第5話 新天地

叔父の住む町は森平市もりひらしという。


本州北部、太平洋側に位置する陸中県りくちゅうけんにある市で、人口は6万人弱。


田舎町といって差し支えないだろう。


山に囲まれた盆地で、夏はそれなりに暑く、冬はとても寒く雪もそれなりに降るが、豪雪地帯という程ではない。


これだけ聞くと暮らしにくそうだが、住めば都という言葉もある。


特に名物があるわけでも無い為、ならば観光地はと思うだろうが、それも目ぼしいものは無い。


だが、この落ち着いた雰囲気の町を俺はとても気に入っている。


叔父が勤める病院は自宅マンションから3㎞程の所にあり、この町では一番大きな病院だ。


市の中心には森平川という地名と同じ大きな川が流れていて、その川沿いの道を走るのがいつもの日課になった。


その道の先にはそれなりに長い石段があり、上にはこの町で一番大きな神社がある。


いつものロードワークでは中段までを使わせてもらっており、境内まで上がる事はないが、時節の参拝の折その高台から見下ろす森平川は美しく雄大だ。


以前は隣町の泉岡市に叔父の通っていたジムもあったらしいが、練習生もいなくなり、今はもう無くなってしまったと、叔父が寂しそうに語っていた。










引っ越して来てから一月半程が経ち、こちらの学校にもすっかり慣れた頃、叔父が以前話していた練習場所に案内してくれるという。


そこは住宅街から少し離れたそれなりの広さがある土地で、平屋のプレハブが一軒建っていた。


元々は建築系の会社が事務所として使っていたものらしい。


中に入るとかなりの広さがあり、思っていた以上の設備が揃っていた。


「どうだ?」


叔父が自慢げに問い掛ける。


俺が驚いていると、叔父は更に上機嫌になり微笑みを浮かべた。


設備の中でも一番目を引いたのは、やはり中央に陣取るリングだ。


正直どうやって作ったのか見当がつかず、興奮したまま叔父に問うた。


すると、叔父は更に得意気になって語り続ける。


「どうせなら本格的なのをってな、 前に通ってたジムの伝手で職人を紹介してもらって、何とか作ってもらえないか頼み込んだんだよ。」


これほどのものを揃えるのだ。


かなりの金額が掛かるに決まっている。


どうしてもその事が気になって、恐る恐る問うてみた。


これは聞かない方が良いかとも思ったのだが、自分の為にここまでしてくれている以上、聞かない訳にも行くまい。


「ガキはそんな事気にしなくて良いんだよ、お前はお前がやるべき事をやれ。」


叔父は上機嫌から一転少し不機嫌な表情になり、俺は無粋な事を言ったと後悔しながら、素直にお礼を返しておく事にした。


そんなやり取りもありつつ、もう一度室内を見渡すと、この設備の全てが俺の為のものだと、そう感じる度気分が高揚し興奮が沸き上がる。


それと同時に、あの夜夢を語っていた父の姿が思い出された。


いつか自分のジムを持ち、そこからチャンピオンを排出するのだと嬉しそうに語るあの顔を。


「ここに、ジムを作れないかな。」


そんな事を思い出していたら、馬鹿な考えが無意識に口を突いて出ていた。


すると、叔父からは当然の答えが返ってくる。


「いやいや、何馬鹿な事言ってんだ。会長は誰がやるんだよ、トレーナーは?」


まさに正論。


こんな所でジムをやるとしても、引き受けてくれる人等いないだろう。


俺が落胆し俯いていると、


「高校は大きなジムが近くにある所に行け。若しくはボクシング部。それが現実的だ。」


叔父はそう語ったが、その声からは寂しさが滲み出ている様な気がした。


本心を言えば叔父もここにジムを作りたいのではないだろうか。


だが俺にはその問題以外に、とても気になっていた事があった。


それはこの練習場の中を見た時から思っていた事だ。


俺が遠くのジムへ行った後、この建物を返却する時はどうするのだろうかという疑問だ。


入って左手には高さ二メートル程の立派な姿見があり、天井には逞しくも真新しい二本の鉄骨が、クロスした状態でその存在感を放っている。


その鉄骨からはサンドバッグが吊るされ、さらに固定された状態のパンチングボールがあり、床は全面ピカピカのフローリング。


一番の問題は鉄骨以上の存在感を放つリングだ。


そのコーナーポストには、鉄の杭に衝撃を吸収する為のクッションが巻かれている。


問題はその根元だ。


どこからどう見ても床を突き抜けているのだ。


筋トレ用のマシンまでは流石に無いが、それ以外の設備は殆ど揃っているのではないだろうか。


