最後かもしれないから
武蔵小杉は幸子の最寄り駅
僕の仕事の合間にランチする時は、よく利用するようになっていた
特段キャンセルになった僕の自由演技の日の事については、敢えてお互いに触れずに過ごしていた
これまた定番コースになっていたスタバでお茶をしていると
幸 この前はごめんなさいね
僕 いいよ、いろいろあるだろうし
幸 今週末の土曜日は空いてるかな?
僕 空けるよ、何があっても空ける
幸 ありがとう
僕 何処か行きたい所ある?
幸 那須塩原とかどうかな?
僕 日帰り?
幸 もちろん
自由演技の件は持ち出さないと決めていた
僕 だったら厳しいかな、一日中運転みたいになるよ
幸 じゃあ、甲府とかは?
僕 那須と大差ないかな
幸 義明の行きたい所は?
僕 日帰りなら浅草とか、車なら相模湖とかかな
幸 どうしようか?
僕 まだ時間あるから、ゆっくり考えよう
僕 幸子となら、何処でも楽しいから
幸 そうね、夜ラインするよ
僕は一旦社に戻った
一応仕事中なので
その夜、幸子からのライン
幸:土曜日だけど、シーパラダイスにするわ
僕:OK、待ち合わせ場所は横浜駅にしよう
昼に僕が出した候補地の一つを幸子は選択したようだ
僕は残された時間が少ない事に耐え切れなくなって“泊まらない泊まり”について、格好悪くても構わないから確認しようと文面を考えていると
幸:やっぱり熱海に行きたい
幸:二人で出かけるのは最後かもしれないから
僕:わかった予約するよ
幸:お願いします
僕は放心状態だったが、淡々と検索し宿を予約した
4日後の宿泊なので、目ぼしい宿は満室だったが、それでもどうにか確保
また幸子の良心が勝り、この予約は流れるかもしれない
それでも良い
今、幸子が僕と泊まる事を望むなら応えるだけ
僕:急だったから選べなかったけど、宿の確保したよ
幸:ありがとう
幸:でも義明は大丈夫なの?
僕:心配しないで
幸:ありがとう、凄く嬉しい
僕:楽しみだねw
幸:凄く楽しみで幸せwww
これまで何度も時には幸子が、時には僕が躊躇してきたが、もう大丈夫な気がした
根拠はないが、確信めいたものがあった
嵐の様な時が過ぎ、ふと気が付くと時計の針は大きく天辺を超え、既に二時を過ぎていた
明日も仕事だ、そろそろ寝よう
僕は灯りを消して布団に入った
・・・
・・・
・・・
全然眠れない
幸子と付き合うようになって、眠れぬ夜は何度もあった
いつも楽しみが勝り、遠足前の子供のように興奮していたのだ
でも今夜は違う
楽しみである事に違いはないが、それよりも大きな山を越えたような感覚とでも言おうか、やっと幸子の気持ちが完全に僕に向いたような気がした
気持ちが全く収まらない
心臓の鼓動を感じながら目が冴える
もう抗っても仕方ないと、僕は覚悟を決めて眠る事を諦めた
ただ目を閉じ、幸子を思い浮かべていた
具体的な思い出に浸っていたわけではない
幸子の様々な表情を思い出していたが、どの幸子も笑っていて不機嫌な幸子は一人もいなかった
そうか・・・
僕は幸子と喧嘩どころか、些細な言い争いさえした事がなかった
悲しい顔も、つまらなそうな顔も見た事がない
これが妻ではなく、恋人
それも一番良い時の恋人なのだろうか
いつの間にか眠れていたようだが、最後に時計を確認したのは五時
多く見積もっても二時間弱しか眠っていなかったが、いつもの時間に起き、いつもの様に会社へ行った
その日は寝不足だったが、何故か気分が高揚していたので思いのほか仕事も捗り、いつもより早く帰宅できた
熱海への旅行は三日後だが、僕にはクリアしておかなければならない事がある
そう、妻へ何と言って一泊旅行に出かけるかだ
つまり、どんな嘘を付くかを考えていた
①急な出張
まず職種的にこれまでなかった事
出張であればスーツで出かけるのが普通だろう
スーツで熱海に行くのは、絵に書いたような不倫だろう
できればこの嘘は避けたい
②飲みに行って潰れて帰れなくなる
これも前科がないので不自然ではある
しかも泊りの用意をして飲みに行くわけにもいかない
タクシーでの帰還を促されたらどうするのか
酔い潰れたので、連絡無視もやむなしか
③急な同窓会
何年か前にSNSで急に連絡の取れた旧友の誘いで行った事がある
以前は2週間程度は猶予があったと思うが・・・
場所は盛岡なので、翌日の帰宅時間も問題ないだろう
お土産は今どき何処でも買えるだろう
どれも苦しい嘘に違いはないが、一番マシなのは③番だと思った
その夜、僕は妻に作り話をし、怪訝な反応をされながらも一応の了承を得た
流石に崩れた顔は見せられないので、理由をつけて僕は部屋へ籠るようにしていた
旅行前日、温泉宿に泊まる最低限のエチケットを僕は薬局で購入した
そんな事は決してないのだろうが、店員さんが僕を興味津々に見ている気がした
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