第3話 模擬戦
「練習思い出して、落ち着いでやれば大丈夫だがらな。」
そう語り掛けてくるのは、成瀬会長だ。
白髪交じりの初老、東北訛りが良い味出してると思う。
俺が今何をしているのかという状況を説明するには、少し時系列を遡らなければならない。
ある日の練習後に、会長が一つ提案を持ち掛けてきたのだ。
「来週時間あるが?向ごうのジムに丁度良い選手いるんだども、おめスパーやってみねが?」
中学に上がって間もない五月の始め、会長が切り出してきた初の練習試合ともいうべきもの。
何でも俺の経験を積ませる為に、知り合いのジムに声を掛けて回ってくれていたらしい。
確かにいつもシャドー、サンドバック、ミット打ちや縄跳びばかりでは自分の成長が分からなくなってくる。
身近に比べる相手がいないというのも問題だ。
そんな状況の俺に断る理由などあるはずもなく、二つ返事で引き受ける。
そして遠征当日、会長の運転する車で約4、50分ほど走っただろうか。
出向いたのは、南の県境を過ぎた辺りにある【鈴木ボクシングジム】という中々に立派な外観のジムだ。
到着してすぐ、俺の相手をしてくれるらしい選手を会長が教えてくれる。
その選手は【
彼は既にジュニアの大会にも出場しており、直近の15歳以下の大会では準優勝という成績を収めている様だ。
同年代の中では、全国でもかなり上位に食い込む実力らしい。
正直少しだけ臆したが、相手もプロ志望と聞けば対抗心が沸いてくる。
そんな俺の緊張を感じ取ったか、会長が声を掛けてくれた。
「相手は強えども、おめは練習もしっかりやってるし才能もある。気負わねえでやれば大丈夫だ。」
才能と言われると流石に自信はないが、今は会長の見立てを信じたい。
実戦は父との軽いスパーリングしか経験した事がない為少し不安だったが、期待されれば応えたくなるのが男だろう。
ルールは一ラウンド二分、全三ラウンドの十五歳以下の大会と同じルールだ。
「今日はよろしく頼むな。」
当ジムの鈴木会長が挨拶をしてくれたので、俺も礼儀として挨拶を返しておく。
その見た目は、こちらの会長よりも随分若い。
「お願いシャース。」
隣で元気の良い声を上げるのはスパーリング相手の相沢さん。
その風貌は、髪を金髪に染め上げ今どきの若者といった感じだ。
彼の元気な挨拶に触発され、俺も元気に返そうとしたのだが、こんな時に人見知りが発動し口籠ってしまった。
その後すぐにアップを始めたのだが、俺は相沢さんの軽快なシャドーが気になって仕方がない。
眺めているだけでどんどん不安が募ってくるのだ。
そんな中ふと気付く。
右腕右足が前、つまりサウスポーであることに。
突然だが、俺はジャブが上手いと良く周りに褒められる。
しかしサウスポー相手だと、経験がない俺には少し厳しそうだ。
鏡合わせのようになり、距離感を掴むのが難しいと聞いているからだ。
「準備良ければ始めるぞ。」
鈴木会長がリングの中央で呼んでいる。
待たせてはならないと、俺も返事をしてリングへと急ぐ。
相沢さんは胸の前でバンバンとグローブを当て、準備万端といった所か。
グローブは16オンスという、試合で使うものよりだいぶ大きいものだ。
父曰く、大きいグローブは振り回す癖がつきやすいらしいので、気を付けなければならない。
「ほれ、小さく打つごど。大振りしねえ。この二つ意識してな。」
会長が軽いアドバイスと共に差し出してきたマウスピースを銜え、体を解しながら備える。
「よし、始め!」
鈴木会長の元気な声が響いた。
「おねがいしゃす。」
リング中央でグローブを合わせ、いざ開始という瞬間、
「……っ!?」
相手はジャブを打つこともなく、左を真っ直ぐに伸ばしてきた。
不意を突かれた俺はまともにもらってしまい、鉄錆の様な匂いが鼻腔に充満する。
いきなりの奇襲。
ある程度経験を積んでいる者ならまずもらわないだろう。
俺は初っ端から経験不足を露呈する形となってしまった。
そしてその一発で完全にペースを握られてしまう。
何とか抗しようとするが相手はその後も止まらず、押しつぶさんとばかりに両拳を叩きつけてくる。
力強く振り回し、左右から大きく弧を描く様な軌道のパンチ。
(随分強引に来るな、このままじゃ何にも出来ない、俺もいいとこ見せないと!)
