第4話 喪失の記憶


それなりに満ち足りた生活だった。


自分のやりたいことを出来る環境があり、それを理解してくれる人がいる。


自分の未来はこの先に続いているのだと疑っていなかった。


だが、そんな日々は突然終わりを告げることになる。


中学一年も終わりに差し掛かった2月、



父が他界した。



原因は、運転中に脳卒中を引き起こしたことによる事故らしい。


不幸中の幸いというべきか、巻き込まれた人はおらず、犠牲者は父だけとのこと。


報告を聞いた瞬間、まるで体から熱が抜け落ちた様な感覚に陥った。


悪い夢ではないかと、何かの間違いではないかと、何度もそう思った。


しかし、目の前の棺で人形の様に眠っている父の姿が現実であることを物語っていた。


茫然自失とする俺を気遣うように、葬儀やそれにまつわる手続きなどは、全て叔父が取り仕切った。


俺は訳も分からず遺影を持って立っていたことしか覚えていない。


そして何もかも理解出来ず、受け入れることも出来ないままに、日々だけが目まぐるしく過ぎていった。


正直、この辺りの記憶は曖昧だ。







その後、叔父が後見人として俺を引き取る事となった為、それに伴い当然引っ越し作業が必要になってくるのだが、それらは叔父の気遣いもあり、俺が落ち着くまで待ってくれていた様だ。


