懼れに伸ばす、その手の先に

 触れる事すら躊躇った。その言い訳となる感情を、ずっと探している。



 中途半端な優しさなど、私にはいらない。


 それはこの世で一番残酷なものだから。

 期待させて、それだけで。

 その後は落ちていくだけだもの。落ちて、朽ちて、崩れてゆく。


 ぼろぼろと崩れ去ったそこに、何が残っているのだろう。何があるだろう。

 私には分からない。分かりたくない。



 だからどうか、私にその手を差し出さないで。優しい瞳を見せないで。

 私も手を伸ばしていいのかと、思いたくなる。私を救ってくれるのだと、勘違いしそうになる。


 その手の温かさを想像したくなる。私の血の通わない、冷たい手を握ってと、そう願いたくなる。


 そんなふうに思って、突き放されるのも、縛り付けられるのも、どちらも嫌だから。


 おねがい、どうか。


 夢を、見させないで。







 私は怖がりなのだと思う。

 オバケも怖いし、痛いから注射も怖かった。暗いところも、一人も、怖くて嫌いだった。死んでしまった今となっては、むしろ自分がオバケ側だし、痛みも感じる事はなくなった。けれど、やはり昔怖かったものは今でも怖いものなのだ。


 ああ、嫌だなあ。そう思いながら、私は一人、膝を抱えた。

 ここは深い深い森の中。誰もいない、静かな静かな森の中。

 人は元より、獣達の姿もない。私の周りにあるのは、大きく影を落とす木々達だけだった。

 時折冷たく吹く風は冷たくて、木々はそれにざわりと揺れた。私はその度に驚いて、目をぎゅっと瞑って声を殺した。

 必死に、私という存在を消そうとした。そうしたって、どうしたって、何もないのに。何もないという事が分かっていて、それに安心しているのに。同時に、それがとても怖かった。


 そのままじいっとして、ずっとずっと動かなかった。動けなかった。

 私はここにいなきゃいけない。昔の事など覚えていないけれど、その事だけは強く強く覚えていた。思っていた。

 それに、私は誰かといてはいけないのだ。人間を見ると、どうしようもなくある一つの事を強く思ってしまう。

 食べたい、と、そう思ってしまうのだ。


 人間を見て、無条件に食べたいと告げる本能。声を聞いて、満たせと訴えるお腹。匂いを嗅いで、勝手に溢れ出てくる涎。

 既に私は死んでしまった筈なのに、生を渇望するような欲望は止めどなく溢れてくる。食べなくても平気な筈なのに。空腹などというのは錯覚に過ぎない筈なのに。もう体液なんて分泌されない筈なのに。今更血など出ないのだ。汗も涙も、出ないのだ。だというのに、涎だけは溢れ出てくる。

 噎せ返りそうな感情を耐えるように、私は唇を強く噛み締めて、ぎゅっと手を握る。唇からも、手のひらからも、何も出ない。


 ああ、人間なんて食べたくない。だというのに、どうしても私のお腹の奥底が唸るのだ。食べたい、食べたいと強く訴えるのだ。

 渇望して、唸るお腹を私は必死に抑え付けた。

 やめて、やめて。

 どうか私に、人間を食べさせたいなんて思わせないで。私に人間を思わせないで。

 そこを、その一線を越えてしまったら、駄目なのだ。

 きっと、私は化け物になってしまう。私は、化け物にはなりたくないの。

 どうか、どうか人間のままではいられなくても。どうか、どうか化け物にはならせないで。

 ぎりぎりで踏み止まれているのか。それとも既に落っこちて、宙空を揺蕩っているのか。そもそも、そのどちらでもないのかもしれないのかもしれない。

 それでも、それでもと願う。


 そうする事でしか、私は私としていられないような気がするから。


 俯いて、体を縮めて、ひたすらにそう願っていた。


 本能からも、本心からも、欲からも、望みからも。全てから目を逸らして。

 どうか、このままひとりで。


 死にきれなかった私が、本当に死ねるまで。

 死神に、逢えるまで。


 そう願って、どれくらいの時が過ぎただろう。何度も何度も朝日に包まれ、夕日に焦がされた。幾度も幾度も雨に打たれ、風に乱された。それでも、私はいまだ死神に逢えなかった。ずっとずっと、同じ場所で膝を抱えて俯いていた。

