リボーンノイド・マリエ ー韓国からの贈り物ー

松平 眞之

第1話 リボーンノイド・マリエ -韓国からの贈り物ー

 余りにも美しい満開の桜が、奥様に紅茶を入れて差し上げようと

している私の手を止めさせる。

 帝都と呼ばれるここに残って初めてこの季節を迎え、こうしてお

庭の桜を眼にすると、あの時の決断が正しかったことを確信する。

 窓の外では粉雪混じりの北風が吹き荒み宛ら真冬の様相を呈す。

 こう言う現象を春冷えと言うらしい。

 或いは異常気象とも言うのだそうで、この時代ならではの自然の

脅威と言うか或いは偉大さとでも言うか、そう言ったものを感じる。

 そうして自然に翻弄されながらも人が必死に生きている。

 人は有るがままに生き、人が人らしく生きる。

 それが当たり前に出来るこの時代を私は心底気に入っている。

 尤も旦那様を始め宗伯爵(そうはくしゃく)家の皆様には、こう

した春冷えの寒さは余りお好きではないようだが。

 とまれこんな春冷えなどと言う現象も、今から180年後には無

くなるのだから科学の進歩と言うものも味気ないものだ。

 それにあの時代には春冷えも異常気象も、言葉自体が死語となる。

 天候はおろか降水量や積雪量、或いは雨や雪を降らす時間や場所

迄特定可能なウェザーコントローラーの存在する2120年。

 あの時代を生きる者には自然の驚異に翻弄される者の気持ちなど

分かるまい、と、思わず漏れそうになる自嘲を噛み殺し、私は角砂

糖をふたつティーカップの匙の上に乗せた。

 刹那マリエのことを思い出す。

 私の好みを知り尽くしていた彼女も、紅茶を入れてくれる際いつ

も小さな角砂糖をふたつ入れてくれた。

 あの時代にしては古めかしい、固形の、しかも角砂糖などと言う

何とも異形の砂糖を好んだ私は或いは懐古趣味であったのかもしれ

ないが、だからと言ってそれがここへ来た理由では無い。


 ここに来た理由は唯一つ、妻を愛してしまったから、だ。


 たとえリボーンノイドであっても、確かに彼女は、マリエは、私

の最愛の女(ひと)であった。

 如何にリボーンノイド法が私からマリエを引き離そうとも、彼女

以外の女(おんな)は私に取って女(おんな)ではない。

 それは相手が人間でもリボーンノイドでも、誰であろうとだ。

 私は彼女を心から愛していたし、彼女も私を愛してくれていた。

 無論今もであるが、しかしそれは彼女の記憶が書き換えられてい

なければの話になる。


 あの時代少子高齢化により全世界の人口が30億を切った210

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0年を境に、日本を始めとした先進各国の政府は不足する労働力を

