第17話
「岸里、なんかやつれてないか?」
山盛りのサラダとハムを持ってきた幹也が、味噌汁をちまちまとすする後輩に声をかける。
「……布団……僕は分けたはずなんです」
「うん? 布団?」
背中に張り付いていた紀衣香を椅子に押し込み、幹也自身はトレーを悠真の正面に置いて着席する。
「朝起きたら僕の布団に乙女ちゃんがいまして……」
「忍び込まれちゃったのか」
からからと笑って悠真の肩をぱんっと叩く。
「恋人なんだろ? いいじゃんか」
「結婚していないのにそういうことをするのはダメなんですよ……」
「うはは、面倒くせー」
楽しそうに笑う彼の横では、低血圧だという紀衣香がうたた寝しているが、ツッコミをする気力も勇気もない。
「違うんです……僕はきちんとボストンバッグを
「俺と一緒じゃん。俺も昔は紀衣香と布団分けようと頑張ったのに無駄足でさ」
「……だからどうしてその状態で付き合ってない認識なんですか……?」
「今では俺も紀衣香の体温がないと寝れなくなったから、岸里もいつかそうなるよ」
「申し訳ないのですが先輩にはあんまり一緒にされたくないです……」
乙女には悲鳴をあげたせいで見事に避けられた。
しかし、何度か悠真の唇が頬に触れたとかで興奮しながらも恥じらう乙女は、少し離れたテーブルで羽菜たちとこちらをうかがっている。
申し訳なさと恥ずかしさと嬉しさが入り乱れるジレンマで、悠真のメンタルは朝からボロボロなのだった。
「帰りは乙女さんと車で密室なんだから、辛気臭い顔してないで元気出せよ」
「……はい」
また彼女の隣に座りたい。それまでに仲直りしなくては。
悠真の表情に、幹也は満足そうに頷く。
「紀衣香がいると岸里が緊張するっぽいから、手短に話そう」
「き、緊張しているわけでは……!」
どちらかというと、幹也と紀衣香が揃った状態で対峙する方が緊張する。
「気にしないでいいよ。紀衣香ちょっと変わってるから、無理もなし」
「え……『ちょっと』……?」
「そんなことより、観察日記の書き方なんだけど」
「あ、はい」
確かに、コツを教えてもらう約束をしていた。
「昨日ファイル送ってくれてありがとうな。やっぱ、《乙女ちゃん観察記》最高だよ。あれ文学性があって素敵だと思う」
顔から火が出そうだったが、褒めてもらえたことに会釈する。
「ありがとうございます……ただ思ったことを書いたつもりで、文学性をこめたつもりはあんまりないんです……」
「思ったままが誌的とか才能ありありじゃん。乙女さんへの恋心と気遣いが溢れてて、岸里らしい文だった。見せてくれてありがと」
「……いえ、こちらこそ。温かいお言葉を頂きまして、ありがとうございます」
頭を下げ合う。
「ただ……あれをいざ研究材料にしようと思うと、ちとキツい部分もあるかなーと」
「確かに恥ずかしいですね……読み返し続けるとなればメンタルにもキツいです」
「…………」
幹也はサラダを食べる手を止めてぽかんとする。
「や……そういうことじゃなく……」
「?」
「あの日記だと、どの記述が乙女さんの生態・心理なのか、岸里の恋心なのかとか……必要な情報を把握するのが難しいんじゃないかと思ったんだけど」
「あ、あああ! そういう……そうでしたか」
研究の効率化の話だったことに気付いて赤面する。
「そうなんだよ。……ってか、岸里も読み返して恥ずかしくなったりするんだ?」
「……はい……」
悠真はその日の感情を忘れぬよう、眠る前に《乙女ちゃん観察記》を書くことを習慣づけている。深夜のテンションで書くこともしばしばで、冷静になった頃に読み返してじたばたと悶えることもあった。
「んじゃ、考えてみた提案を」
「よろしくお願いします」
ブルーベリーのジャムパンを食べつつ、スマホでメモを構える。
幹也もハムをかじりながら教えてくれた。
「日記のフォーマットを今のからちょっと変える」
「フォーマットですか」
現在の《乙女ちゃん観察記》は、愛用のテキストエディタを使って、本来の日記に近い形式で書いている。研究のためにしたことといえば、人に見せるならばと少々のデザインに凝ってフォントと配色を工夫したくらいだ。
「うん。書き方を工夫する。観察日記に書き残したいことの中から、研究に使えそうな情報をいくつかのカテゴリで分類しておく。それに合うよう、できる限りの短文で箇条書きにしていく。これなら、後で読み返してもすぐ把握できるよね」
「なるほど。情報の整理もしやすくなりますね」
現時点では読み返して内容を把握するのも容易いが、これから続けていけば記述量は増えて難しくなっていく。
箇条書きにしてすっきりとまとめる方法もアリだと感じた。
「そうそう。最初はコンパクトにまとめるのは疲れるだろうけど、慣れてきたら、情報の関連性も見えてくると思うよ。あとは考察を書けるスペースを準備しておくといいかな」
幹也はもともと生物学科の出身だ。生き物や培養の観察記録をつける機会も多かったからだろう、有用なアドバイスをくれた。
「効率を重視するならこの第一案がオススメ」
「第二案もあるんですか? 丁寧に考えてくださって、ありがとうございます!」
「いいってことよ」
恐縮する悠真に顔をあげさせ、タブレットで観察記の一部を表示する。
「?」
「第二案は、この書き方を変えずに色分けを使う」