 死神にすら、嫌われてしまったのだろうか。そう自嘲して、私はぎゅっと体を縮めた。

 これからも、私はずっとひとりなのだろう。それが一番いい、正解だという事も分かっている。

 でも、それでも、やっぱり。


「ひとりは、恐いよ」


 その言葉は、空気に溶けていった。そしてそのまま、誰にも届かず消えていくのだと思っていた。


「なら、一緒にいよう」


 そんな風に、優しい声が頭上から降って来るなんて、思ってもいなかった。

 私は弾かれたように顔を上げその声の主を見た。

 顔も、手足も、体もどこもかしこも真っ白い。だというのに、その端正な顔に刻まれた模様と眼孔だけが黒を湛えていた。

 ユマブランだ。私は目の前の彼から目を離せなかった。身に着けているマントに付いた大きな襟のせいで口元は隠れ、表情を読み取る事は難しい。けれど、何となく微笑んでくれているように感じる。それに、声音はどこまでも優しかった。

 私はユマブランの彼に驚くと同時に、確かな安堵も感じていた。私は人を見るとどうしようもない程の空腹感に襲われる。抗い難い飢餓感に見舞われる。食べたいと、思ってしまう。でも、ユマブランに対してそのように思った事はなかった。けれど、彼がユマブランという事に対して安堵を感じてしまう自分が、嫌だった。


 ああ、と私はどうしようもない感情を持て余して、目の前の彼に気取られぬよう息を吐いた。

 誰かが私のいるこんな場所に来るなんて。しかも優しく温かな言葉をかけてくれるなんて。

 想像なんてしていなかったのだ。妄想する事からすら逃げていた。

 だって、怖いじゃないか。甘い甘い夢に酔ってしまったら、きっとそれは永遠に私を苛む。でも、その夢が醒めた時どうすればいい。


 そんな私の逡巡を、彼がどう取ったのかは分からない。彼はしゃがみ込み、私と視線を合わせた。

「なあ。一人が嫌ならさ、俺が一緒にここにいようか。それとも、一緒に世界を見に行ってみるか?」

 彼はそう言って、私に手を差し出した。

 私は感情が溢れ出す感覚を知った。

 どうして、どうしてと頭の中で繰返す。

 どうしてそんな風に言うの。どうして笑いかけてくれるの。どうして、こんな私に手を差し出してくれるの。

 彼の顔を見ていられなくなって、私は下を向いた。

 彼はきっと、一時の感情でこう言ってくれているに過ぎないのだ。きっと、ずっと一緒にいてくれるわけではないのだ。

 一人ぼっちの私を憐れんでくれているに過ぎないのだ。一人ぼっちで膝を抱えている、ちっぽけな少女を可哀想に思っている。ただ、それだけの事に違いない。

 だから、私の本能を知ったら彼もきっと離れていく。きっと、この優しい声も、笑顔も、なくなっていく。手も払い除けられる。

 なら、最初から手を取らない方がいいじゃないか。そうすれば、傷付かない。痛くない。

 痛いのは、怖くて嫌いだから。だから、お願い。

 気紛れに私を揺らさないで。

 泡沫の夢を、望みを持たせないで。


 私はぎゅっと唇を噛んで、俯いた。いつもと同じように。

 そしてそのまま、時が過ぎ去ってしまえばいいと思った。そしてその時と一緒に、彼に去って行ってほしい。

 これ以上、私の心を搔き乱さないで。


 混濁して溢れ返りそうな感情が心に嵐を起こしている。私はその嵐の中で、吹き飛ばされないように必死に縮こまっていた。

 しかし、怯えて小さくなっている私など関係がないように目の前の彼は再び口を開いた。

「俺が、恐いのか……?」

 彼がそう言って、その声にほんの少しの寂しさを混ぜるものだから。思わず、顔を上げてしまったのだ。勢い良く上げるわけではなくて、ゆっくり、ちらりと彼を窺がい見るようなものだったけれど。

