第8話 想い、ばくはつ
朝、目を覚ますと、ベッドから見える部屋の風景が微かに違っているような、そんな違和感を覚えた。
それは、テレビのリモコンの置き場所だとか、パソコンの前にあるマウスの向きだとか、本当に小さなことなのだけれども、一度気になってしまうと、本当に違うんじゃないかって気になってしまう。
まさか泥棒が入ったんじゃないよなと不安になり、玄関の鍵や窓の鍵が閉まっているか確認しに行ったのだけど、ちゃんと閉まっている。
「やっぱり気のせいか」
そう思いながら部屋に戻ると、昨日壁に貼っておいたノートの切れ端にも何やら違和感が。微妙に傾いている気がしなくもなくもない。つまり、そんな気がするんだけど自信はない。
〝お前は誰だ?〟
うん、これは僕が昨日書いたもので間違いない。
気になったのはその下――赤ペンで小さく何かが書いてある。
目を凝らして見てみると……、
〝僕だ〟
とだけ書かれてあった。
筆跡がどことなく僕に似ているような気がするけど、もちろん僕が書いた記憶はない。元から書かれてあった、ということもない。
戸締りはしっかりしていたし、誰かが忍び込んで書き込んだとも考え難い。やはり寝ている間に別の人格と入れ替わり、その人格がこの紙に答えを書いてくれたのだろうか。
「まさか1日で返事を頂けるとは思わなかったな……」
しかし〝僕だ〟とだけ書かれても誰なのか分かんねーよ。もうちょっと気の利いた答えは書けなかったのだろうか。まあ、僕の聞き方が悪かったのかもしれないけどさ。
ノートの切れ端を手に取って見てみると、裏側にも何か書かれてあることに気が付いた。
〝早紀を守ってやれ〟
◆
昨日の怪我で身体中が痛む。それもあってか、いつもより学校に行くのは憂鬱だ。
そして登校中、いつもの交差点でいつものように信号に引っかかる。予定調和の毎日。
ここまで運が悪いと、何かの陰謀なんじゃないかと疑ってしまうね。僕を信号に引っかからせる程度の陰謀に何の意味があるのかは知らんけど。
青に変わるのを待っている間、僕はさっきのノートの切れ端に書かれてあったことについて考えていた。
表側に書かれてあったことはともかく、裏側に書かれた〝早紀を守ってやれ〟という短い言葉。これには一体どういう意味が込められているのだろう。
もし僕に対して本気で何かを伝える気があるなら、あんな抽象的な文は残さず、もっと具体的な文を残すはずだ。
お腹の子は間違いなく僕の子だから守ってやれ、というもう一人の僕からの軽いエールのつもりなんだろうか。それとも――。
「よお」
そんなことを考えていると、後ろから五樹が声を掛けてくる。これもまたいつものことだ。
「うわ、どうしたんだよ。その傷」
「傷じゃない。男の勲章だ」
「似合わないこと言いやがって」
そう言って五樹は笑いながら僕の背中をぴしゃりと叩いた。男の勲章を触るのは痛いからやめて欲しい。
「それにしても俺たち、毎回この交差点で会わないか?」
「それは僕も思っていた」
「もしかして運命? ここから俺と紡が恋に発展しちゃったり?」
「ねーよ」
「ハハハ! 冗談冗談! お前には早紀って子がいるもんなあ」
「知っていたのか」
バシバシと僕の肩を叩きながら笑う五樹。やがて信号が青になる。
ピッポ、パッポ、という間抜けなメロディが辺りに鳴り響き、同じように信号待ちをしていた生徒が歩き出す。
「まあ、あれだけ話題になればな。……で、本当なのか? 妊娠させたのって」
横を歩く五樹がいつになく真剣な表情で訊ねてくる。
「記憶にないけど、どうやら本当らしい」
「例の記憶が飛ぶ体質ってやつか?」
「ああ、察しが良くて助かるよ」
「ひょっとして、その傷もそのせいか?」
「そう」
中学の頃にも記憶が飛んだことがあった。だから五樹は僕の変な体質を知っていた。
それどころか、記憶の飛んでいる間の僕と会話をしたことがあるというのだ。
その間の僕がどんな雰囲気だったのかを聞くと、記憶の飛んでいる間も普段とあまり変わりなかったという。
最近の別人格の僕は、タイラー・ダーテンみたいに僕らしくない行動を取っていることが多いので、イマイチ納得できなかったが、五樹がいうならそうなのだろう。
