第4問 論理的思考
第19話
「【羽菜先輩たちと友達になった乙女ちゃんは、僕といるときとはまた違ったふうに日々を楽しんでいるようだった。特に、勝負事をすると溌溂として笑うから、可愛くてたまらない。先輩方と一緒に卓球大会をしたらとても盛り上がって楽しかった。
それでも僕は寂しくなって、客室で乙女ちゃんに吸血を乞うてしまった。自分に嫉妬心があるなんて知らなかった。つまり、僕にとって彼女は執着するほどに愛おしく、一日に何回かは独り占めしたくなってしまう存在なのだ。もちろん独り占めに関しては比喩であり、実行するつもりはないが、それほどに……という意味合いだ。
彼女は恥ずかしそうに頷いて、髪を僕の皮膚へと刺し入れる。男である僕の中に女である彼女が侵入している感覚に倒錯を覚えた。僕は興奮するままに】――」
「朗読はやめてくださいですよってば――‼」
見事にやらかした悠真を砂島が慰める。
「元気出せ、岸里。良文だと思う」
「慰めになってないです……!」
さしもの和井田も気まずさを感じているらしく、苦笑気味だった。
「いやあ……最後の最後で凄い文章がぶっこまれたものだから、官能小説家にでもなる気かと。実は前回のあれはわざとで、私たちに感想を求めているのかとね」
「違うんです……昨日徹夜しちゃってうっかり消し忘れちゃったんです……」
めそめそと泣く悠真に、和井田は呆れてタブレットを差し出す。
「ほら、恥ずかしいとこをさっさと消すか直すかしたまえ」
「うっうっ……ありがとうございます」
「……紀衣香と砂島のことをあれこれ言ってちょっかい出してたけど、悠真くんもかなりなんだよにゃー」
「吸血って、エロティックな愛情表現なのね……」
「紀衣香が何考えてるかはわかるけど、岸里と乙女さんに迷惑かけないように」
悠真は先輩三人からの暖かいお言葉にさらなる涙を流す。
「まーまー。こんなふうに日記に書いちゃうくらいだし、恋する相手を冷静に見つめられないのは仕方ない。だから工夫が必要だったわけだが……プチ旅行が楽しめたようで良かったよ」
帰宅してから一念発起した悠真は、幹也からの日記第一案と第二案について考え、記述量の少ない今のうちにと、全ての文章に手を加えていた。
その徹夜のせいで恥ずかしい文章を晒してしまったのだから、後悔も
和井田はしばし日記を眺め、刺激しないよう優しく声をかける。
「色分けマーキングと写真を採用したんだね。見やすくていいと思うよ」
「はい……幹也先輩と紀衣香先輩にアドバイスをいただきまして」
「道理で。それじゃあ、マークした文を処理してリストに直すプログラムを考えておくから、期待してね。言語は何がいい?」
「C言語で」
「このC原理主義者め。メールで送るから楽しみに待っていたまえ」
「ありがとうございます」
「のう、羽菜よ。しー言語とはなんぞ?」
隣から乙女の小さな声が聞こえ、耳を澄ます。
逆隣の羽菜が答えた。
「ソフト……うーんと。身近なところでは、ゲームとかの仕組みを作ってるものだよ。ゲームを作る部品がプログラム。プログラムを作ってるものをプログラミング言語っていうの」
「ほう」
「C言語はそんなプログラミング言語の一種。銀太郎に入れたソフトは、たぶんCから進化した系譜の言語を使ってると思うにゃん」
「難しげであるな」
「乙女ちゃんならきっとできちゃう気がする」
羽菜と会話する乙女をぽーっと眺める悠真に、和井田が苦笑する。
「岸里くん?」
「はっ! ……すみません」
「伝えたように、恋とは脳の炎症。意図せぬ暴走が怒ることもあるだろう」
「はい……」
「相手への認識が歪むのもわかるが、今回は歪んだ認識の持ち主が論文を書くしかないという状況なんだ。……ならばいっそ、岸里くんがどうして乙女くんに恋をしているのかを解き明かすことも研究に成り得る。なんせ恋心は赤裸々な日記にも書き綴られているのだからね!」
発言がけっこうな頻度で心に突き刺さる。
「あの二人をモデルケースにしてみたのは、二人が『恋ではない』と言い張る理由を推察することで、自身の恋を見つめ直す材料にしてほしかったからでもある」
「紀衣香は紀衣香なので恋心とかないです」
「私もです」
「うるさいぞ二人とも」
幼馴染コンビを黙らせ、和井田は言う。
「どうか岸里くんが恋する自分を見失わないでくれると嬉しいね」
「……おそらくは」
乙女に心奪われたことに理屈はないが、恋していることは曇りのない事実だ。自分がそれを見失うことはないだろう。
「よろしい。観測者の軸がブレては元も子もないからね」
タブレットをカバンに放り込み、立ち上がって悠真を見据える。