補って減少の一途を辿るGDPを増加させる目的で、それ迄禁止し

ていたリボーンノイドの生産を容認する方向へと舵を切った。

 またそれと並行するようにして日本政府は30歳迄の結婚適齢期

層の婚姻と出産を促進する為、莫大な補助金の拠出を決定した。

 婚姻を為し子供を産んだ夫婦には、住宅取得資金の半額を給付し

た上でその子供の大学卒業迄の教育費を全額支給する。

 またその期間中22年間は年に1人150日分の有給休暇を2人

分、受給者の勤務先に対し追加支給するのだ。

 何とも狂気めいた大盤振舞いである。

 しかしそれとは逆に30歳を超える未婚者の徴収税率を上げた。

 消費税に於いても未婚者は100%の高額税率となる。

 無論住宅資金の給付も追加される有給休暇もなく、消費税以外の

税に於いても総ての税率が既婚者の倍額となる。

 畢竟好むと好まざるとに拘らず、30歳を越えれば婚姻を為さな

いと生活が出来ないと言うことになる。

 30歳を越える者の婚姻率が90%超だったのも当然の帰結だ。 

 それに仮に離婚しても子を為した夫婦には出産証明書が発行され

るので、既婚者の優遇措置は子供が大学を卒業する迄継続される。

 つまり子供さえ産めば良いのだ。

 あの時代婚姻率と同様に離婚率が90%超だったのも肯ける。

 悲しいかなあの時代の日本は婚姻者に絶大な厚遇を施す一方で、

独身者には国を挙げて差別を促す或る種の統制国家であると言えた。

 それは他の先進各国に於いても同様だった。

 加えてあの時代は遺伝子治療技術とゲノム編集技術の進歩により、

総ての婚姻者が健康な子を出産出来るようになっていた。

 言ってしまえば婚姻と安産は同義なのだ。

 それが故に法律はリボーンノイドと人の婚姻を禁止していた。

 何となれば彼等リボーンノイドは遺伝子操作に依って女性のリボ

ーンノイドには卵子が、男性のリボーンノイドには精子が、各々生

成されないよう施術されていたからだ。

 つまりそれは子を為さない婚姻に当たり、一方でリボーンノイド

同士の結婚を認めていたのは人口の増減に影響を及ぼさないからだ。

 政府にしてみれば少子高齢化も困るが、それは飽く迄計画の範囲

内でと言ったところなのだろう。

 とは言え人とリボーンノイドが結婚したとしても、当事者が公に

しなければ他者には洩れないのでこれと言った罰則はない。

 しかし30歳を過ぎても婚姻を為さない者は税制上の優遇措置の

権利が失効するだけでなく、政府から身辺調査を受けることになる。

 その結果リボーンノイドと恋愛関係にあり、それが婚姻と同等の

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関係だと見做されればその当事者達は引き離される。

 具体的には当事者である人が相手のリボーンノイドと会えないよ

う、人だけが強制的に過去の時代に転送されるのだ。

 その場合転送される時代も、場所も、総ては政府によって指定さ

れた上で政府に科せられた任務を帯びることになる。

 当然その任務を果たす迄元の時代には戻れない。

 ひと昔前の表現方法に倣えば島流しとでも言ったところか。

 尤もそれには凡そ1年と期間が定められており、その間に完遂出

来る程度の任務ではあった。

 しかし恋愛関係が無かったかのように当事者のうちどちらかでも

偽装工作を施したことが発覚すれば、その際は偽証罪も加わりリボ

ーンノイドも報いを受けることになる。

 それを罰則と言えるかどうかは別にして、当事者のリボーンノイ

ドは記憶を書き換えられた上で1年前の時代に転送されるのだ。

 つまり任務を完遂し当事者が元居た時代に戻っても相手のリボー

ンノイドは存在せず、仮にその1年前に戻ったとしても既に記憶を

書き換えられた別の相手にしか会えないのだ。

 それこそが私とマリエが支払った愛の代償である。

 