そんな展開が1分ほど続き、焦った俺が無理な体勢から打ち返そうとした時、
「落ぢ着げ!相手大振りだぞ!左回り!」
会長の声で血が上った頭が少し冷静になった。
ロープに体を預ける様にして呼吸を整え、ガードを固める。
(確かによく見れば大振りだ。格下だと思ってなめてるのか?)
ガード越しに相手を観察する余裕が出てきた。
(次の左を狙う!)
スパンッ!っと、相手のオーバーハンドの左に合わせた右ストレートが綺麗に決まる。
肩まで響くような手応えがあった。
効いたと思いたいが、どうにも相手の表情に余裕が見える。
そのため自信が持てず、追い打ちを掛けることは叶わなかった。
そして、ラウンド終了を告げるブザーが鳴り響く。
「よしっ、今の右いがったぞ。」
会長がそう言うなら、それなりには効いていたんだろう。
しかし一番大きな問題は、とにかくジャブが打ちにくいということだ。
左を打ち出した時、近い距離に相手のグローブがある為、中途半端な所で止められてしまうのが原因だろう。
足の位置も厄介だ。
丁度踏み込んだ所にあるので当たりそうで怖い。
一応対サウスポーの基本と言われているものはある。
足を相手の外側において、左回りで突いていくというやつだ。
しかし、ボクサーなら誰もが知っていることなので、当然向こうだって知っていると考えるのが自然だろう。
何より、知っているだけで実践出来るなら、練習など必要ない。
(だったら今出来る様になれば良いだけだ。その為の練習なんだから。)
今この時を成長の糧とするべく、心持ちを新たにした所でブザーが鳴り、第二ラウンドが開始した。
先程とは打って変わって静かな立ち上がり、お互いリング中央で牽制するようにジャブを打ち合う。
だが、やはり距離が慣れないせいか、俺のほうが分が悪い。
せめて、さっきまでのように大振りしてくれればチャンスもあるのだが、第2ラウンドに入ってからは小さく打ってくるようになった。
トントントンと叩く様な軽いパンチで牽制してくるのだ。
右はさほど強いパンチを打って来ない為、注意は自然と左ばかりに向かっていく事になり、結果左を警戒しすぎて、よく右をもらってしまう。
そんな悪循環を繰り返していた。
終始ペースを握られたまま時間は過ぎていき、第2ラウンド終了直前、苦し紛れに放った右が当たり、相手の動きが止まる。
まぐれでもチャンスはチャンス。
この機を逃す手はないと畳み掛ける。
ワンツーから、相手の返しに合わせて踏み込んで左ボディー。
さらに体の軸を保ったまま右アッパー、父に教わったコンビネーションだ。
狙った以上の手応えで、綺麗に入った。
それでも強気に打ち合いに臨んでくるが、そこで二ラウンド目終了のブザー。
「よしよし、少し慣れできたな。」
手応えはあったが、地力の差を肌で感じて思わず弱気な言葉が漏れてしまう。
「そんなごどねえ、良い感じだぞ。今の調子で油断しねえでな、足の位置、相手の外側だぞ。」
何度も教わった通りにこなそうとしてはいるのだが、如何せんやることなすこと相手のほうが上で上手くいかない。
やはり知識は知識。
実戦で覚えていくしかないということだろう。
第三ラウンド開始直後、ここまでの経験を生かし、正面には立たず左右に回り込みながら左を突く。
思いのほか良い感じ。
そう、打ちにくいのなら打ちやすい場所から打てばいい。
左回りに拘るから読まれるのだ。
(あくまでセオリーはセオリー。拘る必要はない。)
何となく感覚が掴めてきた。
動きを止めない事と、足の位置を意識しながら立ち回り、パシンッパシンッと小気味良い音を立てながらジャブを放っていく。
未だに被弾らしい被弾はしていない。
だが一分が経過した頃から、相手は突如体勢を低く構え、じりじりとにじり寄ってくる様相。
そして俺がワンツーを放った瞬間、見切ったように弾くとそのまま突っ込んできた。
慌てて突き離そうと強振するがガードの上。
気付けば足は止まり、体が密着するほど接近されていた。
どうやらこれが相手の得意とする形らしく、為すすべなく強引に打ち合いに巻き込まれていく。
応戦するがやはりこの展開は相手が上手。
直接的な被弾はないもののガードの上から細かく叩かれ、ずるずると後退することを余儀なくさせられる。
そして気付けば俺はいつの間にかコーナーポストを背負っていた。
当然脱出を図る為、神経を張り詰めて相手の動きを注視する。
すると相手もガードの上から叩くのを一旦止め、こちらの隙を伺う様にゆらゆらと体を左右に揺らし始めた。
そして僅かに重心が傾いた瞬間、
(今っ!)