 そして私の目に飛び込んできたその顔は、先程の優しい笑顔とは打って変わっていた。眉尻を下げ、儚げに微笑む彼に、何か言葉を掛けなきゃいけないような気がしてしまって。

「あ……」

 それでも、私に気の利いた事なんて言える筈もなかった。口から零れ出た音は、声にならずに溶けていく。

 それでも、目の前の優しいであろう彼はほんの少し嬉しそうな微笑みを見せてくれた。その笑みに、もう動かなくなった心臓が大きく跳ねたような錯覚を覚えた。その錯覚に驚きながら、私は何か言おうと言葉を探した。まるで何かを誤魔化すかのように。

「あの、えっとね。えっと、わたしは、あなたが怖いわけじゃ、ないの」

 私は、上手く言えないなりに言葉を紡いだ。少しでも私のこの言葉が本心だと伝わるように、彼の目からは視線を逸らさなかった。

「あなたと一緒にいられたら、それは凄く、嬉しい事だと思うの。一緒にどこかへ行けたら、世界を見られたら、凄く凄く幸せな事だと思うの」

「じゃあ……」

 そう言って手を差し出す彼に、私はふるふると首を振った。

「でも、あなたと一緒にはいられないよ。あなたと一緒には行けないよ」

 いつの間にか、私の口からはするすると言葉が滑り出てきていた。

「私はね、人と一緒にいちゃいけないんだよ」

 そう言って、私は笑った。彼のように綺麗に笑えたかは、わからないけれど。

 それで、彼は去ってくれると思っていた。彼は優しいから。きっと、微笑みを湛えて、立ち上がってくれると思っていた。踵を返してくれると思っていた。なのに。

「それでも、俺が君と一緒にいたいんだよ」

 そう言って彼が笑うものだから。しゃがんだままで。見つめ合ったままで。手も、差し出したままで。

 もしかしたら、と思ってしまったのだ。

 彼は、本当に私と一緒にいてくれるのではないか。ずっとずっと、笑顔を見せ続けてくれるのではないか。

 この手を取っても、いいのではないか。

 そう思って、私は無意識に息を呑んだ。

 例え、これが彼の慈悲だったとしても。憐みだったとしても。

 私の心が悲鳴を上げて、限界を訴えている。それは、事実なのだ。

 もう、一人は嫌なのだ。

 彼の真意は読めない。けれど、優しい人であろう事は分かる。私は、彼を利用する事になってしまうのかもしれない。でも、それでも。

 彼の手を取っても、いいいだろうか。

「本当に、一緒にいてくれるの……?」

 その声は自分でもびっくりするくらい震えていて。先頬は普通に話せていたのに、今は声も小さくて、酷く震えていた。

 それが何故だかおかしくて、笑ってしまいそうだった。

 私が零したその笑みに気が付いたのか、彼もなお深く微笑んだのだ。そして私は、何故かその笑みを見て先ほどと同じような感覚を味わった。私の心臓は、機能を停止している筈なのに。

「勿論。俺はずっと君と一緒にいるよ」

「あ……」

 ありがとう。そう言いたかったのに、なぜかその言葉を出すのが酷く困難だった。胸の底で暴れるように唸る感情が、ありがとうよりも先に出てきてしまいそうで。それでも、何も言葉にならなかった。

 何か言いたかったのに、何も言えなくて。私はそれがどうしようもなく恥ずかしくて俯いてしまいそうになった。でも、もう俯きたくはない。彼から目を逸らしたくなかったのだ。

 でも、どうしても視線が定まらなくて私は瞳をきょろきょろと動かした。その時、差し出されたままだたった彼の右手に気付いた。

 ああ、私はまだ彼の手を取れていなかったのか。

 何だか、そこからも自分の慌てっぷりが分かるような気がした。私はもう一度意味もなく笑みを零して、彼の手を取った。ほんの少し、というかかなり震えてしまったのは、どうか見なかった振りをして欲しい。