部屋の片付けの最中、荷物を段ボールに詰める度、今までの父との思い出が湧き出してきてはその度に手が止まった。


葬儀の時には出なかった涙が、その時初めて、涙腺が壊れた様にとめどなく溢れたのを微かに覚えている。


引っ越し業者のトラックに荷物が運び込まれ、部屋の中が空っぽになるのを確認すると、何とも言えない気持ちに襲われた。


「おい、そろそろ行くぞ。」


父の使っていたグローブを抱えたまま動かない俺に、叔父が急かすように呼び掛ける。


軽く返事をしてから、俺は叔父の待つ玄関先へ足を向けた。


いかにも足取りの重い俺を見て、叔父は少し溜息をつくと、


「環境が変われば気持ちも少しは落ち着くはずだ。少なくともここよりはな。」


確かにその通りだろう。


ここにはあまりにも思い出がありすぎる。


そして車に乗り込んでからふと思った。


叔父と二人きりで話したことが、果たして今まであっただろうかと。


確かに最近は一緒にいる時間も多いが、絶えず微妙な空気が漂っており殆ど会話は無い。


これからはその叔父と一緒に住むのかと考えるだけで、不安が心を満たし気持ちは沈んでいった。


そうして俺が俯いていると、


「そういえば、お前とこうして話をした事って無いな。」


叔父がそんな事を言ってきた。


恐らく重苦しい空気に耐えきれなくなったのだろう。


こちらは心を見透かされた様でドキッとしたが、会話があると少しは空気も和む。


人見知りの俺から切り出すのはハードルが高かったので、寧ろ助かったと言えよう。


いや、大人として俺に気を使ってくれたのだろうか。


「隠さなくて良いって、お前俺のこと嫌いだったろ。」


軽く否定はするが、苦手だった事実は認めておこうと思う。


これから一緒に住む上で、ずっとこの空気の中過ごすのは精神的にきついものがあるからだ。


「はは、正直に言うんだな。でも何でだ?」


そう聞かれ返答に困る。


一度今までを振り返ってみると、理由は一つしか思い浮かばなかった。


そもそも叔父と会うのは、精々が一年に一度くらいの為、思い出す出来事自体少ないのだ。


その思い出の中で俺が不快に思っていたのは只一つ、父に対しての言動くらいだろう。


理由らしきものを伝えると、叔父には身に覚えがないらしく首を傾げていた。


更に詳しく状況やその時の叔父の言動を伝えると、


「ああ~、あれはなぁ。」


叔父が心持ち言いづらそうに口を開く。


「あれはなあ、羨ましさもあったんだよ。」


予想外な答えが返ってきて、意味が分からず聞き返してみると、


「実はなあ、ボクシング始めたのは俺の方が先だったんだよ。」


今の叔父からは想像も出来ない言葉に、目を見開いて叔父の顔を見やる。


意外な事実に驚く俺を尻目に、叔父は構うことなく話を続けていった。


「事実だよ。同じ時期にプロテスト受けて俺は落ちた。言い訳すると結構忙しかったってのもあるんだけどな、その後はもう時間も取れなくてな。」


不思議なものだが、好きな物事が重なるというたったそれだけの事で人は親近感を覚えるらしい。


さっきまで凄く遠い人だった叔父が、この時初めて近くに感じた。


そして昔はそうだった事を理解したが、今はどうなのかと問い掛けると、


「今でも好きだし、何だかんだで関わってるだろうが、お前はどうすんだ?人生ボクシングだけじゃない、辞めても誰も責めねえぞ。」


叔父の口振りからして、これから住むことになる町ではボクシングジムは無いのだろう。


だとすると、出来る事は限られる。


勿論辞めたりはしないが、恐らく本格的に指導を受けられるのは高校に入ってからになるはずだ。


しかし、自主トレくらいはしておきたいと思い、良い場所はないかと問うてみる。


「まあそう言うと思ってたからな、それについては多少考えがある。任せろ。」


叔父の反応から、俺の予想とは違い、もしかしたら近くにジムがあるのかもしれない。


だとしたら、意外に早く再スタートが切れると思い少し頬が緩んだ。


そんな俺の期待に膨らむ表情を読み取ったか、叔父が申し訳なさそうに口を開く。


「期待してるとこ悪いんだが、ジムも無いし近くの学校にもボクシング部は無い。…まあ、無いなら作ればいいだろ。丁度良い場所があったはずだから、そこ借りれば何とかなる。」


そんな場所があるなら是非とも使わせてもらいたい所だったが、遠慮もあり多額の費用が掛かるのであれば、無理はしなくても良いと伝えた。


「大丈夫だ、そこの主はうちの患者だった爺さんだからな。それに今は使って無かったはずだし、格安で借りられると思うぞ?必要な物も出来るだけ揃えようとは思うが、あまり期待すんなよ。」


場所を提供してくれるだけで有難い。


高校に上がるまでの二年間は、基礎体力作りでもしていればいいのだから。


それにしても、まさか叔父がここまで協力的だとは思いもしなかった。


正直、中身が入れ替わっていると言われても、信じてしまいそうだ。


それだけこの人の一面しか見えていなかったという事なのだろうが。


その後もボクシング談議に花を咲かせながら、車はこれからのホームに向かって行く。


「そういえば、お前がこの前までいたジムあるだろ。そこにすげえ有名な選手がいたこと知ってるか?」


父から以前世界ランカーがいたことは聞いているが、それだけで詳しくは知らない。


「うわぁ、勿体ねえ。本当に凄かったんだぞ。まあ、もう二十年くらい経つからなぁ。」


叔父は余程その選手が好きだったのだろう。


俺が知らない事を酷く残念そうにしていた。


しかし、そんなに有名な選手を俺が知らないのはおかしい気がする。


そう思い聞いてみると、全国区で凄く有名というわけではなく、一部地方での人気らしい。


それでもジム内ではもっと話題になっても良さそうなものだが、何か触れたくない理由でもあったのだろうか。


そんな会話を続けている内に、先程迄あった苦手意識はいつの間にか消え失せ、叔父に対し父に似た親近感を感じ始めていた。









「…おい、起きろ、着いたぞ」


ラジオに耳を傾けている内に、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。


車から降りるとまだ空気が少し肌寒い。


見慣れぬ景色だが、来る前に感じていた不安はあまり無くなっていた。


車中での叔父との会話のお陰だと思う。


気を使ってくれたのか素なのかは分からないが、有難い事だ。


「ああ、ここが俺のマンションだ。遠慮なく入れ、どうせ独り身だからな。」


始めて入る部屋に少し緊張しながら、小声でお邪魔しますと言い中に足を踏み入れる。


「…お前これから帰ってくる度にそうやって入るのか?」


そう言われて初めて、ここが自分の家になるのだという意識が涌いてきた。


「そうだね。これからはここに帰ってくるんだもんね。」


珍しいものを見るように、部屋の中を見渡してみる。


部屋はかなり広かった。


六畳の洋室が二部屋と、和室が一部屋。


そして八畳ほどのリビングに広めのダイニングキッチン。


これは中々高そうな物件だ。


やはり父とは稼ぎが違うのだろうか。


しかし、見渡せば見渡すほど勿体ない使い方をしている。


そう思った理由は、折角の良い部屋が台無しになるほど汚れていたからだろう。


そこら中に燃えるごみの袋が置きっぱなしになっており、洗い物もそのまま。


床も所々黒くなっており、何だろうと思い注視すると、どうやらシミだ。


「こっちがお前の部屋だ。ん?どうした?汚いって?まあ気にすんな。」


俺の様子に反し叔父は全く気にしていない様子。


叔父が良くてもこちらはきついため、まずは部屋の大掃除をする事に決めたのだった。


ちなみにあてがわれたのは和室の部屋で、少し埃が積もっていたが良い部屋だと思う。

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