「さて、研究の題材は磯女で決定した。収集するデータは、今のところは観察日記。それから写真・動画で決定だね」
「はい」
「さあ岸里くん、貴君が次にすべきことは何かな?」
「……テーマの決定を目指します」
「素晴らしい。1年でありながら迷いなく返答する度胸が特に素晴らしい」
彼女はホワイトボードに《アイディア出し会議》と大書した。
1年生の自分の研究が大掛かりになっていくことにひたすら恐縮する悠真と、切羽詰まったシーズンではないから気にするなと宥める先輩たちを眺めつつ、乙女が呟く。
「てーま。……題名のことか?」
「ちょっと惜しい」
黒板の端にテーマと書き、隣にタイトルと書く。
「題名はタイトル。テーマとは主題のことだ。研究においてはテーマの方が重要かな」
「む……微妙に違うのか」
「うん。研究テーマを一言で説明するのは難しいんだが……図らずも貴君は、我が門下の研究生たちから生物・心理・人文学の三つの学問を紹介してもらったらしいね」
「どれも興味深い。わたしの方から悠真を観察して研究してしまおうかと思ったくらいだ!」
「いいね、やっちゃいたまえ」
「実は最近、悠真の観察日記も付けている」
「面白そうだ」
羽菜に髪をぐしゃぐしゃされていた悠真がぼんっと赤面する。
和井田はふき出す笑いをこらえながらも、乙女への伝授を優先した。
「ともかく。学問分野こそ、研究者の立場となり視点となる大切なものだ。だが! 学問を絞っただけでは、研究に取り掛かれない!」
「なぜだ」
「生物だの心理だのでは分野の括りが広すぎるのさ。一生を捧げる覚悟があるならまだしも、一介の大学生がやるには荷が重い」
遅れて、他の面々も二人の会話に耳を傾ける。
和井田は幸せそうな笑顔で情報を提示する。
「例えば。磯女という種はどのようにしてこの地球上に誕生したのか? 転々生物の進化の歴史を辿りながら、磯女のルーツを探る進化・分類学の視点」
「ふむ」
「なぜ磯女は血液を栄養源にしているのか? 髪による吸血の仕組みは? 成長過程において人間社会に溶け込む意義は? ……そういった、磯女の肉体やふるまいの謎を解き明かす形態・生態学。これは砂島くんの分野だね」
「ほおう……」
乙女の瞳が輝き始める。話に興味を惹かれたらしい。
「で、ここまでは生物の視点だが。やろうと思えばまだまだある。社会が絡む心理や人文学の方面に足を突っ込めばほとんど無限だ。まずは視点を決めて、さらには視点に沿うテーマを立てなくちゃならない」
「学問と分野で視点を定め、テーマを決めることで視野を定めるということだな。……羽菜も悠真に同じことを言っていたぞ。違った観点から話を聞くのは良いものだ」
「……貴君、よければ研究者になってほしいんだよな。好奇心旺盛だし聡明だし」
「嬉しいことを言ってくれるのう。考えておこう」
「ありがとう」
半ば本気で言いながら、研究室内の面々をぐるりと見渡す。
「では諸君。そういうことなので、岸里くんのしばしの目標となるような仮テーマを決めたいと思っているんだが……どうかね?」
羽菜が頷き、和井田と悠真に向けて意見を告げる。
「人間は小目標がないとダレていく生き物ですし、分野絞って大まかにテーマを決めておくのは良いことだと思います」
幹也と紀衣香もそれぞれ賛同する。
「現時点でもけっこう面白い素材出てますから、論文とはいかなくてもレポートくらいならいけるんじゃないすか?」
「今まで出たどれも私たちの研究に役立ちそうですし、応援しまーす」
悠真は尊敬する先達四人に向かって頭を下げる。
「ありがとうございます。ご迷惑おかけしますが、よろしくお願いします!」
「末永くよろしくね」
「ヨロ」
「よろぴこ」
門下の個性に苦笑しつつ、和井田は悠真に釘を刺す。
「先に言っておくが、仮テーマだからね。真面目な貴君のことだ。まさか本腰入れて取り組もうなんて考えないでくれたまえよ?」
「え……しかし、論文を書くのであれば準備をした方が良いのでは……?」
「貴君は入学してまだ2か月目だろう? 大学一年生の時間は、勉強して経験を積むのに充てるべきだ。この研究は、あくまでも研究の練習さ」
「……」
「長い大学生活だ。楽しんでお遊びしよう」
「はい!」
「乙女くんも、恋人生活ついでに大学生活も味見してみてくれたまえ」
「うむ。曇りの日には、悠真にくっついて
今も長机の下では髪と指で触れあっている。
悠真が長い黒髪の端にリボンを結ぶと、気づいた彼女が笑った。
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