第13話 冬の終わり
秋も終わり、周囲は一面の雪景色に染まった。
大晦日が過ぎ、年が明けて数日。
凍った川岸を眺めながら、いつもと同じランニングコースを走る。
俺が住む地域は豪雪地帯という訳ではないが、それなりに雪は降り、足腰を鍛えるには都合が良い環境を作っている。
今の時刻はまだ朝の七時。
先程、まだ初詣をしていなかった事を思い出して、いつものコースを辿り神社へと走っている。
走り始めて二十分ほど経っただろうか、数日前は人で溢れていたであろう石段に辿り着く。
この辺りでは一番大きい神社だが、三が日も過ぎているせいか人はまばらだ。
そして石段を登りながら思う、神社というのは何故身が引き締まるのだろうかと。
軽く会釈をし、鳥居を潜る。
参拝の作法は、来る前にネットで調べているので万全だ。
調べた作法を思い出しながら、賽銭箱の前に立ち鈴を一回鳴らした。
俺なりに奮発した五百円玉を、そっと賽銭箱に入れた後、二礼二拍手一礼、作法をなぞり拝礼する。
今年は大切な年になるはずだ。
最初で躓くと、それ以降何も上手く行かなくなる気がする。
何を願うか迷ったが、結果は自らの力で勝ち取るものだと思い、せめてその場に不備なく立てる様にと祈るのは無病息災。
そして気持ちも新たに、身を切る冷たい風を浴びながらロードワークへと戻っていった。
季節は三月下旬。
雪はまだちらほら残っているが、そこかしこに春の芽吹きを感じる。
今日は久々にジムに来訪者の予定があり、スパーリングをする事になっていた。
冬の間は本格的な実戦練習から遠ざかっており、会長とのマスボクシングに明け暮れていた。
とは言ってもいつもと同じく完全な寸止めではなく、打ち抜かないというのが正しいだろう。
本来ならばこういう環境では感覚が鈍っていくのが当然だろうが、相手が並ではない。
流石元世界ランカーというべきか、鼻先に軽く当たる距離に鋭いパンチが止められると、まるで撃ち抜かれたような錯覚に陥るので、微塵も気は抜けなかった。
その動き一つ一つが洗練されており、センスというか天性のものを否応なく感じる。
もう四十を超えているはずだが、本気でやれば勝てるというビジョンが俺には全く浮かんで来なかった。
見ている牛山さんも会長の動きに目を奪われており、動きを真似しようとしては、俺には到底無理だなと苦笑を浮かべている。
俺が軽いアップを始めていると、少し錆びた引き戸を開ける音がした。
どうやら今日の相手が到着したようだ。
入口に目を向ければ、それは以前にも一度手を合わせた事がある相手、宮野拳闘倶楽部所属の広瀬選手だった。
彼は去年の合同練習の後プロテストに合格し、来月デビュー戦を控えているらしい。
その為か去年に会った時よりも表情は些か険しく見えた。
「今日は宜しくお願いします。」
お互いに挨拶を交わし体を解した後、牛山さんが俺にグローブを嵌め、頑張って来いと言わんばかりに背中を叩く。
向こうからの提案で、デビュー戦と同じ三分四ラウンドで行われる事になった。
本番を見据えてという事だろう。
恐らく階級もそんなに離れていない。
俺が百七十センチ六十五キロほど(普段の体重で)、一方広瀬選手の身長は俺より二、三センチ高い程度だ。
カーンとゴングが鳴り、リング中央で両者挨拶の意味を込めてグローブを合わせる。
広瀬選手はオーソドックスなボクサーファイター。
ますはお互い様子見と言った感じに左を突く。
俺は人一倍練習したお陰か、ジャブの精度だけにはそれなりに自信を持っている。
相手はリング中央での差し合いは不利と悟ったか、バックステップをした後、一度ガードを下げ構え直す。
俺は仕切り直し等させまいと言わんばかりに、踏み込んで左ボディーから右ストレートを放つが、どちらもガードの上、ダメージは無い。
返しの強振を察知し俺が下がると、今度はこっちの番と踏み込んでくる。
だが、こちらとて捕まる訳にはいかない。
真っ直ぐには下がらず、回り込みながら左を突きリングを大きく使う。
拮抗した距離の測り合いが続き、両者リング中央を軸にして探る様に左を伸ばし合うが、どちらも攻めあぐね少しの時間睨み合いになった。
だがそれも束の間、相手が不用意に放った左ストレートを右で弾くと、返しに力の入った左を一発。
