第2話 情景2
ボクシングの練習とはまさに単調作業の繰り返しだ。
基本のジャブ、フック、ストレート、ボディブローにアッパー。
鏡を見ながら放ち、サンドバックに向かって打ち、ミットに向かって叩きつける。
だが、俺にとってその単調作業は何の苦痛にもならなかった。
寧ろこの一つ一つが、あの場所に繋がっているのだと考えるだけでわくわくした。
ただ父にはそれが心配でもあったらしい
「お前、友達と遊んだりしないのか?」
そう言われ少し考えるが、やはり練習のほうが大事だと伝えると、
「友達も大事だぞ~」
父は顔を曇らせながら、友達の大切さを説いてきた。
俺にしてもそのくらいは分かっているし、いなかったわけではない。
まあ、放課後一緒に遊ぶことがあまりない時点で、友達と呼べるか微妙ではあるのだが。
特にボクシングの練習をするようになってからは、一緒に誰かと遊んだ記憶がない。
偶に友達と遊んだ話をしてやると、父は自分の事の様に喜んでいた。
その時は父の気持ちを全く理解出来なかったが、今理解出来るようになっているのは成長の証か。
しかし、そんな毎日でも自分にとってはなによりも充実していた。
自惚れるわけではないが、それなりの手応えもあったと思う。
今思い返せば恵まれた環境だったのではないだろうか。
練習生の少なさもあってか、付きっ切りで教えてもらえる事も多かったし、週に二度程度、ジムで父と軽いスパーリングの真似事をする事も出来た。
「ほれほれ、ジャブ打つとき右のガード下がってるぞ。」
勿論これ以上はないほど手加減してくれていて、牽制の為のジャブ程度しか打ってこなかったが、やはり腐っても元プロ。
俺が何をしても簡単にあしらわれてしまっていた。
「左を制する者は世界を制するって格言あるだろ?あれの意味わかるか?」
ボクシングをやらない人間でも知っていそうな格言の為、勿論俺も知っている。
だが、改めて意味と言われると少し悩んでしまった。
言葉通りでは駄目なのだろうか。
「まあそうなんだがよ、俺はこういう意味だと思ってる。」
あまりにそのまんまの返答をした俺に父は苦笑いを浮かべていたが、想定内だったらしく続きを得意げに語り始めた。
「ジャブってのは、殆どのコンビネーションの基軸になる。それは分かるな?」
勿論知っている。
ワンツーだろうがそれ以外のコンビネーションだろうが、初撃はジャブが殆どだ。
「そうだ、じゃあそれは何の為にやる?」
そう言われ少し考えるが、これは簡単だ。
相手の目を眩ましたり、距離を測ったり、つまり強いパンチを打つ為だ。
正確に言うと打つ為ではなく当てる為ということだが。
「そうだ、つまりその軸になるものがしっかりしてねえと、どんな才能も無駄になっちまうぞってことだ。」
わかったか?というように父は顔を覗き込んでくる。
俺は何度も頷きながら、言われたことを反芻した。
「おう!才能に驕らず、 基本をしっかり練習してれば道は開けるって格言だ。」
今思い返すと誰でも分かることなのだが、子供にとってはその事実よりも、誰に言われたかのほうが重要だった気がする。
しかし、聞いていて降って湧いた疑問があった。
左利きの場合はどうなるのか?