 私とマリエは永遠に会うことが出来ないのだから・・・・・。


 とまれあの時代の婚姻は人と人との出産の為にこそ有った。

 但しその他はリボーンノイドも人と同等の権利を与えられていた。

 たとえばリボーンノイドが殺された場合、加害者が人であろうが

リボーンノイドであろうが殺人罪が適用される。

 またそれとは逆にリボーンノイドが罪を犯した場合も然りである。

 何故なら人と同じ肉体を持ち喜怒哀楽の感情を持ち合わせるリボ

ーンノイドには、人と同等に生きる権利が有るからだ。

 とは言え彼等は出産以外にも人との相違点がもう一点だけある。

 それは脳の代わりに脳と同等の容量の量子コンピューターが、頭

蓋骨の中に嵌め込まれていると言う点だ。

 その脳から量子コンピューターへの変更は、人の永遠のテーマで

ある不老不死を可能にする唯一無二の方途であった。

 最先端の技術が人と老いを無縁にして30年、2090年代初頭

に人の寿命は凡そ200年に延びたが、どうしてもそれ以上寿命を

延ばせなかった。

 数多の老いることを知らない200歳の老人が、20代の肉体を

持ったままバタバタと死んで逝くことは予め予想出来た話だった。

 何故なら脳の寿命が凡そ200年だからだ。

 その脳の寿命を延ばそうとすると細胞や組織を再生する必要が生

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じるので、その際どうしても脳内を空にする必要がある。

 畢竟その際に記憶や思考形態など、その人物の人格を形成する総

てのデータが消去される。

 一旦データを量子コンピューターに移植しそれを再移植する方法

も有ったが、その場合データが処々欠如したりしてどうしても完璧

な基データの脳への移植が出来なかった。

 そうなるとその人物の脳は完璧な別データに書き換える必要に迫

られ、実行以降外見は同じでも別の人格を持った別人になるのだ。

 永遠の命を得ても別人格の自分は自分とは言えまい。

 それを良しとする人が居よう筈もない。

 しかし脳の死滅寸前に失う筈だったデータを量子コンピューター

に移植し、それを脳の代替とすれば・・・・・。

 そうした発想を基に生まれたのがリボーンノイドであった。

 人格を失うくらいなら脳より量子コンピューターの方がまし、否、

或る意味脳よりも良い、と、そう思う人が続出した。

 そう言った人達に取ってリボーンノイドとは、不老不死を可能に

する新しい理想の形と言えた。

 しかしそれは同時にリボーンノイドが、人工知能搭載の『人型ロ

ボット』であることを意味した。

 ところがあろうことか差別的表現であるとして、彼等を『人型ロ

ボット』と呼ぶことを法律で禁止したのだ。

 一方でリボーンノイドを人と差別しておいて可笑しな話である。

 皆が皆自ら望んでリボーンノイドに転生したと言うのに、だ。

 稀に200年も生きたのだから、リボーンノイドに転生して迄生

きていたくはないと言って生涯を終える人も居る。

 しかし殆どの人は齢200を越えて脳が死滅する寸前に、リボー

ンノイドへの転生手術を受ける。

 何となれば2100年以降の時代ではどんなに貧困な境遇でも、

リボーンノイドへの転生手術を受けることが出来たからだ。

 先進各国の政府がリボーンノイド法制定と同時に、低額所得者の