「……それで、紡はどうするつもりなんだ?」
「どうするもなにも僕がやったことなんだから責任は取るし、彼女は産むって言っているから僕も彼女の意見に賛同するつもりだ」
「そりゃ男らしい決断だけど、高校はどうするんだよ?」
「多分やめることになるんじゃないかな。明日病院に行く予定だから、詳しくはその後にでも考えるつもり」
「ってことは、昨日の父親になる云々のやり取りは冗談じゃなかったのか」
「そういうことだ、総理大臣」
僕はそう言って五樹の肩に手を乗せる。向こうから見れば、僕は意地の悪い笑顔をしていたと思う。
「……へへ、全裸の宇宙旅行には行かねえぞ?」
僕の笑顔の意味を悟ったのか五樹は顔を引きつらせた。
五樹と他愛もない会話をしながら歩いていると、校舎の四角い頭が見えてきた。校舎に近ければ近いほど同じように通学する学生も増えてくるわけで、嫌でも彼らの話している言葉が耳に入ってくる。他の学年でも僕たちのことは噂になっているようだ。
「しかし、あれだけ広まれば、紡も早紀も学校では過ごしづらいだろう? 変な噂まで飛び交っているし」
「過ごしづらいと思っていたのは前からだ。……でも、早紀も同じように思っているなら何かしないといけないな」
「何とかするってどうするんだ?」
「さて、どうするかね」
妙案の浮かばぬまま学校に着いてしまう。
昨日と同じように、教室に入ると僕の方に一斉に視線が向けられ、ヒソヒソ話が始まる。
僕はいい加減そのクラスメイトの態度にもうんざりとしていた。
耳を傾けると、五樹の言っていたように「紡はああ見えて肉食系」「早紀はヤリマン中古」「清楚系クソビッチ早紀」など、根も葉もない噂が飛び交っている。
「内容も昨日より過激になっているな。他人事だからって好き放題言いやがって……」
僕よりも先に来ていた早紀は周囲の視線に耐えるようにその場でじっと俯いている。
僕が来たことに気が付いたのか笑顔を向けてくれるけど、その笑顔もどこか弱々しい。
僕だけならまだいい。変な噂が早紀にまで及んでいることが腹立たしかった。許せなかった。
〝早紀を守ってやれ〟
ノートの切れ端に書かれていた言葉を思い出す。
ほとぼりが冷めるまで、昨日のようにコソコソと行動する――そんなんじゃダメだ。
僕も、逃げるようにするのはもう終わりにしなければいけない。
いっそ吹っ切れて、堂々と教室で宣言してやる。早紀が教室で妊娠を告白したように――。
教壇に両手を叩きつけ、バン、と大きな音を鳴らす。
教室中の話し声はピタリと止まり、僕の方に視線が釘付けになる。出来るだけ視線を引き付けて、クラスメイトの興味が失わないうちに僕は話し出す。
「みんな、聞いてくれ! 一昨日、教室で早紀が言ったように、早紀のお腹の中には子供がいる、僕の子だ! たしかに高校生で子供が出来るなんて、珍しいことかもしれない。不真面目だって思う人もいるかもしれない。だけど、僕はもう、そのことを隠すようなことはしないし、恥ずかしがったりもしない! だって、めでたいことじゃないか。新しい命が彼女に宿っているんだぜ? 父親として僕は誇らしいよ。誇らしくて仕方がない!」
彼女を守らなければいけないという使命感――それは羞恥心や恐怖心をも凌駕し、今の僕の原動力になっていた。もう何も怖くない。ここまで来たら突き抜けるまでだ。
「……もしそのことで文句があるなら、ヒソヒソと言ってないで直接僕に言ってこいよ! 僕が憎ければ、気が済むまで殴ればいい! いくらでも僕の返り血まみれにしてやる! 貧血でぶっ倒れるくらい返り血まみれにしてやる!! ……だから、Gの付く虫みたいにコソコソしてんじゃねえぞ、お前らぁぁぁ!!」
――言い切った。
声が枯れるくらい叫んだから喉が痛い。こんな大声を出したのは生まれて初めてかもしれない。
「紡くん……」
早紀が目の前までやってきて、僕の手を取る。
その瞳には涙が浮かんでいた……けど、すぐに満面の笑みを見せてくれる。
「返り血まみれだと、紡くん、やられちゃっているよ」
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