知らずのうちに握り締められていた。
その後は部屋に戻り入念にストレッチなどをして過ごしていると、携帯からメールの着信音。
差出人は相沢となっている。
『デビュー戦KОで宜しく!出来れば一ラウンドな。』
そんな簡潔な文で激励が綴られていた。
出来るだけ頑張るとだけ送り、明日に備えベッドに横になる。
時刻は夜の零時を回ったが一向に目が冴えて眠れない。
枕が変わると眠れないというほど繊細ではないはずだが、どうしても気分が落ち着かないのだ。
事ここに及んでも不安が消えない自分の矮小さが嫌になりつつも、暫く目を瞑っているといつの間にか眠りに落ちていた。
翌朝、見上げる程高い建物が立ち並ぶ都会を走る。
早朝である為、流石に人はまばらだ。
いよいよ今日かという思いから気持ちが逸り加速しそうになるが、試合前に疲れを残しては本末転倒。
軽い昼食を済ませ横になり体を休めた後、念の為少し早めに会場を目指す事になった。
「いよいよだな坊主。落ち着いて行けよ。」
「見た限り状態は良さそうだし、落ち着いてやれば何も心配いらないよ。」
二人からそう言葉を掛けられ深呼吸をしてから、会場のあるビルに入りエレベーターに乗る。
そして当日計量や検診を済ませ四階にある青コーナー側控室へと向かった。
父も地方選手だったのでこのホールに来た事はあまり無く、緊張からだろうか、喉が酷く乾いていた。
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