第7問 論理的決意
第33話
梅雨の初め。空気がどこもかしこも湿気っていく季節。
「来たよ」
「! いらっしゃい」
バイト先である居酒屋に、傘を差す和井田がやってきた。
悠真は検算していたレジを閉めて出迎える。
「傘はどうしたらいい?」
「ビニールカバーを使ってください。席に取っ手をかけるところもありますので、店内に持ち込んでくださって問題ありません」
「ありがとう」
傘にカバーをかけつつ、和井田が問う。
「気になっていたんだが、どういうシフトで釣具屋と居酒屋に切り替わっているのかね?」
「忙しい方に行く感じでしょうか……今日は居酒屋が繁盛してるのでヘルプです」
「で、担当はレジか。岸里くんの使いどころを理解したいい雇い主だ」
「はい!」
「いつも思うんだが、貴君ってば皮肉を理解しないよね……」
少し悲しそうな彼女の後ろから、パンダパーカーを着た羽菜がひょこりと顔を出す。
「よう、後輩!」
「羽菜先輩もいらっしゃい」
「スナジマンもいるって言うから、様子見に来ちゃったぜ」
タイミングよく、空いた酒瓶を運ぶ砂島がレジ前までやってくる。
「和井田先生、羽菜ちゃん先輩、こんちわっす」
「こんにちは」
「こんち。……ついにバイト先が見つかったんだね。おめっとさん」
「うす。あざす」
「ってか、雇ってもらえてよかったね」
「本当によくぞまあ」
「中倉さんには感謝してもしきれないです」
悠真はこの会話に不穏さを感じていた。
旅館で聞いた「5連続クビ」の原因がまさかのまさかというか……
「バイト中の紀衣香くんは、どうしてるのかね……?」
恐る恐る問いかける和井田に、幹也は酒瓶をコンテナに入れながら嘆く。
「……今日の紀衣香は、自分でバスに乗って街に行ってるんです……」
「⁉」
羽菜がホラーと直面したときと同じ顔をして和井田の背に抱き着く。
和井田は真っ青な顔で砂島の肩を掴む。
「め、珍しいという表現でさえ表しきれない事態だが……喧嘩でも、あ、喧嘩しても貴君ら一緒に寝るんだっけ何も問題は無……いや、問題しかねーよ」
珍しいことに、あの和井田が錯乱している。
悠真もあまりの恐ろしさにいよいよ鳥肌を立てていた。
「何かあったのか? 言ってみたまえ。力になれることなら相談に乗るから!」
「…………。聞いてくれますか……」
砂島は沈痛な面持ちで悩みを切り出した。
「なんか最近、『しばらく来ないで』って避けられてるんです……」
「……は?」
和井田は、まるで「宇宙人が地球に攻めてきました」と聞かされたかのような顔をした。
珍妙な事実を投げ込まれて戸惑う彼女に、砂島は手を震わせながら言う。
「手は繋いでくれるのに、『一人で寝る』とか言い出すし!」
「……」
「結局は泣いて寝られなくなるから一緒に寝るんですけど……抱き着いてくる頻度が減って寂しいんですよ……!」
「…………へえそうふーん」
「いつもならそばにいてくれるのに、『あとちょっとで行くね』ってメールだけで写真も送ってくれない……紀衣香……紀衣香がいない……」
和井田は、宇宙の真理を垣間見た猫の顔をする。
「貴君の理論を聞いてると頭が痛くなるよね」
「み、幹也先輩。僕がホール入りますから、休憩して来て下さい!」
「……でも岸里は空気読めないし接客下手だし……」
「切りつけられると傷つきます。……今日は先生と先輩のお相手のつもりでいますから、とにかく休憩。気分転換は大事です!」
悠真は燃え尽きた灰のような砂島を店外に押し出した。
羽菜と和井田が頭を下げて来て恐縮する。
「助かりました」
「……しばらく経てば紀衣香くんが来ていつも通りに戻るだろう。ありがとう」
「あ、いえその……では。ご案内させていただきますね」
「よろしく」
二人から傘を受け取り、慣れた店内を進んでいく。