そう思い相手の重心とは逆側に回り込もうとしたのだが、
「…っ!?」
スパァンッ!と、ジム内に大きな音が響き渡った。
こちらの進行方向を塞ぐように強振された相手のフックが、綺麗に俺の顔面を捉えたのだ。
どうやらまんまと罠に掛かってしまったらしい。
今まで感じた事の無い頭の芯に響くような痛みが走り、鼻から流れ出た血が顎を伝いマットに落ちる。
ラウンド終了まで恐らく後十秒程もないだろう。
(このまま、このままじゃ終われない!)
俺は最後の意地とばかりに左右を連打する。
相手も受けて立つと言わんばかりに応じてきた。
そして劣勢のまま、終了を告げるブザーを聞くことになってしまった。
「有難うございました!」
ちょっと頭が痛いが、礼儀として挨拶だけは元気に声を出せたと思う。
「遠宮君本当に強いね。大会とか出ないの?」
スパーリング後、相沢さんが結構気さくに声を掛けてくるので少し驚くが、気持ちは分かる。
お互いに全力でぶつかり合ったせいだろうか、距離が妙に近く感じるのだ。
大会は機会があったら出たいとは思っている。
このままいけば来年あたりにチャンスがあるかもしれない。
「出た方が良いって!遠宮君、絶対上位に食い込めるから!」
全国でも上位だと言われている、彼のような選手に認められるのは素直に嬉しい。
確か彼もプロ志望だったはずだ。
それを思い出し、少し冗談風味で世界を取れるんじゃないかと言ってみる。
「勿論。なるよ!世界チャンピオン!」
凄い自信家だと呆然とする俺を尻目に、彼は当然といった表情。
全国上位者というのは皆こうなんだろうか。
「その俺と互角だったんだから、自信持って良いと思うけどな~。」
その言葉には苦笑いしか出なかった。
今回のスパーリング、どう考えても俺の負けだ。
その後もまるで知己の友人のように親しげな会話をしながら、帰路の準備を整えている。
「あ、そうだ。アドレス交換しようよ。」
と、言われても、俺は携帯を持っていない為、そのうち買ったら教えるという約束だけをしてその場を後にした。
帰路の準備が済み軽い挨拶を交わした後、車に乗り込むとほぅっと息を吐く。
得るものの多い、とても有意義な一日だった。
だが、どうしても結果にも拘ってしまう俺は会長に問うてみたのだが、
「難しいごど聞ぐな。…う~ん。」
ここまで悩まれると申し訳なくなってくるため、気楽に主観でいいのでと伝えておく。
「う~ん、明確にどっちがってごどは難しいな。」
俺としては明確に負けたと思っていた為、この言葉は意外だった。
「アマチュア規定の判定なら…。」
確かにパンチのヒット数だけで言えば俺が上だったのかもしれないが、ダメージという意味でははっきり負けたと言っていいだろう。
ヘッドギアが無かったら倒されていた可能性すらあるのだから。
「どうだった?」
家に帰り着くと、珍しく父が帰ってきていた。
結果についてはどう伝えるか迷ったが、ありのままを伝えることにした。
相手がサウスポーで難しかったことや、経験不足を露呈してしまった事。
そして教えてもらったコンビネーションが決まった事も伝えると、
「だろ?だから言っただろ!世界を取れるって!」
父は現役の時から、口癖のように世界と言っていた。
結果は日本タイトルにも届かなかったわけだが。
届くか届かないかは別にして、上を目指すならそういう気概も必要になってくるのだろう。
父の姿を世界の舞台で見たかったと冗談交じりに伝えると、
「それはお前に託す!」
と、豪快に笑っていた。
それから二週間に一度くらいのペースで、会長の伝手を頼りに近隣の県のジムを回り、経験を積んでいった。
相沢君とも何度も顔を合わせたが、その度に強さを実感させられる結果になった。
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