どう考えても俺が一人で使うには過分だ。


これが事務所として使われていたとは思えない。


恐らく本来あった原型は最早留めていないだろう。


「本当に凄いし有難いけどさ、でも返す時はどうするの?もうこれ他の用途に使えるとは到底思えないんだけど…。」


俺がそう聞くと、何故か叔父は黙ったままだった。


その反応を見て悟る。


これはやっちまったんじゃないかと。


恐らくテンションが上がりすぎて、歯止めが利かなくなったのだろう。


こんな時に、この人が父の兄である事を実感してしまうとは思わなかった。


「叔父さん、どうしたの?許可取ってるんだよね?」


俺がそう尋ねると、明らかに動揺した表情を正して返答する。


「お、おう、勿論だ。」


絶対取ってないことを確信した。


まあ、とはいえ俺は嬉しかった。


俺の為にここまでやってくれる人がいる。


その事が何より嬉しかった。


時期を見計らって大きなジムに移り、不足のない環境で練習に打ち込む、その方が強くなれるだろう。


自分の力量にあった試合を組み、成長を重ね、もしかしたらベルトに手が届く可能性もある。


勿論自分次第ではあるが、そんな未来が有り得るかもしれないのだ。


だが、何故だろう?


何かが心に引っかかって納得出来ない自分がいた。


今の気持ちのままその選択を選んでも、良い結果には結びつかない様な気がしてならない。


ならば、やはり俺はここから始めるべきではないだろうか。


ジムを立ち上げるというのがどんなに大変か、どれほどの金銭が必要になるのかも俺には分からない。


だが、今なら父の残してくれた財産がある。


現役の選手達がこんな考えを知れば、そんなに甘くねえよと言われることは間違いないだろう。


それでもここが俺の居場所だと、もう心が決めてしまっている。


父が亡くなった後、いつも何か物足りなかった。


父以上に自分を支え、理解してくれる人は、この先現れないだろうと思っていた。


そう思うと、心にぽっかり埋まる事の無い穴が開いた様な感覚に陥った。


しかし、今はどうだ?


俺は正直な気持ちをもう一度叔父にぶつけた。


「叔父さん、俺はここから始めたい。ここにジムを作りたい。無理かな?」


叔父は心底意外そうな顔をした後、俺を諭しているのだろう、静かに語り掛ける。


「本気か?先の事ちゃんと考えてんのか?」


俺の心はもう決まっていた。


「それでも、俺はここから始めたい。」


叔父は暫く考えてから、重い口を開いた。


「……分かった。方々手を尽くしてみる。だが、どうにもならなかったらちゃんとしたとこに行けよ。」


その言葉には頷いたが、何となく叔父なら何とかしてくれるのではないかと、何故かそんな安心感があった。


だがそれと同時に、全てを叔父に頼り切るのはあまりに情けないので、せめて自分に出来る範囲で、不足を補う為の行動を開始する事にした。


とはいっても、俺に頼れる相手など数えるほどしかいないのだが。









「もしもし、あ、どうも、お久しぶりです。」


後日、この前まで在籍していた成瀬ボクシングジムに連絡を取っていた。


会長は電話に出ると、俺を気遣いやんわりとした口調で語る。


「おお、統一郎だが?大変だったな…。」


葬儀の時にも会っているのだが、あの時は上の空で碌に挨拶も出来なかった。


「あ、先日はどうもすみませんでした。それで少し相談があるんですが、今時間良いですか?」


相談というのは、練習相手とトレーナーの問題だ。


「もしそちらが良ければなんですけど、偶にで良いので、練習にお邪魔させてもらったら駄目でしょうか?」


かなり図々しいお願いだという事は理解していたが、俺は頼れる人を他に知らない。


「おお、良いぞ。何時でも来い。毎週でも良いぞ」


有難い返事をもらったが、流石にもう月謝も払っていない身でそこまで甘えるわけにもいかないだろう。


(行くのは長期休暇に入ってからになるから、まだ先だな。)


この先どうなるのかは分からないが、答えを出すまでには幸い時間がある。


もしジムの件が無理だったとしても、それはその時考えれば良い。


そんな事を思いながら、取り敢えずロードワークへと駆け出した。





川沿いを走っていると、とても大きな鳥が上流の方へ向かい、逞しく羽ばたいて行く。


一瞬だった為何の鳥かは分からなかったが、何故かとても目を引いて、俺の新しい門出を祝ってくれている様な気がした。

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