転生手術費用を全額保証した為日本政府もそれに倣ったのだ。

 それくらい世界中で人口の減少を喰い止めたかったのだろうが、

実際はそれ以上に移民を嫌がったことが、先進各国政府のそう言っ

た制度制定の理由とされている。

 それは元自国民だったリボーンノイドの方が、生身の外国人より

も好ましいと思っていることの裏返しでもある。

 それ以外にも脳の病や事故でリボーンノイドになる人も居たが、

その人とて望んでリボーンノイドに転生するのだ。

 益してや転生手術を受けた時点で人としての死が法的に確定し戸

戸籍からも抹消されるのだから、人型ロボットと呼ぶなと言われて

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もリボーンノイドはそれ以外の何者でもない。

 そんな上辺だけの気遣いは、リボーンノイドを生産する先進各国

の本音を覆い隠す建前にしか過ぎない。

 歴史は繰り返すと言われるが、この時代に帝國政府が朝鮮人を日

本臣民と呼ばせることに似ている。

 当の朝鮮人に取ってはさぞ迷惑な話だろう。

 幾ら宗主国の命とは言え朝鮮人は朝鮮人なのだから、突然明日か

ら日本臣民に成れと言われても成れる訳がない。

 然るに言語を始め朝鮮文化の総てを否定し、日本語教育を中心と

した同化政策を推し進める帝國政府は、表向き日鮮融和を謳ってお

いてその実彼等を日本帝國に奉ろわせようとしているのだ。

 何とも浅墓な植民地政策である。

 その上抗日運動に加担した疑いの有る者は、嫌疑が懸かった段階

でろくに裁判もせずに罪に問う。

 今後太平洋戦争終結以降引き摺る慰安婦や徴用工と言った問題の

解決を見ず、挙句2088年遂に国交を断絶してしまうのも今の時

代に身を置いてみれば尤もだと肯ける。

 殊に奥様に於かれては、徳恵翁主(とくえおうしゅ)と呼ばれる

朝鮮王朝の皇女でいらしたのに、宗伯爵夫人と呼ばれることになっ

た現況についてはさぞ複雑なご心中の筈。

 尤も私が病を治して差し上げて以来、奥様は宗伯爵夫人と呼ばれ

ることに満更でもないご様子だが、それは私の思い過ごしだろうか。

 とまれ今から180年後の2120年に於いて、リボーンノイド

と言う生命体は同情と差別の入り混じった何とも特殊な存在だった。

 或る意味彼等は人の功罪を一手に引き受ける、鏡の向こう側の自

分自身とも言えた。


 だからこそ私はマリエを愛したのかも知れない。


「高野(こうの)どうかしたの? 紅茶が冷めてしまうわ」

 ふいに奥様に声を掛けられ、私は会釈を返すことも出来ずに我知

らず立ち尽くした。

 お庭の桜を眺めながらタイムトラベリング以前のことに思いを馳

せるうち、何時の間にか今在る現実を喪失していた。 

 咄嗟に嘘を吐いてこの場を繕うことも出来るが、主である宗伯爵

家の家人に嘘を吐くなど私の執事としての信条に悖る行為である。

 在りのままを、しかし奥様には私の本当の身の上を悟られぬよう

お返事をしなければならない。

 微笑みを返しながら奥様に言える範囲で正直にお答えした。

「申し訳ございません。お庭の桜が余りに美しかったもので、奥様

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にお紅茶を入れて差し上げていたことを、つい失念致しました」

