第15話
体を洗い、温泉に入り、サウナに入り、水風呂を楽しむ。
心地の良いサイクルを全身で味わった悠真は、男湯のベンチスペースで浴衣のままだらけていた。湯音が高かったためか、熱せられた体に扇風機の風が心地よく感じられる。
「……涼しい……」
「お、先あがってたか」
同じく浴衣姿の幹也がやってきて手を振る。
「お疲れ様です」
「おつー」
自販機の前に立ち、ボタンを押す。
「岸里、フルーツ牛乳飲める?」
「飲めますけども……」
「んじゃほい」
「わっ」
投げられた瓶をなんとかキャッチすると、幹也が笑う。
「おごり」
「あ、ありがとうございます」
「いいってことよ」
彼自身もコーヒー牛乳を買って、悠真の前のベンチに腰掛ける。
「経口補水液じゃなくて悪いな?」
ニヤリとからかわれ、少しバツの悪い気分になる。
和井田研では、ゼミ中のお茶代わりに研究室予算から2リットルでペットボトルを補充する当番があるのだが、ゼミに参加したばかりの悠真は、自分の当番週で経口補水液を買って大不評を勝ち取ったことがある。
「いえ。僕の方こそ、皆さんに不評だと思わずでしたから……すみません」
今では無難に緑茶や紅茶を買うことにしている。
「ぶっちゃけ美味しくはなかったけど、面白かったよ。一発で変わり者だってわかる、最高の自己紹介だった」
「うう……本当にすみませんでした……」
飲むのを嫌がる紀衣香のため、幹也は率先して補水液を引き受けてくれていた。
「気にすんなって」
瓶のふたを開け、ぐいっと一飲みする。
「それより。迷惑かけてごめん」
「え?」
「チェックインの時、岸里がなんかブツブツ言って悩んでたの、俺と紀衣香のことだよね」
「……。は、はい」
「和井田先生も無茶言うよなー。俺らなんか恋愛の参考になんないのにさ」
「いえその……本当にすみません」
直接でないとはいえ、二人の仲についてあれこれと言ってしまった自分が恥ずかしくなり、頭を下げる。
「なんで謝るんだか。気にしてないよ」
「……」
おそらく、観察日記のコツについて聞くことは紀衣香と一緒の時でもできる。会話の流れに気を付ければ不意打ちを喰らわないでいることも可能だ。
本来ならすぐに紀衣香の元へ向かうだろうに、彼は悠真のために時間を作ってくれている。片方ずつになってくれている今こそ、彼が紀衣香をどう思っているのか聞くべきタイミングではないのか。
気遣ってくれている先輩に気遣いを返せずして、後輩を名乗れるものか。
「……。幹也先輩」
腹を据えて、自分の研究――恋を前提とした磯女の観察研究において重要な、恋心について問いかける。
「紀衣香先輩のことをどう思っていますか?」
彼は驚いた顔をして、それからすぐに困ったように苦笑した。
「よくわかんないんだ」
「わからない……ですか」
「昔っから……それこそ、物心がつくまえからずっと一緒だ」
幼馴染だとは知っていたが、そんなにも昔からだとは知らなかった。
「俺の親が紀衣香の両親と距離が近かったから、毎日遊び相手」
「……幹也先輩も……お坊ちゃんというか、御曹司さんなんですか?」
運転してきた赤のSUVが、見るからに値段が張った外見と内装だったのを思い出す。
「むしろ真逆。砂島家は、西家の分家の分家の分家で。借金で首回らなくなったとこを紀衣香の本家に助けられて頭あがらない家」
「おおわあ……⁉」
反応できずに挙動不審になる悠真をおかしそうに眺める。
「本家とうちの両親としては、便利な労働力を差し出して受け取ったはずなんだけど、気難しくて人見知りだった紀衣香が俺を気に入って離さないから、紀衣香の世話役になったって話」
東京の一般家庭でのびのびと育った悠真には想像できない話だった。
「今日の車も紀衣香が買った車だよ。気ままに立ち寄った中古車店で『幹也に似合う!』って譲らなくて……」
懐かしむように話していた彼は、唐突に真顔になって頭を下げた。
