第9話 春来たりて
まだ満開とは言えない桜を見上げながら、 これから何度も通う事になるであろう校門を潜る。
暦は四月の初旬、俺も晴れて高校生になった。
慣れない校舎を眺めながら進み、四組とプレートに書かれた教室に足を踏み入れる。
俺の机の場所は、どうやら丁度教室の真ん中辺り。
緊張抜けきらぬといった様子で辺りを見回すと、
「おはよ!遠宮君!」
元気良く挨拶され、小心者の性か体が一瞬びくっとなる。
声を掛けてきたのは、芹沢春という女生徒。
彼女は、以前一緒だった中学のクラスで学級委員長を務めていた事もある、ショートカットの活発で可愛らしい少女だ。
その笑みはとても愛嬌があり親しげに接してくれる為、初対面でもすぐに打ち解けられる上、面倒見も良く、転入当初は俺もよく助けられたものだ。
だが距離が近く積極的にボディタッチを多用するのが原因か、思春期特有の『俺に気があるのではないか』という思い込みを抱かせる事も多々あるのが難点とも言える。
その被害者はクラス男子の相当数に上っており、勿論例に漏れず俺もその一人だ。
しかし、不思議と女子から嫌われているという事も知る限りは無かった。
恐らく性別関係なく接し方が変わらないからだろう。
「同じ中学なのは私達だけか、ちょっと寂しいね。」
芹沢さんが周りを見渡しながら聞いてくる。
俺もクラスを見渡すが、知っている顔はいない。
「ま、いっか。新しい友達作ればいいしね。遠宮君も頑張りなよ。」
そう言った後、早速その言葉を実行に移している様で、所在無さげに机に座っている女子に話し掛けていた。
頑張れと言われたが、その姿を見ればとても俺には真似出来ないと苦笑いが零れる。
今日のスケジュールは入学式などのイベントだけだったので、午前中で終わった後はその足でジムへと向かった。
学校からジムへはそれなりの距離がある為、練習用のスウェットに着替えてから走って向かうことになる。
校門を出る時、芹沢さんとすれ違い挨拶を交わしたが、俺が服を着替えて軽快に走っていく姿を、首を傾げ不思議そうな表情で眺めていた。
ジムの近くまで来ると、既に実さんと牛山さんの二人が揃って談笑する姿が確認出来た。
今日は少し特別な日だ。
ジム開設までの準備が全て整い、本格的にスタートする最初の日。
叔父にも同席してもらいたかったが、仕事があるというのでは仕方がない。
ちなみに、この建物自体の所有権は現在叔父に移っている。
やはりここまでやってしまっては、買い取る他無かったらしい。
「どうだ?良い出来だろ。」
【森平ボクシングジム】そう書かれた木製の看板を抱え語るのは牛山さんだ。
おまけの様に木彫りのネームプレートが2枚あり、それぞれ『遠宮統一郎』『牛山和夫』と名前が刻まれている。
何でも知り合いの大工に頼んで作ってもらっていたらしい。
相変わらず人相に似合わずまめな人だ。
ジムの名前は叔父も含めた四人で散々議論した。
父の財産で設立したのだから、父の名は入れるべきと会長達は主張したが、それは俺が断った。
このジムの会長は実さんなのだから、その名を取るべきというのが俺の案。
議論は平行線を辿り、結果どちらの案でもないこの町の名から取る事で決着した。
「いやあ、何だか感慨深いね。」
実さんはそう語りながら、ついに始動する自分のジムに思いを馳せていた。
「そうですね、会長。」
俺がそう呼び掛けると、言われ慣れていないので気恥ずかしいのか、頬をポリポリと掻きながら照れくさそうにしている。
「ついに来年からはプロボクサーとしての戦いが始まるね。」
そう、来年十七歳になれば、プロの試合に出場する事が出来る。
勿論まだその資格を持っていないので、捕らぬ狸の皮算用に成らぬ様に気を引き締めなければならないだろう。
こうして、出来ると分かっていた事でも実際に形が見えてくると、自然に気持ちも引き締まっていく。
今まで朧気にしか見えていなかった道が、明確な目標として意識の中に刻まれていく様だ。
それと同時に、相反する感情も涌いてくる。
(俺は本当に通用するのだろうか。)
そんな思いがふと頭を過ぎっていた。
一度考えてしまうと弱気の虫が顔を出し、さっきまでの感情を押し退けて不安が勝っていく。
どうやらそれが顔に出ていたらしい俺に、会長がいつもと変わらない笑みで語り掛けてくれた。
「大丈夫だよ、君の努力は間違ってない。もし通用しなかったら、それは僕の責任だ。」
たったそれだけの言葉で、すぅっと不安が消えて行く様な気がした。
その声は静かだが確かな力強さを含み、この人についていけば間違い無いと、そう思える安心感があった。
いつものメニューをこなし体を解していると、会長はこれから先の予定を説明してくれる。
「取り敢えず夏休みまでは今まで通りだね。休みに入ったら少し実戦練習が増えると思うよ。こちらが伺うだけじゃなくて、これからは向こうからも来てくれるからね。」
今まで数多くのジムに出向いてきた。
時には泊まり込みになる事さえあったが、他のジムからこちらに来てくれた事は一度も無かった。
話によると、今まで回ってきたジムで俺の評判はそれなりに高く、比較的近隣の県のジムからは、定期的に手を合わせられないかとの連絡が来るらしい。
会長はもしかしたら最初からこうなる事を分かっていたのだろうか。
この人ならあり得ると思った。
「いずれ世界を取るかもしれない子だからって触れ込んでるからね。でも、その価値を認めさせたのは間違いなく君の実力だよ。」
流石に世界は遠すぎてまるで見えないが、俺の価値を、努力を認めてくれた人がいると、その言葉を聞く事によって、俺の中に少しだけ自信の種が植え付けられた気がした。
これがいつか芽を出し、花を咲かせる日が来るだろうか。
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