 奥様もまた微笑まれ、気品のある艶やかな声でお返し下さった。

「あら、そう。それは仕方が無いわね」

 そうして穏やかな空気の中奥様に紅茶をサーブしていると、玄関

の方で私同様宗伯爵家の奥にお使えする文子さんの声がした。

「お嬢様のお戻りです」

 そう言えば一時間程前に、文子さんが正恵(まさえ)お嬢様を学

習院初等科までお迎えに上がっていた。

 やがて何時ものように、お嬢様が無事お戻りになられたことを伝

えてくれるあの愛らしい音が聞こえてきた。

 パタパタとスリッパを摺りながら歩く何時ものお嬢様の足音が。

「お母様、高野、只今戻りました」

 お嬢様はランドセルを私に差し出され、何時ものようにダイニン

グテーブルを挟んで奥様の向かい側にちょこんとお座りになった。

 次いでお嬢様が口を開くよりも早く、奥様は顎を横に振りながら

これもまた何時ものように諭す声音で仰った。

「正恵さん。何時も母は何と言っていますか?」

 奥様のこの問いに対するお嬢様の返答も、あの何時ものものかと

思うと思わず頬が緩んでしまう。

「はい。スリッパを履いて歩くとき、パタパタと音を立ててはいけ

ません、と、仰っておられます。

 でもお言葉ですがお母様、パタパタと音を立てることによって私

が健康であることを自然とお母様にお伝えしているのです。

 子供と言うものは健康であることが第一であって、お母さまの仰

るように上品に振舞うことよりその方が大事なのでは」

 お嬢様の次の言葉を遮るように奥様は嘆息を吐き出された。

「母は同じことを昨日も、一昨日も、それに一昨々日も聞きました。

 その都度言っていることですが、それは口答えです。

 今日に限って母がそれを赦すとでも思っているの」

 奥様のお言葉に神妙な面持ちで立ち上がったお嬢様は、深々と頭

を垂れられた。

「はい。お母様のお言葉はご尤もです。大変申し訳ありませんでし

た。明日から正恵は音を立てずに歩くことをお約束致します」

 ひとつ肯いた奥様が一瞬視線を逸らせた刹那、これもまた何時も

のようにお嬢様は私の方を向いてぺロリと舌をお出しになった。

 首を横に振る私を尻目に再び腰を掛けたお嬢様が、今度はとても

初等科の二年生とは思えないお話を持ち出された。

「それよりもお母様アインシュタインの相対原理は凄いです。

 相対性理論とも言うらしいですが、彼はその中で光より速い速度

で進むと時間を逆行出来ると言うことを述べています。

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 つまり過去に遡る時間旅行が可能だと言うことです」

「何時かはそんな夢のような話が実現すると良いわね。

 確かアインシュタインと言えば、ドイツ人の科学者よね」

「はい。正確にはユダヤ教信者である彼はドイツ系のユダヤ人。

 もしくはドイツ在住のユダヤ人とでも言うべきでしょうか。

 何でも彼はアシュケナージと言うディアスポラで、あぁ、ディア

スポラとはヘブライ語で離散した民族の集団を表す言葉で彼は東方

ユダヤ人に当たります。とにかく彼は天才ですよお母様!」

 眼を見開き身を乗り出すようにしてお話になるお嬢様と、愛娘の

成長を溢れんばかりの笑顔で見守る奥様に一礼をし、手に捧げ持っ

たランドセルを二階の子供部屋に届けるべく私は居間を出た。

 二階へと続く階段を昇りながら、やはり奥様用に調合した遺伝子

治療薬はお嬢様には効き過ぎてしまったようだ、と、我知らず自戒

とも自讃とも取れぬ苦笑を漏らしてしまった。

 思い返せばあのときのお嬢様は余りにも不憫でいらしたし、また

自身の病が癒えても病弱な娘を心配そうに見守る奥様を見れば、医

師として、否、人としてお嬢様を抛ってはおけなかった。

 近親者であれば知的障害などの劣性遺伝は、同じタイプの劣性遺

伝子によって引き起こされる可能性が高い。

 従って奥様用にブレンドした遺伝子治療薬はお嬢様にも効き得る。

 医師としてのそうした判断に基き、私は政府から他の者に使用す

ることを固く禁じられていた奥様用の予備の遺伝子治療薬を、一年

前お庭の桜の咲き始めたあの日お嬢様に投与した。