「申し訳ないから働いて返そうとしたらクビになり続けているところです。バイト先紹介してください」
「……な、中倉さんのとこどうです?」
「よろしくお願いします。必要なら履歴書持ってきますんで」
メモ帳で書面に残してから、幹也は紀衣香をどう思っているのかを探り探り手繰っていく。
「紀衣香は昔から可愛くて、気が弱くていじめられてた。本家に言いつけてやろうかって言ったら『行方不明者を出したくない』って、いじめっ子にも優しくて」
西家が地元でどれほどの権力を持っているのか考えるだけで恐ろしい。
「幼稚園と小学校は俺が守って……中学になったらなんかイカレた願望ふりまき出して避けられるようになったけど」
被殺害願望は中学からだったらしい。
「一緒に成長していくふとした瞬間に、そういやこいつって女子だったな……って気付くことがあったよ」
「……」
「頭と目では紀衣香を女子としてとらえてるんだけど、心の方が上手くいかないって感じかな。なんせ距離が近くて進めないんだ」
「そうだったんですね……」
恋心の種は、幹也の中にしっかりと存在していた。
それだけで安心する。
「だから、電撃的に出会って恋した乙女さんと岸里の関係は羨ましくもある」
「う……す、すみません……?」
「嫌みかっての」
彼らしい爽やかな笑みを残し、飲み終えた瓶をゴミ箱に入れる。
「まあ、深刻なわけでもないしさ。変に気を遣わせちゃったなら悪かったね」
「大丈夫です。紀衣香先輩のこと、きちんと異性だと思ってたんですね」
「お前は俺をなんだと思ってたんだろう……?」
「あっ、いえ、違うんです。その……うまく言えないんですけど、最初は、女性以前に幼馴染って感じで、恋愛対象に成り得る存在として捉えていなかったのかと思いまして!」
お互いがお互いを男女として見ておらず、単に側に居てほしい存在だと思い込んでいるのならば、謎の関係性も納得がいく。
悠真は苦しいながらも二人の間に収まるような論理を組み立てていたのであった。
先ほどまでの会話でその理論は崩れてしまったが、同時に《距離が近過ぎる》という原因を見つけたことにより、新たな理論が完成して心は安定している。
「就学したら、離れる時間もちょっとずつ出てきますもんね」
幼稚園ではいっしょくたにまとめられることも多いが、小学校以降ともなれば男女で別れる時間は増えていく。性差を理解する場面が多く発生する。
きっと、そういった場面で紀衣香のことを異性であると意識したのだろう。
新たな論理に満足する悠真に、幹也が怪訝そうに情報を追加する。
「? いや、離れたことはないよ」
「え? だって、体育とか宿泊行事とか……あるじゃないですか」
「紀衣香は俺の隣じゃないと寝付けないから、泊まりの行事なんて一回も参加してない」
「…………え?」
組み立てた理論が崩れていく。
「み、幹也先輩は参加しました?」
「紀衣香が寝付けないのが可哀そうだから俺も参加してない」
「体育の着替えは?」
「着替えで離れなくてもいいように私服の学校。授業は体育館が広かったから同じ場所」
「…………。お二人って付き合ってます?」
「え、紀衣香と付き合うわけないじゃん」
湯あたりもしていないのに眩暈がしてきた。
「あの……さっきのお話の……頭と心での認識の乖離について、紀衣香先輩に伝えたりしましたか?」
「気付いた初日で伝えてるけど?」
「それなのに、どうして……」
幹也自身も距離が近いせいで進めないと言っていたではないか。自然と距離を置くことで関係を見直すのが最善ではないのか。
指摘を視線に込めたつもりで問うと、幹也はあっけらかんと答えた。
「紀衣香と離れるくらいなら死ぬよ」
「え」
「だってほら……さっき岸里に瓶投げたけど、あれ、実はすっぽ抜けてたんだ」
彼が笑って両手を差し出す。
「――今も指の震えが止まらない」
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