居酒屋のイメージを象徴する厨房とその前に並ぶカウンター席。そこでは乙女がカツオをさばいて客から歓声を浴びていた。
切り身を手早く盛りつけると、注文したと思しき常連に声をかけてからやってくる。
エプロンがパタパタと音を立てるのが可愛くて、悠真は胸をおさえていた。
「いらっしゃい、和井田、羽菜」
「うん。乙女くん、看板娘が板についてるじゃないか」
「当然だ」
美人で客あしらいが上手く、調理までできる乙女はアイドルと化している。
乙女目当てで足を運ぶ男性客までおり、悠真は気が気でないのだが、女将や中倉いわく「下手な手出しは常連が黙っていない」とのことで渋々納得していた。
「ライバルのお前が相手であろうと、仕事はきっちりとさせてもらおう」
「ふっふふ。OK、我々はライバルだ」
悠真はハラハラしたが、羽菜は火花散らすようでいてその実、親愛が満ちていることを見抜いてスルーを決め込む。
女将に呼ばれた乙女は会釈して戻って行く。
「乙女ちゃんのお料理美味しいんですよ」
「赤嶺くんは食べさせてもらっているんだったか。楽しみだ」
海の見える二人席に案内する。
「ご注文は?」
「ネギトロと梅サワー。ゲソ揚げ」
「オレンジジュースとポテト!」
「どうしてこう、赤嶺くんは子どもっぽいんだろう」
「美味しいからいいんですっ」
「では、厨房に――」
通りかかった中倉が、挨拶ついでに悠真から注文メモをもぎ取っていく。
「……ぼ、僕の初仕事が」
「悠真くんを気遣ってくれたんでしょ」
「2か月近く働いて『初仕事』なのが色んなことを物語ってるね」
言葉が刺さって泣きそうになっていると、羽菜がフォローを入れる。
「スナジマンよりマシだにゃん」
「何の慰めにもならない気がするんです……」
「砂島くんがクビになるのは紀衣香くんがべったり張り付いてくるからだよ。乙女くんを張り付かせながら仕事していないだけ、貴君はマシと言えるだろう」
「……」
嫌な予想が当たってしまった。
「ああ、もしや知ってたのかね?」
「いえ……ですが、砂島先輩が『片時も離れたことがない』みたいなことをおっしゃられていたので薄々と……」
「はは、そこらの怪談より怖いだろう」
「ですね……」
「はたから見れば美男美女がいちゃつきながらバイトしているんだ。問題しかないね」
それはクレームが入っても仕方がない。
「粘着力の強いゴーイングマイウェイお姫様にまとわりつかれるなんて、疲れ果てて病んでもおかしくないのに、砂島くんは平然としている。知りたくないのに研究してみたいこのジレンマ……」
どう考えても泥沼の未来しか見えないジレンマだ。
和井田は和井田で変わり者だと悠真は思う。
「……乙女くんが岸里くんと仲を深めているのを見て、関係に変化が出てきたのかな。喜ばしい変化だと私も安心するんだが……」
「きっと大丈夫ですよ」
「だといいな……二人共からそれぞれに愚痴という名ののろけを聞かされるのはもう嫌だ」
「そ、そんな事件があったんですか?」
「定期的に発生しているから、岸里くんも味わう羽目になるんじゃないか」
「…………」
「くっく。あー、面白い」
「先生、からかわないであげてください」
「わかっているとも」
彼女は指先をくるくるしている。
「……無理矢理引き込んでしまったが……岸里くんは、研究を楽しめているかな?」
「も、もちろんです。僕のライフワークになっていますので」
「それは素晴らしい」
「応援してるぜ」
敬愛する准教授とその一番弟子に頭を下げると、彼女らはよく似た笑みを見せた。
和井田は悠真の肩をぽんと叩く。
「また日記を読ませておくれ。楽しみだ」
「……はい」
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