 ちょうどあのとき奥様の持病の先天性知的障害や精神疾患は完治

した後で、予備の遺伝子治療薬が不要になっていたこともある。

 結果は成功であったが大人用のそれは少々効きすぎたようで、お

嬢様の知能は必要以上に発達してしまった。

 とまれお嬢様に遺伝子治療薬を投与した直後、永遠に元の時代に

戻れなくなる、私への『歴史改変罪』が確定したことを知った。

 左掌皮下に埋め込んであった日本政府発行の、タイムトラベルパ

スポートチップが消滅していくのを感じだからだ。

 ならばこれからどうやってこの時代を生きて行くのだ、と、その

ときの私は酷く焦燥に駆られたものだ。

 投与後空になった針の無い圧力注射器を見詰めながら、私の開発

に依るものだとして新規に医療機器の事業でも始めてみるか、と、

一瞬邪念が脳裏を過ぎったりもしたがそれは止めた。

 何故なら宗伯爵家に好奇の目が向けられるかも知れないからだ。

 ならばいっそのこと医療から一切身を引いて宗伯爵家に仕えてみ

ようか、と、そのときの直感に従って私は今の執事の道を選んだ。

 たとえ歴史改変の罪に問われようと、たとえ元居た時代に戻れな

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くとも、あのとき私は病を治療せずにはいられなかった。

 それに仮にお嬢様の病を放置して2120年の日本に戻ったとし

ても、そこにもうマリエは居ないのだ。

 或いは闇の組織の力を借りてそこから1年前に遡ろうとも、そこ

に居るのは記憶の書き換えられたマリエそっくりの別のリボーンノ

イドに過ぎず、私の愛したマリエではない。

 そんな状況を鑑みればお嬢様の病を治療したことは至極当然だ。


 断絶した国交を正常化する為歴史を大きく改変しない程度で史実

修正が可能になる新法案が、2115年四月国連総会で可決された。

 それこそが『日韓国交正常化歴史修正法案』であり、以降212

5年迄の10年間に亘り過去に遡って史実を修正する。

 法案成立以降韓国で言う独島日本で言う竹島が2070年代に遡

って爆破され、日韓で領有権を争った島自体が消滅し問題も解消。

 ここにタイムトラベルする際聞いたのだが、2121年に慰安婦

問題を、その翌々年には徴用工問題を解消する予定らしい。

 つまり問題を解決せずにその史実自体を無くそうと言うのだ。

 或る意味的を射ているが短絡的に過ぎる考え方ではなかろうか。

 そもそも日韓国交の断絶は既存のTPPを深化させ、2085年

に創設したAEU(アジア経済連合)への両国の加盟に端を発する。

 経済的にのみ交流しその他では国交を断った方が双方に取って利

益になる、と、それは日韓両国が唯一意見の一致を見た結論だった。

 以降2115年迄27年の長きに亘り、日韓両国はAEUに加盟

しながらも国交を断絶すると言う何とも歪な関係にあった。

 貿易に伴う経済的な交流或いはスポーツの国際大会等特別な事情

が有る場合を除き、両国国民は互いの国への往来を禁じられていた。

 まるで21世紀初頭に於ける北朝鮮と日本の関係である。

 そうした施策の基盤になったのは、2010年代後半南北統一前

の韓国大統領が主張したツートラック路線と言う政策で、それは両

国の国民が互いを理解する可能性を諦めると言う考え方に依る。

 甚だ浅慮で救いようのない方途だ。

 そんな度し難い関係の両国が歩み寄るのは共産党一党支配を益々

先鋭化させる中国が、2114年9月AEUに対し追加関税を始め

とした経済制裁を発動すると一方的に通知してきたことにある。

 AEU内で覇権を争ってきた日韓はおろかAEUごと中国に呑み

込まれかねない脅威の前では、最早いがみ合っている余地などない。

 弱体化を続ける米国を頼りに出来る時代でもなく、手を携えて難

局を乗り越えなければ両国は国として存立することも出来なくなる。

 畢竟国交の正常化は両国の喫緊の課題となった。

 そんな状況の中日本政府から科された私の任務は、徳恵翁主(と

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くえおうしゅ/덕예옹주=トッケェオンジュ【朝鮮王の後宮の娘の