実に下らない、子供らしい疑問だ。
下らないが気になってしまったものは仕方がないので聞いてみる。
「右を制する者はってのは聞いたことないが、ジャブはジャブなんだから同じだろ。」
中々にいい加減な答えだったが、確かにそれもそうだ。
この話を聞いてからは、とりあえず時間があれば狂ったようにジャブを練習するのが俺の日課になった。
父は転職してから、仕事の都合上家を空けることが多い。
そのため家事は基本的に俺が全て任されることになっていた。
掃除などは機械があるのでどうにでもなったが、一番苦労したのはやはり食事だ。
とは言っても、お金は置いて行ってくれるので、出来合いで済ませるということもやろうと思えば出来たが敢えてそれはしなかった。
幼き日の俺は、テレビでボクサーの減量風景を見ては、自炊出来なければボクサーに成れないと思い込み、料理本まで買って練習したものだ。
今思い返せば、父も試合前くらいしか自炊はしていなかったのだが。
恐らく、少量の食事で耐えて練習している姿を、カッコいいと思っただけなのだろう。
憧れの人種がやることは何でも真似したがるのが子供というものだ。
だが、やっている内に料理は意外に楽しいと思えてきて、徐々に俺の趣味になっていった。
数か月経ったある日、父の帰宅を待って、ボクサーにお勧めというメニューをネットで調べて作ってみたのだが、反応は思ったより芳しくない。
「凄えな!凄えけど、これ減量メニューだよな…。」
得意げな顔をしている俺とは正反対に父の反応は微妙だった。
何が悪かったかと聞いてみると、
「何というか、今は出来ればガツンとしたものが食いたいかなぁ~なんて、ほら、俺ってもう減量とか必要ないだろ?だから、もう少し油と塩気が欲しいかなぁ~……なんて。」
父は作った俺に申し訳なさそうに、顔色を伺いながら言葉を選んで話す。
理由を説明されると正に正論だ。
疲れて帰ってきた所にこれでは、力が出ないのも頷ける。
ちなみにメニューは、玄米に豆腐ハンバーグ、お浸しに味噌汁だ。
「よっしゃ!久しぶりに俺が腕を振るってやるか!」
父は腕まくりをし自分が台所に立つと、これぞ漢料理という感じで豪快に鍋を振り始めた。
「今はもっとガツンとしたもの腹一杯食っとけ。そのうち節制しなきゃなんねんだからよ。」
この時父が作ってくれた料理は、肉と野菜を適当に炒め、味付けも適当にした、誰でも作れるような簡単なものだったが、俺には掛けた手間以上にとても美味しく感じられた。
今でもたまに試合が終わった後、あの時の父の姿を真似て作っている。
父は帰ってくる度に熱心に指導してくれた。
その日教えてくれたのは、自分が得意にしていたコンビネーションだった。
「いいか統一郎、これの肝はな、三発目だ。」
何度も聞いているから知っているのだが、敢えてそれを口にはしない。
上機嫌の父を態々邪魔する必要もないだろう。
「相手の状況に合わせてな、フックをアッパーもしくはボディに切り替える。」
父が慣れた様子で手本のシャドーを実演しながら教えてくれる。
パンチが風を切る鋭い音に驚き声を上げる俺を見て、少し照れた様な嬉しそうな顔をしていた。
元プロボクサーの面目躍如といった所か。
「相手が強気に打ち返してきそうなら、踏み込んでボディ!」
ダンッと勢いよく踏み込む音と共に、切れのあるパンチが空を切る。
「ガードを固めるなら、強めのフックでずらし、隙間に渾身のストレートだ!」
プロというのはやはり迫力が違う。
厳密に言えば引退した元プロだが、それでも素人とは雲泥の差だった。
その風を切るパンチに打たれる自分を想像すると、背筋がぞくっとしたのを覚えている。
「敢えて三発目をフェイントにして、最後に渾身のストレートをボディにもっていくのもいいな。」
確かに父が試合を優勢に進める時、こんな感じのコンビネーションが決まっていた様な気がする。
だがこの人の場合、優勢にしていても落とす試合が多かった。
理由は持って生まれた旺盛なサービス精神のせいだろう。
相手がふらふらで、安全圏からジャブを打っていれば判定で勝てる試合なのに、会場を盛り上げるべく危険を冒して態々打ち合いに行くのだ。
その結果乱打戦になり、ダウンの応酬。
もどかしくも思ったが、盛り上げたい気持ちは理解出来る。
自分が主役のリング、主役の時間、せめてその時だけは輝きたかったのではないだろうか。
もしかしたら、それがなければもう少し上も狙えたのかもしれない。
だが、父の性格上それを良しとしなかった。
何というか、最後まで太く短くといったイメージの人だった。
俺は周りの指導もあり順調に上達していたが、どうしても苦手なものが一つだけあった。
ロープ、所謂縄跳びだ。
テレビに映る某世界チャンピオンを真似て軽快に飛ぼうとするのだが、なんというかとてもお粗末だ。
恐らく漫画ならばドタドタという擬音がつくだろう。
「はははっ!お前っ、なんだそれっ!」
父に大声で笑われ、さすがにカチンとくる。
本気でやっているのに笑うのは酷いと非難すると、父は申し訳なかったというジェスチャーをしながら謝っていた。
「悪かったよ、そう拗ねんな。縄跳びなんて練習すりゃそのうち誰でも出来るんだからよ。 な?だから気にすんな。」
そう言われても全く出来る気がしなかった。
言っているのが先ほどまで大笑いしていた本人なのだから、それも当然だろう。
「本当だって。お前運動神経良いんだから。すぐ出来るようになるって、俺を信じろ。」
その言葉通り、いや、それよりはかなり時間が掛かったが、三か月後くらいには、これぞボクサーと言っていい軽快さで飛べるようになっていたと思う。
そんな環境の中で日々を過ごしながら、俺は中学生になった。
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