「あ、りがとう。私はロッティ。よろしく、えっと」

 彼の手は乾いていて、硬くて、温かかった。

 ああ、それに比べて私の手はきっと酷く冷たい事だろう。震えているし、声すらも震えた。

 何だか情けないなあ。

 そんな風に思ったけど、彼はやっぱり笑ってくれた。

「俺はフィロ。よろしく、ロッティ。それと、こっちこそありがとう」

 なぜだか、彼は泣きそうに笑った。どうしてそんな顔をするのか分からなかった。けれど、私の方こそ泣きそうなのだ。嬉しくて、幸せで、泣きそうなのだ。涙腺なんてとうに枯れてしまっているから、私が涙を流せる日はもう来ないのだけれど。

 ああ。彼が泣きそうに笑うその理由が、私と同じ気持ちから来るものだったらいいのに。



 私がフィロの手を取った少し後、彼は私の目の前にしゃがみ込むのではなく、隣に座っていた。彼のいる右側が、ほんの少し熱いような気がした。

 そして、他愛もないような話をしていた。きっと、彼は私の緊張やいまだ少し残る警戒を解かそうとしてくれているのだろう。明言されたわけではなかったけれどそう感じて、なんとなくくすぐったかった。

 そんな時、彼は旗、と何かを思い出したように私へ訊ねてきた。

「なあ、ロッティ」

 彼に名前を呼ばれる事にいちいち止まった筈の心臓が跳ねてしまうのは、許してほしい。こんなに幸せな事に、私はまだ慣れていないのだ。

「ロッティは、俺とずっとここにいる方がいいか? それとも、一緒に色んなところを見て回りたいか?」

 その問いに、私は答えた。身を乗り出すようにして、彼の問いに対する答えを口にした。

「私は、フィロと一緒に行きたい! 色んな場所を、フィロと一緒に見に行きたい!」

 これは紛れもない本心だった。自分の本能は怖い。人間をいつ食べてしまうやもしれない、自分が怖い。

 でも彼と、フィロと一緒ならば大丈夫なのではないかと思ったのだ。

 それが甘い甘い、まるで砂糖菓子のような妄想だったとしても。私は、彼と一緒に世界を見たい。私は、その望みを手放す事が出来ないのだ。

 泡沫でなくても、砂の城のように脆い夢かもしれない。それでも、波が城を崩すまでの間でいい。夢を見たい。そう思った。

 そんな私に、フィロは優しく笑った。

「それなら、今からでも?」

「もちろん!」

 フィロと一緒なら。いつだって、どこだって。

 私はまだ理解しきれていない感情に翻弄されているのを感じていた。でも、それすらも心地よかった。

 フィロはそんな私の心の内なんて知らないだろう。にっと歯を見せて笑ったのだ。私が初めて見た、フィロの子供っぽい笑顔だった。

「じゃあ、行こう。ここより北には、綺麗な景色の見られる街があるらしい。西には温泉街、東には凄く発展した未来みたいな大都市があるんだって聞いた事がある。南には海が広がっている」

 フィロはそう言って立ち上がり、私を見下ろした。

「ロッティは、どこに行きたい?」

 そうして、笑いながら私に手を差し伸べた。

「フィロと一緒なら、どこでも」

 今度は、彼の手を取るのを迷わなかった。手も、声も震えなかった。



 それから私達は連れ立って、色々なところを旅した。不思議な事に、一人でいた時程の飢餓感に襲われることはなくなった。

 その中で私達は、フィロの言っていた東西南北の町へも行った。


 北の町では、綺麗な景色を眺めたり、名物だという温かな鍋を一緒につついたりした。寒い地ならではという事もあり、その鍋は体の芯から温まる、とても美味しいものだった。

 デザートには特産の牛乳がふんだんに使われたアイスクリームを食べた。冷たさに一口目はびっくりしてしまった。けれど、濃厚なそれはとても甘くて美味しかった。甘いものがあまり得意ではないらしいフィロは、自分の分のアイスクリームを半分私に分けてくれた。

