第22話
ゼミが終わってからもゲームが盛り上がり、帰り道に中倉夫妻の居酒屋で外食をした。自宅に帰ったのは夜の9時前だ。
乙女は風呂場へ海水を浴びに向かう。
彼女を見送って、悠真は明日の朝食のために野菜の皮むきをして待つ。
「……夫婦……」
ゼミでの会話中、彼女との関係を意識せざるを得ないようなタイミングはいくつもあった。
自分にとっては思いがけず婚約を申し込んだ状況だが、むしろ僥倖ともいえた。どれほど考えても、彼女以外の女性は考えられないのだから。
乙女のことをもっと知りたい。彼女が磯女だからではなく、磯女であることをひっくるめて彼女のことを深く知っていきたいと思うのだ。
彼女と出会ってから、初めての心の動きがいくつも起こって忙しい。
「でも、まずは就職しなくちゃなー……」
卒業後に大学院へ進むか就職するかは迷いどころだが、奨学金との折り合いを考えていかなくてはならない。両親からも、院に進むのならば仕送りは期待するなと言われている。
「……そうだ。乙女ちゃん紹介しなくちゃ」
連絡不精な悠真は、入学以来ほとんどメールも電話もしていない。
幸せな気分であれこれ悩んでいると、ふわりと甘いシャンプーの匂いがした。
「悠真、上がったぞ。シャワーまで入ってしまった」
「お疲れ」
界面活性剤で肌が荒れてしまう乙女には、いつもこの言葉をかけている。
「紀衣香が教えてくれた、ぼでいみるく。これはとても良いものだな」
「ほんとだ」
触れる指先は滑らかだ。
乙女は、紀衣香に温泉旅館で敏感肌向けのケア用品を教わったらしく、悠真にリクエストを出していた。
「また何か教えてもらったり、試したいものがあったら言ってね」
「バイト代で払うというのに」
「食費、出してくれてるじゃないか。必需品は僕が買うよ」
悠真は乙女のバイト代から1万円だけ受け取り、残りは好きに使えるよう貯金してもらっている。二人暮らしが続いてお金の動きがわかってきたら、改めて配分を考え直すと決めたのだ。
「ありがとう。……しかし、紀衣香はさすが今時の女性だな。肌から気を遣うとは、美容の何たるかをわかっているれでぃだ」
「ああ、それって実は、砂島先輩が紀衣香先輩に合う化粧品を探して試してるんだって」
「……」
乙女は目をどよんとさせてため息を吐いた。
「あやつら、なぜ恋仲ではないと言い張るのだろうな」
「わかんない……」
「気味悪がるお前たちの気持ちが少しずつ分かってきたぞ……恋でもないのにあの執着は確かに怖い。撤回しよう」
くわばらくわばらと呟く。
(……確か、雷に遭って逃げるときの言葉だっけ)
そう考えてみると、あの二人のふるまいが雷に匹敵するほどの恐怖を与えているともとれる。
「ああ、そうだ。聞きたいことがあった」
「うん。なに?」
「図書館で知ったが、羽菜や紀衣香たちも研究をしておるのだな」
「そうだよ」
乙女は悠真と大学に来ると、ゼミが始まるまでは図書館で本を読んで過ごしている。そこで卒論の展示物かポスターを見かけて知ったのだろう。
「幹也先輩と紀衣香先輩は4年生。大学って括りの中で最高学年で、卒業論文にとりかかってる。羽菜先輩は卒業論文を書き終えて、大学院に進んで1年目。修士論文を描いてるんだよ」
まだ論文や学会発表が活発化する時期でないため、悠真の研究を取り扱ってもらっているだけで、本来ならば卒業論文と修士論文に取り掛かる先輩たちがゼミの主役だ。
今でも研究室のチャットで研究の進捗を報告している。
軽く説明すると、彼女は深く頷いた。
「三人はどんな研究を?」
「幹也先輩と紀衣香先輩は、人間関係をネットワークで……えーと……」
