零れる怒気すら飲み干して

 感情の入れ物があるとしたら、何だろうか。



 誰が、いつ言ったのかは知らない。でも、どこかの誰かが感情はコップに入っているようだと言っていた。


 でも、俺はそう思わない。思えない。

 確かにコップというのはしっくりくる入れ物だと思う。ゆっくり、ゆっくり溜まっていって。許容量の限界に達してしまえば、決壊して溢れて零れてしまう。


 それでも、感情の入れ物はただ単純なコップではないと思うのだ。

 感情ごとに別々の入れ物があって、その形は様々なのではないだろうか。


 俺は何となしにそう考えて、自分の記憶を辿った。


 感情の入れ物を探すために、記憶の旅路を辿るのだ。


 今までに俺が感じた喜怒哀楽。それらは今俺の心の中で、一体何に入っているのだろう。








「ねえ、ポーズ。感情は何に入っているか知っている?」


 ぼうっと歩いていると、目の前に突如ヨミが現れた。そして、俺にこう問うてきた。

 ふわふわと浮かぶヨミは、にやにやと笑ってこちらを見ている。俺の答えを待っているのだろうか。

「えっと、知らないよ。ヨミは知ってるの? というか、感情に入れ物なんてあるの?」

 その俺の答えを予想していたのか、ヨミは依然表情を変えず、ふわふわと俺の眼前に浮かんでいる。

「模範回答ありがとう。でも、私が望んでいるのは、欲しているのはその答えじゃないんだ」

 ヨミはそう言うとすうっと消えて、再び俺の眼前に現れた。今度は逆さまに。それも顔の肌同士が触れ合いそうなくらい近く。

 しかし、重力に支配されないヨミは前髪もそのままで、頭の上にいるシヨクも落ちなかった。そしてヨミは、俺の頬を包むような仕草をした。


「でも、私が欲しているその答えは君の口から得られるものじゃないと知っているんだ。そして君に問いかけたついさっきの私だって、その事は知っていた。きっと私は、君からの模範解答をも欲していたんだろうね」

 そう言ってヨミはにやにやくすくす笑うのに、その息遣いが俺の肌を擽る事は無い。頬を包んでいるようにある両の手も、温度も感触も何も感じられない。

 そりゃあそうだ。だって目の前に、肌が触れ合いそうなほど近くにいるこの存在は、生きてはいないのだから。ヨミの姿形は、ぱっと見ただけでは生きているものと遜色ない。それでも、ヨミの命は止まっている。