 寒い場所だったけれど、私はとてもそこが暖かに感じていた。


 西の温泉街では、温泉はもちろん他の事もめいっぱい楽しんだ。火山の麓に位置する温泉街にはいつもというわけではないけれど結構な頻度で火山灰が降っていた。まるで新雪のようなそれの上を歩くのは面白かった。少し歩きにくかったけれど、そんな私を見かねてフィロが手を繋いでくれた。私はそれが凄く嬉しくて忘れられないと思った。

 温泉には山の動物達も時たま入りにやって来ていた。風呂上りの定番だという牛乳も飲んだし、入る度にコーヒー牛乳やらイチゴ牛乳やらフルーツ牛乳も飲んだ。おやつには、二人でとろとろの温泉卵にかぶりついた。

 のんびりした贅沢な時間を過ごして、心の底から温まったような気がする。


 東の大都市では、さまざまな観光名所を巡った。大都市のランドマークだという、首をどれだけ反らしてもてっぺんが見えない高いタワーに上った。そのタワーには展望台だけではなく足元にお店が沢山入っていた。色々なお店があって見て回るだけでもとても楽しかったし、服屋では一着だけワンピースを購入した。

 世界中を見て回るのにはお金がかかる。楽しむところは楽しむけれど、節約も大事だ。フィロは一着しか買ってやれない、と申し訳なさそうにしていたけれど、私はとても嬉しかった。その一着も、フィロが選んでくれたのだ。私には、その服がどんな高価な宝石よりも素敵なものに思えた。


 南の海では、二人で一緒に海へ入った。あまり沖には行けなかったけれど、とても楽しく遊んだ。砂の城を作ったり、トンネルを作ったりとまるで幼い子供のようにも遊んだ。

 そして海辺に沢山並んでいる海の家というもので焼きとうもろこしやかき氷といったものを食べた。初めて食べたもので恐る恐るといったふうに食べたけれどどちらもとても美味しかった。かき氷は、一気に食べ過ぎてしまって頭が痛くなってしまったけれど。それもまた、楽しい思い出だ。


 二人での旅は一概に楽しい事ばかりとは言えなくて、大変な事も多かった。でも、フィロと一緒ならそれすら愛おしいと感じるようになっていた。

 でも、最近思う事がある。時々、私の胸を酷く締め付けるのだ。


 いつからだろう。フィロを見ると、どうしようもなく泣きたくなってしまうのだ。

 自分の涙腺が枯れ果てている事などとうに知っている。でも、どうしようもなく泣きたくなるのだ。

 喉がぐっと詰まるような。お腹の底がぽっと暖かくなるような。そんな感覚が、私を襲う。

 しかしそれは決して心地悪いものなどではなくて。むしろ幸せな気持ちが沸き起こって来るようで。

 自分でも、その感情は理解しきれていない。だって、これだけじゃないのだ。私の心に渦巻くこの感覚は、感情はとても難しくて。私を苛む事だってあるのだ。

 最初は、ただ嬉しくて幸福なだけだったのだ。まさか、泣きたくなるなんて思いもしなかったのだ。

 彼に笑みを向けられて、どんな顔をしていいのか分からなくなる時がある。彼に話しかけられて、どんな風に答えればいいのか悩んでしまう時がある。

 彼に手を差し伸べられた時、どういう風に取るのが正解なのかと考えてしまう。

 知らない。私はこんな感情知らなかった。

 以前の飢餓感にどこか似ているようでいて、違う。

 フィロにもっと笑顔を向けてほしい。もっと色んな事を話したい。もっと手を繋ぎたい。

 もっと、一緒にいたい。

 でも、それに対して酷く恐ろしいと思ってしまうのだ。私が、私でなくなってしまうのではないか。そんな感覚が、漠然とあった。

 自分でも制御しきれない、名前も分からない感情に翻弄されている。

 やめて、やめてと心のどこかで繰り返している。

 もっと、もっとと心のどこかで強請っている。

 幸せなのは確かなのに、どうしようもなく切なくなって、泣きたくなってしまう。

 どうすればいいのか分からない。


 ああ、でも。

 この感情の名前が分かった時は。

 これすら抱え込んで彼と一緒にいられるようになったなら。


 その時は、今よりももっと幸せになれるに違いない。

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