幹也はエディタのマーカー機能をオンにして、指で文章をなぞっていく。
「例えば、ここの【羽菜先輩が来て下さっているというのに、僕は乙女ちゃんと触れ合いたい。吸血してもらいたい】ってとこ――」
「読まないでくださいいいい」
悠真は泣きそうになりながらタブレットに覆いかぶさる。
視界の端の乙女がソワソワして可愛らしいのだが、直視する勇気が出ない。
「ご、ごめんって。ほら、落ち着いて」
「うううう……取り乱してすみません……」
起き上がって手をどける。
先ほどの文章はピンクのマーカーが引かれていた。
「ごめん。つまりさ……こういう記述は、乙女さんへの恋心の現れだよね」
「はい……」
「他のそういうところもピンクでマーカー引くとか。乙女さんが洗剤に弱いとかの生態に関する記述は緑にしてみるとかして、表示を工夫する。これなら今までのと書き方が変わらなくても、見やすくなるんじゃないかと先輩は思う。負担も少ないから」
「ですが、文章のままで自動的に処理をするのは難しいのでは……?」
「和井田先生か羽菜ちゃん先輩に相談したら、マーカー引いた部分からキーワードをピックアップするプログラムも教えてくれるはずだよ」
「ありがとうございます」
「うん。……文学性とか言っちゃったけど、要はあの文章には独特の味があるし、たぶん気分とかテンションの上下で文体の印象ちょっとずつ違うんだよ。観察者の岸里ごとまるっと含んだデータだから大切にしてほしいと思って」
「本当にありがとうございました。さすが先輩。生物学科出身ですもんね」
「俺も紀衣香の観察日記を毎日つけてるからね」
「ああはいそうなんですねさすが先輩です」
必死で流す。違和感を覚えた部分は全力スルーを心がける。
「紀衣香からもアドバイスしてやって」
「うん」
目覚めた紀衣香が悠真を見上げている。
驚いて身を竦める悠真ににんまりとしながら、アドバイスを追加した。
「文章が素敵だけど、写真も入れていくといいね」
「写真、ですか」
「スケッチでもいいわよ?」
目の前では、当たり前のことであるかのように、幹也が紀衣香にコーンポタージュを飲ませている。
理解が及ばない悠真はスルーを決め込んだ。
「僕にはスケッチは難しいので……写真を撮ることを心がけようと思います」
「うふふふー。スケッチは練習すると上手くなるよ。あとは……そうだ! 折角のデジタルな日記なんだし、動画も入れられるよね。……髪を伸ばすシーンを録画したら新しい発見があるかもよ?」
周囲への配慮に音量を落とす。
悠真も無言で頷く。
紀衣香はぱっと華やかに微笑んだ。
「角度を変えたり撮影場所を変えたり、複数で映像を比較するのがいいと思うの。試行錯誤に挑戦してみて。困ったら相談に乗るわ」
「はい」
「髪を切るときも、乙女ちゃんが良ければ映像に残すといいかも」
「……そうでした」
悠真は磯女の生態観察のため、乙女を散髪する約束をしているのだった。
そのためにも、これからの彼女との生活のためにも、仲直りがしたい。しなくては。
決意をしたのとほぼ同時に、羽菜から背を押された乙女が背中に密着する。
「あらまあ。ナイスタイミングね」
元居たテーブルを見ると、羽菜は手を振って一足先に戻っていくところだった。
チェックアウトはまだ先なので、温泉に入りに行くつもりらしい。
「……乙女ちゃん」
彼女の手を握る。
「さっきは叫んでごめんね」
「ん……わたしの方こそ、忍び込んで悪かった」
「隣に座る?」
「うむ」
いそいそと悠真に寄り添う。
「こっちの話は聞こえてたのかしら?」
「うむ。散髪の話であろ? ……実は、母も父に髪を毎日切ってもらっていた。母が幸せそうにしていたゆえ、憧れのしちゅえーしょんなのだ」
「やだ可愛い……こんな空気じゃ乙女ちゃんの髪の毛ほしいなんて言えない」
「結局言ってるじゃん」
「幹也うるさいんだけど」
乙女の髪が一本伸びて悠真の手をくすぐる。悠真は、人前でもひそかに触れ合えるこのシチュエーションが好きだ。
ときめきを表に出さないようにしつつ、お洒落に詳しそうな紀衣香に質問をする。
「ハサミって、普通に手に入るものでいいんでしょうか? 工作用のだと髪が痛んだりしませんか?」
「理容師・美容師が使うハサミは切れ味が段違い。慣れない人が使うと危ないし、普通のハサミとはお値段も段違いなのー」
「そ、そうなんですか?」
「切れ味を心配するくらいなら、切った後のお手入れを心配してあげてね」
「……ですね。椿油買わなくちゃ」
「プレゼントしましょうか?」
「いえ、乙女ちゃんの美容用品は僕のお金で買うと決めているので……お気遣いに感謝します」
「あらら、フられちゃった」
ぺろっと舌を出す仕草も、紀衣香がやると嫌みがない。
こういうところが上品かつ小悪魔じみていると思うのだが、あまり賛同が得られないので悠真は自信がなくなっていた。
「紀衣香、あーん」
「いくら幹也でもそれはだめよ。拒否!」
「いいからビタミンを摂るんだ紀衣香……!」
「……。ご、ご馳走様でーす」
朝食を食べ終え、サラダを食べる食べないのと言い争う幹也と紀衣香のテーブルを後にした。
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