第9話 早すぎた買い物

 あれから、僕たちを取り巻く環境は360度ガラリと変わった。


 360度じゃ何も変わってねーじゃん。

 そう思うかもしれないけど、確かにその通りで、教室内の空気はほとんど変わらなかった。


 けど、得られたものはゼロではなかった。


 360度、一周したことで新たに見えてくるものがあった、とでも言うべきだろうか。


 教室内であんな恥ずかしい内容を大声で叫んだのだから、或いは叫ばれたのだから、根も葉もない噂話なんて僕も早紀も、全然気にしなくなってしまった。

 周りを気にせず、僕たちらしく振る舞う。そんな当たり前のことを僕たちは今まで気付けなかったのだ。


「紡くん、放課後に子供用の服を見に行きましょう!」


 藪からスティックな早紀の言動に一瞬だけ面食らったものの、休み時間に堂々とそんな話を出来るくらいには周囲のことなんかどうでも良くなっていた。みんなからの視線? 見せつけてやろうぜ、ベイベー! ってな感じに。


「いや、さすがに気が早すぎやしないか?」

「いつ何があるか分からないんだし、行けるときに行っておいた方が良いと思うの」

「そんなものなのか?」

「そんなものです」


 早紀はすっかりご機嫌な様子で答える。

 それだけご機嫌になってくれれば、朝に叫んだ甲斐があるというものですよ。


 ……あ、でもやっぱ今から子供用品を見に行くのは流石に早すぎませんかね。ってそう言おうとしたのだけど、


「ではまた放課後に!」

「あ、うん」


 勝手に話が進められ、反射的に「うん」と答えてしまった。流されやすいところが僕の欠点である。

 まともな私服を持っていない僕が、まだ生まれてもいない子供の服を見に行くことになるとは……僕は複雑な気持ちだよ。



 そして、放課後。

 僕と早紀は約束通り、学校の近くにある子供服を取り扱っている店舗に訪れていた。

 看板にウサギのマークが描かれてある、言わずと知れたあの店である。

 家に帰ってからまたここに来るのでは遠いので、学校から帰るついでに寄ることにしたのだけど、これが大きな失敗だった。


 学校帰りだから当然僕たちは学校の制服を着ているわけで、そのまま子供用品を取り扱っている店に入るのは場違いも甚だしかった。


 店内は、幸せそうな子連れの夫婦に、孫のものを買いに来たと思われる老夫婦。

 なんとも言えない優しさに包まれているこの空間に突如現れた僕たち高校生――うん、どう見てもワケありである。


 周囲のことなんかどうでも良い、とは言ったものの、これはこれで別の恥ずかしさがあるというかなんというか。ハッキリ言って、今すぐ帰りたかった。


 早紀の方を見ると、とても楽しそうな顔をしているので余計に声をかけづらい。

 これは僕が自意識過剰なだけなのだろうか。店員さんが冷やかしを見るような目で見てくるのも気のせいなのだろうか。ワゴンから覗いている猿の人形もどこか僕を嘲笑っているような気がする。


「紡くん、見て! これなんかどうかな? 可愛いよね? 買っちゃおうかなー!」


 早紀はどこから持ってきたのか、異国のプリンセスが着るような豪華なデザインの服を自分の体に重ねて見せてくる。サイズが小さすぎて体に重ねてもほとんど参考にはならないのだけど、まあ、可愛いっちゃ可愛い。


「たしかに可愛いけど……もしお腹の子が男の子だったらどうするんだ?」

「これは自分用ですよ」


 さも当たり前のように、真顔で答える早紀。

 まさか自分で着るとは……予想の斜め上を行っていたので、正直困惑を隠せない。

 内心ドン引きだが表には出さず、僕は冷静にツッコミを入れる。


「いや、滅茶苦茶サイズオーバーしているんだけど」

「ですよね……もっと大きいサイズがあればいいのにな」


 いや、そういう問題なのか?