 地に足を着けて歩く事も、走る事も跳ねる事もない。どれだけ激しく動こうと、心の臓は脈打たないし、血も廻らない。肺が収縮して、呼吸をする事もない。


 ヨミは生きる事を辞め、そしてなお此岸に執着する幽霊だ。


「私は欲張りなのかもしれないね。自分の疑問に対する答えも欲しいし、君が口にする模範回答も欲しい」

 そう言ってヨミがいっそう笑みを深くすると同時に、ヨミの頭の上にある帽子が喋り出す。いや、この状況では頭の下というべきか。

「お前が欲張りなのはわかりきっている事だ。私も、ポーズも、そしてお前だってそれは知っている」

「アハハ! そうか、そうだ。それはそうだ。欲張りでなかったら、私はとっくに地獄へ落ちて罰を受けているだろうね!」

 シヨクの言葉に対して、ヨミはけらけら笑う。

「お前は欲張りだからここにいる。そしてその欲張りの、次の行き先は決まっている」

「地獄かい?」

「地獄以外にどこがある?」

 そう言って顔を顰めるシヨクとは対照的に、ヨミはいやに嬉しそうに笑っている。

「きっとお前も一緒に逝くんだろう?」

「冥府ですらお前と一緒なんてぞっとしないね」

「そうかい? 私はお前と一緒なら嬉しいけどね」

 地獄逝きに変わりはない。その事は二人とも同じように思っているようだ。

「地獄には私達のような罪人が数多くいるのだろう? そう考えると、地獄もとても面白いところだ。そうは思わないかい? ポーズ」

 ふいに振られた俺は驚いてしまって、焦ったように、ああ。という何ともつかない間抜けな返事をしただけだった。

「地獄で研究なんぞする暇があるか。お前は何百年、何千年、それこそ永遠とも思える時間。ずうっと刑罰を受け続けるしかないんだよ」

「そうなのか? だったら今の内に知りたい事は全て知っておくべきだし、究めたい事は究めておくべきだね」

 ヨミはくるんと回り、俺の体と同じ向きになって目線を合わせた。

「というわけで、私は今まで以上に研究に勤しまなくてはならなくなった。これでお暇するとしよう」

 そう言ったヨミはシヨクを持ち、紳士の礼をとって去って行った。演技がかっていて、どちらかというと道化師のようだったが。それに、ヨミの手の中のシヨクがうるさく騒いでいた。

 どこかちぐはぐな姿に俺は思わず、二人が去った後で吹き出してしまった。でも、これはとてもあの二人らしい。



 俺は二人が去ってから、暫くずうっと考えている。

 感情の入れ物。そうヨミが言っていたものについて。

 感情の入れ物というのは、きっと本当には存在しない。こう言ったら怒られるかもしれないが、生憎俺は非科学的な事は信じない質だった。

 だが、その非科学的な事を考えるというのは面白くて好きだ。本当には無いと分かっているからこそ、考える事が面白く感じられると思う。

 感情の入れ物。まずは、俺が感情を動かされた経験を思い出してみよう。そして、その体験に結び付けられた感情、その入れ物を探すのだ。



 初めに、喜びの感情とつながる記憶を探そうと思う。俺が喜びに思った事。嬉しかった事。

 それは思い出そうとすれば次から次へ、ぽんぽんと脳裏に蘇ってくる。

 最近、一番嬉しかった事。やはりそれは、新しい薬が完成した事だろうか。

 実験を重ね、沢山の苦節を乗り越えてようやく完成した。仲間達もみんな献身的になって協力してくれた。

 実験の途中で薬品を引っ繰り返したバルドなんて、自分から実験のためなら何でもすると申し出てくれた。そんな彼女は、被検体として素晴らしい活躍をしてくれた。彼女の尊い犠牲、いや献身がなければ、この薬の完成は為し得なかっただろう。

 その献身の元に完成した薬を皆に披露したら、皆は自分の事のように喜んでくれた。フィロ兄さんにも、頭をぐしゃぐしゃと撫でられて褒めてもらえた。

 あれはやはり、最近では一番嬉しかった出来事だ。


 でも、やっぱり。

 俺が一番嬉しくて、幸せだと、そう思えるのは、喜びを感じるのは。皆と一緒にいる時だった。それだけで、俺は何にも勝る喜びを感じる事が出来るのだ。


 朝起きて、おはようが返ってくる。誰が先に宿屋の洗面所を使うかで喧嘩する。仲間が作ってくれた朝御飯を、皆で美味しいと笑いながら食べる。毎日みんなで歩いて、お喋りして。ただ、そんな毎日を繰り返す。

 これを当たり前と感じられるようになったらいい。当たり前となって、ずっと皆といる事が、何の違和感もない事になればいい。

 好きなものが献立に出ていたり、一番にお風呂に入れたり。そういう事に喜びを感じられるようになりたい。皆と一緒にいられる事に喜びを感じる今も幸せだ。でも、それを当然と受け止められるようになりたい。

 皆といられる事、それがいつも通りの事になったらいい。そして、そのいつも通りとなった日常の中で些細な事で笑い合いたい。それがきっと、何よりもの幸せなのだと、そう思う。


 そんな喜びなら、そのままコップに入っているのだろう。生きているものの中で、一番単純なようでいてその実様々な事象が絡まり合うこの感情。それでも、一番表しやすい感情だから。きっと喜びの入れ物はコップだ。