最近の横文字に明るくない彼女への用語選択に悩む。
「……そうだ! えっとね。人と人の結びつきを、点と線を使って視覚的に表して、いろんなことを計算できないかっていう試みを目標にして研究をしてるよ」
「楽しげな研究だ」
「うん。お二人とも違う分野だけど、うまい具合に噛み合って共同研究してるんだ」
羽菜いわく、紀衣香が「研究室も幹也と同じがいい」と泣き叫んで持て余したところを和井田が拾ったらしいが、細かくは知らない。
「羽菜先輩は計算機科学を利用したトポロジー……って言ってもわかりにくいよね……」
トポロジーはネットワーク以上に説明が難しい。
考え方自体は変形が可能な図形を同一視するというシンプルさだが、動画でも見せなければ理解しがたいかもしれない。
悠真が悩んでいると、乙女が自慢げに胸を張る。
「どーなつとカップの形は同じ、というやつだな!」
「! 本で読んだの? すごい」
「ふふふ……お前との知識の差を縮めていきたくてな。勉強中なのだぞ」
胸が撃ち抜かれた。
彼女は両手で口元を覆って、くすくすと笑った。
「一生懸命に考えて教えてくれるお前が愛おしい。選んで間違いはなかったのだと確信するのだ。これほど嬉しいことはない」
「ふぐぁ……!」
追い打ちを喰らってダウンする悠真に、乙女が小悪魔のように微笑む。
「ほれ、ちょうど髪の毛が濡れておる」
「?」
「今日も髪の毛を切るちゃれんじをしようではないか」
「あ……うん」
食材の下ごしらえを二人で終えたら、茶の間の片隅にビニールシートを敷く。
その上に椅子を置き、ケープをかけた乙女が座る。
「撮影は恥ずかしい。切った髪を見せるのも……実は恥ずかしい」
「大丈夫だよ。先生も先輩方も、無理強いをする人たちじゃないから。……報告用の日記にも書かないでおく?」
「日記にはよいぞ。文章ならば、うむ。許す」
「それでも、嫌だと思ったら言ってね」
「……ありがとう」
袋に入れたハサミをお湯で温め、刃を開かず毛先に添える。
「どうかな」
「これならば大丈夫だ」
「じゃあ、毛先から」
「い、いや! 毛先の方が、敏感……ゆえに。長く切り落としてほしい……」
「わかった。じゃあ、頭の近くから」
切りそろえればショートになるくらいの位置に狙いを定め、銀の刃が黒を落とす。
「……っん、ふ」
「…………」
弱弱しい吐息に、悠真はハサミを取り落としかけた。
「すまぬ……くすぐったくて……」
「ウン」
「もう少し、下の方で切ってみてくれるか?」
「ウン」
動揺を殺し、黒髪に触れる。今度はセミロング程度に残るよう狙いを定めた。
サクリと軽い音とともに、湿り気を帯びてまとまった髪が床に落ちる。
「んっあ……」
「…………」
赤い耳の見え隠れする乙女は、恥ずかしそうに振り向いた。
「ど、どうにもびっくりしてしまうな! すまぬ」
「…………あの」
「どうした、悠真?」
「……ごめんなさい。ちょっとトイレに」
「そうか。では、片づけはわたしがやっておく」
「ありがとう。本当にありがとう」
悠真は廊下を走って二階へ上がり、トイレではなく自分用の洗面所に駆け込んだ。
冷水でザバザバと顔を洗う。
「ぷはっ」
氷に自分の顔を叩きつけたい気分だった。
(乙女ちゃんのご両親あんなこと毎日してたの? 心臓爆発しないの⁉)
血液が沸騰して心臓が早鐘を打つ。これ以上は邪な気持ちで彼女を見てしまいそうだ。
悠真はしばし頭の熱を冷やしてから茶の間へと戻る。
その日の夜は、どうしても日記を書けなかった。
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