 デザイン的にも高校生が着るようなものではないし、それにここ、子供用の店だからね。早紀は天然なのかな。


「では、これはどうでしょうか?」


 そう言って早紀が持ってきたのは、ライオンのような、馬のような、よく分からない動物の上下一体になったフード付きの服。何故か頭の上に具志堅のようなチリチリの毛が付いている。


「……確認だけど、これを早紀が着るわけじゃないよな?」

「当たり前です。私がこんなの着るわけないじゃないですか。ちゃんと子供用のですよ」


 少し怒り気味に言ってるけど、さっきのだって早紀が着るようなものじゃないよね。

 自分用と子供用の判断基準はどこなのだろう……小一時間かけて早紀に問い詰めたい気分だったけど早く帰りたいから止しておく。


「まあ、子供が着たら可愛いと思うよ」

「本当ですか? ではこれを買うことにしますね」


 僕の感想を聞くなり、早紀は嬉しそうに買い物カゴの中へ放り込む。

 やっぱり気になるのが買い物カゴからはみ出ているこのチリチリの毛。たてがみというには少なすぎるし……うーん、どうも僕には具志堅の頭に見えて仕方がないのである。質感も妙にリアルだ。

 もっと可愛い服もありそうなものだが、これを選んだその理由はなんなのだろう。……早紀のセンスは謎である。


「次はこれです! どっちがいいでしょうか?」


 そう言って見せてきたのは、なんと搾乳機。

 イメージを持たせるためか、商品を自分の胸に当てている。

あまり大きいとは言えない早紀の胸だが、その仕草は思春期の男にどこかぐっとくるものがある。どこかと言えば特に下半身に、だが。


「……紡くん、聞いていますか?」

「あ、ごめん。搾乳機の気持ちになって考えてた」

「なにか分かりましたか?」

「搾乳器が羨ましいなあって」

「もう、何を言っているの」


 いや、そもそも、搾乳機のことを男子に聞くこと自体間違っていると思うんだよ。僕が持っているのは雄っぱいであり、おっぱいではないのだ。


「搾乳機のことを聞かれても男の僕には分からないよ」

「じゃあ見て! 色々と種類があるんだよ。手動とか、電動とか」


 棚を見てみると、早紀の言う通り色んな種類があった。値段も意外と高い。

 こんな機械にやらせるよりも、僕が直接……なんて言えば、「エッチ」とか言われそうなので黙ります。


「ごめん、やっぱり僕が見ても分からんよ。使うのは早紀なんだから自分に合うと思ったものを選ぶのが一番いいんじゃないか?」

「うーん、そうですか? 紡くんの選んでくれたものを使うってことに意味があると思うんだけどな」


 結局、搾乳機については早紀が選んだものを買うことになった。

 今買う必要なんて無いように思えるのだけど、早紀は「どうせ使うことになるのだから」と言って、そのまま買い物カゴに入れてしまった。彼女はどれだけ未来に生きているのだろう。


 それからも、「これ、どうですか?」「うーん微妙」「じゃあこれは?」「あ、いいね」みたいなやり取りを繰り返しながら店を回っていく。布おむつ、よだれかけ、おしゃぶり、子供用玩具……エトセトラエトセトラ。


 そんなこんなで気が付けば、買い物カゴはもう積めないってくらい商品が山積みになっていた。


 ……なんかもう、今日だけで一通り揃えてしまった感がある。

 お金は早紀が出してくれるっていうけど、それでは男としてなんだか負けた気がするので、僕が全額支払うことにした。持ってて良かったデビットカード。今月の生活費が少しヤバイかもしれないけど、男のプライドを守れたのでまあ良しする。


「買ったものは僕の家に置いておくよ」

「いいの?」

「うん。一人暮らしであの部屋だから置き場所は沢山あるしね」


 と言ったのも、こんな子供用品を買ったのが早紀の両親にでもバレてしまったら変な誤解を招きかねないからである。いや、誤解も何も事実なんだけど。


 いずれは彼女の家に行って全てを話さなければいけないことは分かっている。

 なるべく早い方がいいよな……明日、病院の帰りにでも寄るか? あー、でも、早紀の父親って厳しい人なんだよな。防弾チョッキを用意して、今のうちに土下座の練習でもしておいた方がいいのかしらん。


 そんなことを考えながら歩いていると、僕が手に持っていた荷物の重みが消え、いつの間にか早紀の手に移っていた。


「じゃあ、荷物は私が持つね」

「僕が持つからいいよ。重いし、妊婦は安静にしていないとダメなんだぞ」

「これくらいヘーキ。何から何まで紡くんに甘えるわけにはいかないんだから」


 僕が持とうとしたのだけど、早紀は自分が持つと言って聞かない。

 最終的に僕の方が折れて、途中まで早紀が持つことになった。


 そして彼女の家の前、


「明日、何があるか忘れていないよな?」

「忘れてないよ。明日、病院に行くんでしょう?」

「正解。明日の朝9時に駅で待ち合わせだからな」

「うん。今日はありがとう、楽しかったです」

「僕も楽しかったよ。また明日な」


 そんな会話をして別れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る