更に潜り込もうとして来る相手に、狙いすました右アッパー。
そして流れの悪さを悟り、仕切り直す為距離を取ろうとした所に、追い掛けて左、一連のコンビネーション全て綺麗に入った。
しかし、相手は覚悟を決めたか、もらいながらも強振してくる。
俺は苦手な乱打戦には応じないと言わんばかりに、冷静に下がりながら左を突く。
そこでゴングが鳴り第一ラウンドが終わった。
こういう展開は元々得意にしている事もあり、流れはこちらに傾きつつあるだろう。
俺はとにかく乱打戦が嫌いだ。
正確に言えば、最初から被弾覚悟でグイグイ来るタイプに弱い。
鈴木ジムの相沢君が、正にそのタイプと言える。
広瀬さんとのスパーリングも四ラウンド目に入っていた。
ここまではお互い決定打は無いものの、どちらかといえばポイントは俺に傾くだろう。
そしてこのラウンドも、これまでの流れを踏襲するべく、中央で出端を挫くジャブから入る。
相手もこれを受けてくれるなら俺好みの展開になるのだが、ここでグイグイ来られると結構困る、等と思っていると、先程までとは異なり、ガードを固めたまま低い体勢で強引に潜り込んできた。
想定とは違う展開に、こちらは体勢を整える事が出来ていない。
(迎え撃つか。距離を取るか。)
そう悩んでしまったのが命取り。
バックステップするが、相手はヘッドスリップで芯を外しながら構わず突っ込んでくる。
気付いた時には押される体勢で背にロープを背負っており、腕を押し付けられている為脱出も出来そうに無い。
試合ならばクリンチする場面だろうが、これはスパーリングだ。
ここで打ち合うしかないと、俺も覚悟を決める。
ピンチだが、不思議なほど頭は冷静だった。
落ち着いた思考で、これまでの相手の情報を整理する。
去年の夏から合わせて二度目、情報量は十分だ。
(パンチは相手が上だな。狙うなら初撃。攻撃の起点に合わせるのがベター。)
ふぅーっと、二人の呼吸が重なる様に吐き出された。
それが合図となり、両者同時に動く。
初撃に狙いを定めると、右に左に回り込もうとする動作をフェイントにして、相手の動きを誘導。
右に重心を傾けた瞬間、相手はフェイントにまんまと掛かり、逃がすまいと退路を塞ぐように左フックを放ってきた。
待ってましたと言わんばかりに、俺が合わせたのは右ストレート。
ほぼ同時に放たれた両者のパンチだったが、明暗を分けたのは軌道の差。
相手の左フックが当たる直前に、こちらの右ストレートが先手を打つ事に成功した。
これ以上はないと言うタイミングで、カウンターとなり突き刺さる。
更に返しの左で釘付けにすると、回り込んでロープを脱し距離を取ってジャブ。
先程のカウンターが効いたのだろうか、相手方の動きに精彩がない。
それでもガードを固めもう一度潜り込もうとしてくるが、同じミスは二度としないという強い意思を乗せた、力の籠ったジャブからワンツー。
そして優位を保ったままスパーリングは無事終了した。
「…有難うございました。」
お互いに頭を下げ合い、健闘を称え合う。
「いやあ、相変わらず左が物凄く痛いね。」
広瀬さんは悔しそうに語るが、意外にすっきりとした顔をしている。
俺の左が痛いというのは、自覚は無いが結構言われる事だ。
その度に少しずつ、自信を深めていく事が出来ている。
「いえ、こちらこそ最後のラウンド危なかったです。」
「そうなんだよな~、あの距離苦手にしてるの何となく感じたから勝負に出たんだけど、逆に良いの一発もらっちゃったよ。」
そう語りながら、広瀬さんは爽やかに笑った。
その後、帰り支度を終え、
「じゃあ、試合頑張ってください。」
「そっちも、今年プロテストでしょ?まあ普通に受かると思うけど、油断しないで頑張って。」
受かった人にお墨付きをもらえると、幾分かは安心するものだ。
その後、軽い挨拶を交わし帰っていくその背に一礼をして、この日の練習を終えた。
広瀬選手とのスパーリング後、サンドバッグを叩く牛山さんを横目に、リング中央で会長と二人向かい合い座る。
「じゃあ今日のスパーリング内容について話そうか。」
時間もまだ早いという事で、俺の長所や短所、今後の課題について話し合う事になった。
己を知り敵を知れば百戦危うからず。
