第19話 スタートライン

「やっと…始まるんだな。」


俺は右手に持つ一枚のカードを見ながら呟いた。


そのカードには四回戦ボクサーの証であるC級という表記が見える。


因みにプロボクサーにはA級B級C級とあり、C級は四ラウンド制の試合まで出場出来、このクラスで四勝すればB級に昇格する。


更にそのクラスで二勝を上げれば晴れてA級ボクサーになれる。


A級は基本全てのラウンド制の試合に出場する事が出来る上、タイトルマッチなどのメインイベントも張れる。


俺の場合まずはB級を目指す事になるだろう。


「はぁ…スタートラインに立っただけで何を感傷に浸ってんだか。」


馬鹿らしいとは思うが、それでもこれを手にした事にどうしても込み上げるものがあった。


気持ちを切り替え部屋を出た後、食器棚に置かれている父の遺影に手を合わせる。


(これからやっと始まるよ。出来るだけの事はやってみるから見ててくれよな。)


祈るような思いで目を瞑っていると、これまでの情景が浮かび上がってくる。


先が見えなくなって不安な時もあった。


しかし幸運にも、人にも恵まれた。


ここまでの道のり、俺は支えてもらってばかりだ。


どんな形であろうとこの恩は返さなければならない。


ふとスマホに目をやると、いつの間にかメールが届いている事に気付いた。


差出人はどうやら相沢君。


【プロテスト受かったんだろ?その内またスパーやろうぜ。】


そんな端的な文が送られてきていたので、こちらも端的な言葉を添えて返信。


直後、何故だろうか、数年前彼と初めて会った時の情景が頭に浮かんだ。


最近は向こうから来てもらってばかりなので、今度はこちらから出向くのも良いかもしれないと思いつつ時計に視線を移す。


するといつの間にか良い時刻になっており、先程迄の緩やかな時間は消え失せ、慌ただしく通学路を駆け抜ける事になってしまった。







「お、おはよう。」


ぎこちなく挨拶をすると、クラスメイトも返してくれて少しホッとする。


挨拶するだけで何を大袈裟なと思うかもしれないが、俺にしては大きな進歩だ。


最近は自分から積極的に声を掛ける様に心掛けている。


なぜ今更そんな事をしているかと言えば、今までを振り返りあまりにも同年代との関わりが少なすぎると感じたからだ。


だからこそ、せめてクラス内の交友関係くらいは叔父に心配を掛けない程度に築いていければいいと考えている。


現状まともに話せるのが前のクラスからの知り合いである前沢君と、隣の席の明日未さんだけというのは流石に情けない。


だが、人間そう簡単に変われるのならば苦労はなく、今の俺には朝の挨拶をするのが精一杯なのが現実だ。


それでも以前はそれすらも出来ていなかった事を考えると、進歩を実感しても良いのではないだろうか。


流石にそれは自分に甘すぎる様な気がしないでもないが…。


「お、おはよう。明日未さん。」


まともに話せるとはとても言えない様子で声を掛けると、彼女も微笑みながら返してくれる。


「ふふ、おはよう遠宮君。何か良い事あった?」


思い当たる節があるとすれば、ライセンスの事だろうか。


節目といえば節目だが、まだ走り出してすらいない。


徒競走に例えるなら、スタート位置に就いて構えただけの状態だ。


普通にしていたつもりだったが、顔に出ていたかと思い少し恥ずかしくなる。


「と、特に何も無いけど。どうして?」


相変わらず真正面から見る事が出来ないまま問い掛けた。


「何となくかな。ふふっ。」


明日未さんの様な美人に笑いかけられると、免疫のない自分は平常心でいられなくなってしまう。


加え彼女は人の感情の機微に鋭い嗅覚を持っているようで、同級生から頼られることも多く、様々な相談事を持ち掛けられている光景を何度も見かける事があった。


容姿も整っており綺麗な黒髪がとても目を引く為、男子からも当然かなりモテる。


そんな自分とは真逆の太陽の様な存在なのだから、女性に免疫のない自分がこうなってしまうのは仕方ない事だろう。


それでも、いつかは彼女の笑顔を真正面から返せる日が来るはずと信じたい。







その日、授業が終わってもまだ全員教室に残っていた。


何故かと言えば、来月に迫った文化祭の出し物を決める為だ。


それを仕切るのは当然の如く前沢君。


「今出てる候補は、たこ焼き、お好み焼き、コスプレ喫茶、焼きそば、金魚すくい、クレーブ、豚汁、しゃぶしゃぶ、以上です。」


一通りの案が出揃い、現実的に何が出来そうかを考えていく。


まあ、俺には影響力も発言権もないのだが、そこは一応考えさせてほしい。


まずは金魚すくい、一体金魚はどこから持ってくるつもりなのだろう…。


そういう業者が存在しているのだろうか。


しゃぶしゃぶも怪しい所だ。


出来るか出来ないかで言えば出来るだろうが、予算はオーバーするだろう。


後はコスプレ喫茶だが、ちらりと横の席に目をやると明日未さんが露出の多い服で接客する姿を想像してしまった。


(何てけしからん!全くっ。全く…。)