 怒りは、何だろう。何に入っているのだろう。

 まだ、俺には分からない。だって、ううんと唸っても、怒った時の事を思い出せないのだ。

 怒った時の記憶は、あまり覚えていない。



 怒りの入れ物は、まだ俺にはわからない。なので、悲しみの入れ物について今は考えようと思う。哀しみは、何に入っているだろうか。

 哀しかった時、俺はどんなことに直面したのだっけ。


 ああ、昨日ルナがカマキリを捕まえて来た時はびっくりしたな。いや、別に捕まえてくる分には彼女の自由だ。ただ、それを俺の所へ持ってくるのだけは、遠慮してほしいのだ。

 いや、これは哀しみとは少し違う気がする。確かにびっくりしたし、嫌いな虫を見ていやな気持ちにもなったような気もする。でも、哀しかった事か、と問われれば、否定を返すしかない。

 哀しかった事、か。

 俺は、空を仰ぐ。天高く、太陽を黒い影が横切っていくのが見えた。何という鳥なのかは、わからない。そもそも、鳥なのかもわからない。俺には、わからない事が多すぎる。



 でも、今までで一番哀しかった事。きっと、それはやはり。

 家族がいなくなってしまった事、だろう。

 今まで生きてきて、あの時よりも哀しいと、そう思った事は無かった。


 いつもは必死に目を逸らしている。直視なんてしなくたって、あれはほんの少しの欠片だって、ただそこにあるだけで俺の感情を酷く搔き乱すのだ。


 あの記憶はきっと消えないし、癒える事は無いだろう。俺の心の奥底で深く深く凝って、凝り固まってしまっている。哀しみの入れ物の、その底に重たく沈んだそれは、きっと外には出てきてくれない。綺麗に、洗い流されるというような事など、これから先、あり得はしないだろう。

 そもそも、悲しみの入れ物は、口が小さいのかもしれない。こぽこぽと下の方で溜まっていって、そのままになっている。底に溜まったものが出口を目指しても、出口は出の道は狭くて、出口そのものも小さいのかもしれない。


 ああそうだ。哀しみの入れ物は、きっとフラスコだ。フラスコの中で悲しみは重く重く沈んで行って、下の方にずっと溜まっているんだ。中々溶けてくれなくて、沢山の時を経ても沢山フラスコの底に沈殿している。そしてもし溶けて溢れそうになっても、一度に沢山は出て行ってくれない。フラスコの口は小さいから、ちょっとずつ、ちょっとずつ。ゆっくり流れ出る。だから、きっと哀しみはフラスコに入っている。



 楽しみの入れ物。それは果たしてどんなものが相応しいのだろうか。

 楽しかった事か。そう思うと同時に、沢山の思い出が溢れてきた。楽しかった事なんて、喜びに思った事の何倍もあった。

 皆といるだけで、本当に毎日が面白おかしい。何も起こらない日なんて、皆と出会ってからあったためしがないくらい。毎日沢山の面白い事、楽しい事がある。

 この前、夕飯に肉じゃがが出て来た時なんて戦争だった。セインツとラトの作った料理は絶品でいつも取り合いの様になっている。しかし、鍋料理や大皿料理の時はまさしく戦争の様相を呈するのだ。

 大鍋いっぱいに作られた肉じゃが。その美味しい肉じゃがをどれだけ食べられるか。おかわりは果たして何回できるのか。

 テーブルマナーも確かに大事かもしれないけれど、そんなの美味しい料理の前には些事だ。そもそも、身内だけの場でそんなに畏まる事もないし。それよりも、テーブルマナーなんて気にしてお上品にしていたら全部バルドやヨミ、ライやサト辺りに食べられてしまう。

 そんなのは悲しすぎるだろう。俺だって沢山食べられる方じゃないけれど、お腹いっぱいにご飯を食べたい。確かに皆の分を最初に取り分けるので食べられないという事はないが、その量は公平に皆一緒だ。しかし、俺もまだまだ成長期。ご飯をいっぱい食べて背を大きくしたい。そのためには、戦うこともやむなしなのだ。

 ご飯の時は皆がそんな感じだから、本当に賑やかだ。

 俺らのご飯は、とても楽しい、けれど同時に戦争なのだ。


 他にも、以前温泉が湧いているという地方に行った時もとても楽しかった。珍しくとてもいい宿に泊まれて、数週間そこで過ごした。温泉というだけあってとても心地よかったし、ご飯もとても美味しかった。