そんな諺があるが、ボクシングに於いて敵を知るのはどうしても限界がある。
間接的な情報で得られるものは、実際に手を合わせて得られる情報に遠く及ばないからだ。
故に事前に作戦は立てるが、試合の中で対処していかなければならない事の方が多い。
だからこそ正確に自分を把握しておく事は重要だ。
「統一郎君は自分の一番の武器って何だと思う?」
そう問い掛けられ考える。
自分の一番自信のあるパンチといえば、それはやはりジャブだろう。
父に重要性を説かれてから、練習しなかった日は一日も無い。
更に影響を受けたのがその後に読んだボクシング漫画で、世界チャンピオンがジャブだけで主人公を完封する姿に憧れを抱いた。
普通は所詮漫画は漫画と思うのだろうが、子供の俺はそうは思わなかった。
目指し続ければ自分もそうなれると信じて疑わなかったのだ。
毎日鏡合わせに自分と向き合い、筋肉の動きにさえ気を配り、構えや角度を考え、鏡を隔てた自分が反応出来ない姿をイメージして打ち続けた。
「ジャブですね。今まで誰が相手でも有効だったと思います。」
俺は自信を持ってそう答えた。
返答に対し、会長は少し考えた後口を開く。
「厳密にいえば『左』だね。君の左は他のデビュー前の選手とは練度が違うんだよ。」
言っている意味があまり分からず問い返す。
「左の全てのパンチがっていうことですか?」
正直これには疑問符が付く。
ジャブはともかく、フックやボディにはそこまでの自信は無い。
「ああ、言い方が悪かったね。要はストレート系に限ってという事だよ。」
納得出来たと頷くと会長が説明を続ける。
「君は左を器用に使い分けているんだけど、その強弱に関わらずモーションが殆ど変わらないのが一つ。後、多分瞬間的な握力が強いんだと思うけど、左だけやけに切れるんだよね。」
パンチの質については意外だが、概ね俺の目指している形に相違ない。
牽制のジャブ、動きを制する為のジャブ、そして相手を撃ち抜き倒す為の左ストレート。
理想は全てが同じモーションで繰り出され、予備動作も察知させず回避を許さない事。
自分の努力が会長から見ても実を結んでいる事実に、心嬉しくなった。
だがいつもの流れからすると、ここから改善点が挙げられていく事になる。
「では逆に統一郎君の苦手な展開と、一番避けなければならない状況は?」
まあそうなるだろうなとは思っていたが、ここから反省会に移るらしい。
「乱打戦に持ち込まれる事ですかね?」
これはいつまで経っても治らない。
筋力トレーニングもやっているのだが、ハードパンチャーは才能と言われる様にその壁は中々越えられるものではないのだ。
会長はよく分かっているねと頷く。
「そうだね。でも、別に打ち合いに弱いという訳ではないんだよ?」
思いがけない言葉を掛けられ、疑問符の浮かんだ瞳で会長を見つめると、苦笑交じりに説明を続けた。
「本当だよ?問題はそういう展開になると冷静さを欠く所だね。でも、今日はよく考えて動けていたから、とても良かったと思うよ。君のパンチは早くて切れる、自信を持つべきだ。慌てなければどんな状況でも引っ繰り返せる可能性はあるんだから。」
そう言われ今までを振り返る。
すると、確かに今まではロープを背負う状況に置かれた時、冷静さを欠きそこから脱する事ばかりに気が行っていた。
そして不用意に動き、そこを起点に迫られるという場面が多々あった。
だが何故だろう、今日は冷静でいられた気がする。
いや、今まででも冷静にやれる相手はいた。
その違いは…。
「情報量だよ。君は相手の情報量が多ければ多いほど、優位に試合を組み立てられる。」
まるで、俺の考えを読んだ様に会長は語りだした。
「僕がこれまで見た感じだと、君は同じ相手とスパーリングする時は殆ど優勢だったよ。でもこれは、長所であり短所でもあるんけどね。」
会長曰く。
俺は自分への自信の無さの表れか、相手の事が良く分からないと冷静な試合運びが出来ず、自滅する事が多いらしい。
要はこれからの課題としては『自分に自信を持つ』これに尽きる。
ある意味どんな課題よりも難しい問題を突き付けられた気がした。
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