俺がそんな想像に勤しんでいる内に、話し合いは佳境を迎えたようだ。


「じゃあ、採決取りまーす。」


前沢君が候補を順に述べていき、それぞれが良いと思うもので手を挙げていく。


コスプレ喫茶の所でふと横に目をやると、偶然明日未さんと目が合った。


いつもと変わらない笑みを向けられ、邪な事を考えていた心を見抜かれた様な気がして少し己を嫌悪する。


採決の結果は、簡単な粉物で決まるかと思っていたが何故か豚汁になった。


後はそれぞれの役割を決めていく事になるのだが、当然クラブ活動組は殆ど出られない為、俺達の様な帰宅組に任せられる事になる。


因みに明日未さんは弓道部だ。


「クラスの模擬店に専任出来そうな人、手を挙げてもらっていいかな?」


前沢君のその言葉に手を挙げる。


最終的には俺がやる事になるのだから、遅いか早いかの違いだ。


そう思い周りを見渡してみると俺を含めたった四、五人。


どうやら前のクラスよりも帰宅部は少ない様だ。


いや、明らかに帰宅部なのにそっぽ向いている奴もいる。


「準備や片付けは勿論、当日も手が空いた人は率先して手伝う事にして下さい。」


多少納得出来ない所もあるが、割り振られた仕事はしっかりこなそう。


そう思い帰り支度をしていると前沢君が声を掛けてきた。


「今回も本当頼りにしてるよ。遠宮君がいるから僕らは何の心配もしなくて済むんだ。」


プレッシャーを感じつつも頼られるのはこんな時しか無い為、満更でも無い気持ちもある。


「出来る限りは頑張るよ。でも、あんまり期待し過ぎないでね。」


前沢君の言葉に、保険の意味も兼ねて一応の謙遜をしておくと、話を聞いていた明日未さんも加わってきた。


「遠宮君ってそんなに料理上手なんだ~。ふふっ、楽しみにしてるね。」


彼女に期待されたら裏切る訳にはいかないと、内心気合を入れる。


「本当に凄いんだよ。野菜なんかプロみたいに切るの早くってさ。」


聞き役に徹していると、何だか勝手にハードルを挙げられていく。


豚汁なのだから誰が作ってもある程度美味くなるはずだが、正直それ以上を求められると非常に困る。


期待に応える為にも、帰ったらネットでちょっと調べてみた方がいいかもしれない。






数日後ジムでクールダウンのシャドー中、


「坊主、今度文化祭あるだろ。勿論行くからな。接客のプロである俺がよく見てやるから、ちゃんと働けよ。がっはっは。」


牛山さんが自信満々に口にしたが、店番は相変わらず奥さんに任せっきりの様だ。


それと以前買い物に行った時も、接客態度は決して良いものでは無かったと思うが。


「あ、勿論僕も行くからね。都合が合えば恵一郎さんも一緒にね。」


そこに会長も乗っかってきた。


またあの3人組で襲来するようだ。


でも折角来てくれるのなら、日頃の感謝も兼ね精魂込めて作るべきだろう。


「坊主それはそれとして、お前にプレゼント持ってきたんだよ。」


そういえば牛山さんが今日は大きめの箱を持ってやって来ており、俺も中に何が入っているのか気にはなっていたのだ。


「これだ。新調するには良いタイミングだと思ってな。」


取り出したのはロングタイプのリングシューズだった。


色は黒を基調にしており中々にカッコいい。


「黒と金で迷ったんだがな、四回戦ボーイが金ってのもちょっと違うかと思ってな。」


その選択は正しいと思う。


正直俺自身もボクシングスタイルも派手さが無い為、色に負けてしまうような気がする。


しかしこんな高価な物をもらっても良いものだろうか。


俺がそんな事を思っていると、会長からも何かある様だ。


「僕からはこれだよ。これから必要になるからね。」


会長が青と赤のトランクスを一着ずつ。


「いずれ勝ち上がっていったらガウンも作らないとね。」


二人の心遣いに涙が出そうになった。


ここまでしてもらっては、是が非でも負ける訳にはいかないだろう。


何度も感謝を伝えながら新たな決意を胸に秘め、しっかりと先を見据え練習に打ち込んだ。

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