 そこ特産の食材なんかもあって、セインツとラトもとても楽しそうだった。フェイクは出身の国に雰囲気が似ていると懐かしんでいたし、小梅もとても気に入っていた。


 それに、流石温泉地と言うべきか、大浴場が宿に備わっていた。少々騒がしかったが、温泉もとても満喫できた。毎日のようにバルドが男湯に飛んできていたのだけは、いまだに謎なのだけれど。ちゃんと、というのはおかしいかもしれないけれど。本当に文字通り飛んできていたのだ。

 毎日毎日高い壁を飛び越えて、男湯へ来ていた。そしてコールの絶叫が響くと同時に、兄さんがバルドを抱えて女湯へぶん投げていた。最初こそ兄さんにも戸惑いが滲んでいたが、段々と慣れていって最後の方には作業のようになっていた。それも、とても美しいフォームでバルドを投げ返すのだ。その姿はまるで、熟練の職人のようだった。


 ああ、次々に面白おかしくて楽しい日々の記憶が出てくる。俺は耐え切れずに、思わず吹き出してしまった。

 こんなに毎日楽しくて、それぞれの瞬間ですらとても楽しい。だというのに、その瞬間を思い出すだけでも思わず笑ってしまう。風化せず、かといって美化もされずにそのまま楽しい記憶として俺の心に残っている。


 ああ、楽しみの入れ物には水筒が相応しい。こうして、時間が経った後も思い返しては笑うことが出来る。沢山の思い出として貯められる。楽しさを、そのまま大事にとっておける。そして蓋を開けば、それは零れないでずっとそこにある。そう確認できる。思い出せる。だからきっと、楽しみは水筒に入っているのだ。いつでも蓋を開けて、中身を覗き込めるように。



 残っている感情は、怒り。俺は、その入れ物がまだ分からないのだ。


 もう一度、考える。怒りの入れ物。怒りは、一体何に入って、心の中に仕舞ってあるのだろう。


 怒り、か。殺したい、と思った事はある。強い憎しみに襲われた事もある。

 その時の感情を、何となくなら思い出せるような気もする。でも、やはり。


 その時と全く同じ感情を思い出そうとしても、決してそうはならない。

 怒りを、その時の怒りを、感情を忘れたというわけではないのだ。けっして消えない、底にこびりついたものなのだ。その記憶は。

 それでも、どうしても同じ気持ちにはならない。記憶も、確かに自分の経験したものとして持っている。だというのに、どこか俯瞰して見ている自分がいるような気がしてならないのだ。

 どうしてか、怒りというものは記憶に留めておいてはいられない。


「やあポーズ。今の君は考え事の真っ最中かい?」

 思考に捕らわれていたから気付けなかったのか。それとも今まさにここへ現れたのか。ヨミが俺の眼前でにんまりと笑顔を浮かべている。

「あ、ああ。ヨミ」

「で、ポーズは何を考えていたのかな? もしよろしければ、私がその考え事をお手伝いしてしんぜよう」

 驚いて間抜けにも、目の前の幽霊の名前を呼ぶことしかできなかった俺に、ヨミは依然として笑みを崩さずそう言った。どこか慇懃なようでいておどけているその調子に、僕の顔も自然とほころぶ。

「感情の入れ物について、考えていたんだよ。喜怒哀楽それぞれ感じた時の事を思い出しながら」

「ほうほう成程! つまり私が知りたいと思った事を、ポーズもまた知りたいと思ってくれたという事か!」

 ヨミはそう言って笑みを嬉しそうなものへと変化させ、俺の周りを二、三周くるくると回った。

「嬉しいよ、それはとても喜ばしい事だ。君も知りたいと思ってくれた。欲を顕にしてくれた。ふふふ、本当に嬉しいよ!」

 ヨミは俺の目の前に来ると、その場でくるくるとまたも回る。

「さあ、君の答えを聞かせておくれ。君の欲は、どんな答えに導かれたんだい?」

 そう言って、ヨミはその感情の読めない瞳に俺を映す。

「喜びは、コップに入っていると思うんだ。一番単純な感情だから。哀しみはフラスコ。きっと底に溜まっていて、なかなか出てきてくれないんだ。楽しみは水筒に入ってる。いつでも中身をそのままに取って置けるように」