呼称】)の先天性知的障害と精神疾患を治療することであった。

 2120年の日本で私が医師だったからこその任命だろう。


 20世紀後半から21世紀初頭に掛けての韓国では徳恵翁主が残

忍な醜男の宗武士に虐め抜かれた末に精神を病み、その生涯を日本

に翻弄された悲劇の皇女と言うのが通説であった。

 その時代そうした反日小説や演劇或いは映画と言ったコンテンツ

が、韓国国内で一大ブームを巻き起こした。

 それに対し日本の論客も医学的な見地から徳恵翁主の病状は先天

性のもので、宗武士に虐められたせいではないと言う反論が試みら

れたがその時代の韓国に聴く耳を持つ者など存在しなかった。

 然り乍ら私の御主人様である宗武士伯爵はそれはもう美男子でい

らっしゃり、醜男でもなければ奥様やお嬢様を虐めたりもしない。

 お二人を愛していらっしゃるし、逆に甘過ぎるのではないかと思

えるくらいである。

 そのことは私が奥様やお嬢様を治療する前からのことで、この眼

で見た私が言うのだから間違いはない。

 恐らく韓国政府もそのことは理解している筈だ。

 奥様の病を先天性のものだと認めたからこそ、私をここに送った

のだろうから。

 但しお嬢様を治療すること迄は許されていなかった。

 何故なら16年後の1956年、精神衰弱に陥ったお嬢様が駒ケ

岳方面で失踪し自殺すると言うのが今後惹起する史実だからだ。

 全快したお嬢様はその日以降も健やかにお過ごしになるだろう。

 それが歴史にどんな改変を齎すのか今の私には想像もつかない。

 しかし後悔などしていないし、お嬢様を治療したことは誇りにさ

え思っている。

 それがいけないことだと言うのなら私は甘んじて罰を受けよう。

 それに今では元気なお嬢様を見守ることが私の一番の幸せなのだ。


 唯、しかしマリエのことだけは・・・・・。


 首を振ってマリエへの思いを断ち切り、ランドセルを置いて階下

に降り立った直後玄関のドア・ノッカーが叩かれた。

 コン・コンと言う可愛らしい叩きようは恐らくご婦人のものだ。

 やがて居間に居る奥様から声が掛かった。

「正恵の家庭教師をして下さる方がお見えになる予定なの。

多分その方よ、お迎えして」

「承知致しました」、と、廊下でお返事をして玄関の扉を開けた私

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は、瞠目を禁じ得ずその場に凍り付いてしまった。


 そこにマリエと思しき女が立って居たからだ。


 無言のまま二人だけで、それが一瞬とも永遠とも取れる時間を過

 ごした後、恐る恐るその女に切り出してみた。

「私が誰か分かるか?」

 眼前のこの女は果たして本当にマリエなのか、と、疑う私に間も

なく彼女は聴き知った声で返してきた。

「お紅茶に角砂糖を入れて欲しいなんて言う風変わりな賢一さんの

顔を、私が忘れるとでもお思い」

 涙混じりのその言葉が内耳の中を駆け巡っている時間を待てない

私は、直ぐさまマリエを抱きしめた。

 どの位そうしていただろう、奥様から、「早く上がって戴きなさ

い」、と、声が掛かりどちらからともなく身体を離した。

 私が奥様に、「承知いたしました」、と、お返事し終わった頃マ

リエはバッグの中から一枚の封筒を取り出してきて私に手渡した。

「韓国からの贈り物です」

 その言葉の意味が分からず首を傾げる私に、マリエは顎をしゃく

って中の書簡を読むよう促した。

 するとそこには韓国政府発行の、貼り付けると肌に浸透して行く

米粒大のタイムトラベルパスポートチップが添付されており、宗正

恵を救った功に報い、『歴史改変罪』を取り消した上で韓国大統領

令に依り私とマリエの結婚を認める旨記されてあった。

「良かった」

 そう言って再び抱きしめようとする私に、マリエが地団駄を踏ん

で声を上げたのは予想外のことだった。

「まだ分かっていないみたいね。次の二枚目を読んでみて」

 マリエの言葉に従い、見れば二枚目はお嬢様の経歴書だった。

 お嬢様は医学博士になられ九十五歳の天寿を全うされたらしい。

 晩年韓国籍を取得されたお嬢様は、何でも死後人間の身体を冷凍

しその後解凍する技術を開発されノーベル医学賞を受賞したらしい。

 韓国政府が私を解き放ってくれた意図がこれで分かった。

 お嬢様のお陰だったのである。

 と、次の記載事項を読んだ直後私はそれ等書簡を総て取り落とし、

唯々マリエの顔を見詰めながら立ち尽くすことを余儀なくされた。

 そこには遺言に依り死後冷凍保存していた身体を解凍させたお嬢

様が転生手術を受けた旨の記載が有り、転生後のリボーンノイドネ

ームを『マリエ』と称すと記されていからだ。

                          - 了 -

              - 10 -

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リボーンノイド・マリエ ー韓国からの贈り物ー 松平 眞之 @matsudaira

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