「成程成程! それはとっても欲深くて素敵な考えだ。でも、怒りはどうなんだい? 納得できる入れ物が見つからないのかい?」

 そう訊ねるヨミに、俺は頷く。何に対してか分からないけれど申し訳ないような気持ちを抱いている俺とは対照的に、ヨミはなお嬉しそうに微笑んだ。

「素晴らしい! 君は生半可なもので満足するのではなく、真に己の欲を満たそうとしている!」

 ヨミはまるで狂酔の状態のように笑う。嬉しそうに、楽しそうに。彼は笑みを振り撒き続ける。

「ああ、なんて強欲! 貪欲! 君はとっても欲深い!」

 満面の笑みを浮かべて、ヨミはくるくると舞う。

「欲を持つのは、とてもいい事だ。だってそれが絶えなければ、君は何でも知れるんだから」

 ヨミはそう言って、俺の瞳を深く深く覗き込む。

「君の欲が満たされた時、その時はどうか私を呼んでおくれ。君の欲を満たしたその答えを、私も知りたいのさ」

 そう言ったヨミはにんまりと笑って、ゆうらりと俺の前から姿を消した。まるで砂に描いた絵が崩れてゆくように、その姿を崩して。



 ヨミが消えた後、俺はヨミに言われた事を反芻していた。

「欲深い、か」

 そう言われたのは初めてだった。今まで控えめ、とか欲がないとかはよく言われた。しかし、ヨミは俺を欲深いと言う。しかし、それに不思議と嫌な感情は沸き起こってこなかった。


 欲深な俺は考える。怒りの入れ物は何だろうか。何が相応しいのか。しかし、俺には起こった時の事が思い出しにくい。どうすれば、と思い悩んでいた時、ふとある事が頭を過った。

 そういえば、怒りはほんのちょっとの間しか続かないらしい。でも、ほんのちょっとの間だけだって、怒るのはすっごく疲れる。だから、きっとあんまり貯められない。耐えられない。すぐに零れてしまうから。怒りが入っているのは、ほんのちょびっとしか容量がない、浅い盃だろう。


 飲み込んだ方がいいと言う人もいる。確かに、零れてしまった怒りに、いい気持を抱く人はいないだろう。それでも、それを飲み干した当人はどうだろうか。盃、さかずき。それに入った怒りは、果たして何だろう。喉を下り落ちるそれは通る道を焼いて、臓腑すら焦がしてゆく。まるで、毒を飲み込んでいるように。体の内から、蝕まれていくのだ。


 怒りは、杯に入っている。

 それはまるで、毒杯のよう。



「……ヨミ」

 そう、俺は風にすら溶けてしまいそうな声で呟いた。

「呼んでくれてありがとう。ポーズ」

 きっとヨミは、俺の声を聞いたわけではないのだと思う。俺にはわからないような原理でここに留まっている幽霊は、いつもの笑みを俺に見せた。

「怒りの入れ物、わかったよ」

「そうかそうか。ならどうか私に聞かせておくれよ。君の欲を満たしたその答えを」

 そう言ったヨミに、俺は唇を開いた。

「怒りが入っているのは、浅くて、小さい杯だと思うんだ」

 毒杯、とは言わなかった。きっと杯に入っている怒りの本質を決めるのは、俺じゃないから。

「成程、確かに怒りは長くは続かないものね。だったら小さい杯というのは驚く程しっくりくる答えだね」

 そう言うポーズは、俺の胸に指を当てるような格好をする。実体のないヨミが、俺に触れる事はなかったけれど。


「君のここにある杯には、何が入っているのだい?」


 その問いに、何と答えるのが正解なのか分からない。そもそも、中身が入っているのかも分からない。

 中身があったとして、それを持つ手はどう動くだろうか。

 それを飲み込むも、吐き出すも、杯を持つその手が決める。


 俺はきっと、心にそっとそれを置いているのだ。体を内から壊してゆく激しい怒りを、一滴たりとも零さぬように。

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