第9話
翌朝は雨が降っていた。
昨夜、あのあと何がどうなって寝付いたのだか全く思い出せないが、自分はなんとか布団にたどり着いたらしい。
点けっぱなしのデスクトップをシャットダウンして階下に降りる。
「……おはようございまーす」
寝坊した申し訳なさから控えめに挨拶すると、魚の仕分けをする羽菜が振り向く。
「ようよう、後輩ー。先輩は朝から乙女ちゃんと釣りを楽しんできたぜー? 家主のキミに宿代払うためによー」
「すすすすすみませっ……」
「ひひっ」
和井田と似たニヤニヤ笑いを引っ込める。
「冗談。乙女ちゃんとデートしてごめんよ」
「……いえあの、寝坊してすみません。あれこれと、ありがとうございます」
「まだ8時じゃん」
「いつもは6時に起きて、乙女ちゃんと一緒に料理するんです……」
「のろけパねえ」
台所から伸びてきた黒髪が鼻先をくすぐり、悠真は落ち込んでいた顔を上げる。
「おはよう、悠真」
鍋の前に立つ乙女はエプロン姿で腕を組んでいる。
「おはよう」
「うむ。……寝顔も愛おしかったぞ」
「?」
聞き返そうとしたら、乙女はいそいそと死角に引っ込んでしまった。
困惑する悠真に羽菜が伝える。
「出かける前の乙女ちゃん、悠真くんの顔を見に上がってったのさ。るんるんで降りてきたから何かお話したのかと思ったけど、寝顔見ただけなんだね」
「……そ、そうでしたか……嬉しいな」
「交代だな。頼んだぞ」
「うん」
乙女と立ち位置を交代し、ご飯と味噌汁、おかずを盛り付けていく。
「イチャコラが独り身にしみるにゃあ」
本日の羽菜は語尾通りの猫耳付きパーカーを着ている。彼女はいつどこでどんな時でも何らかのパーカーを羽織っており、トレードマークのようなものだった。
乙女が着ているパーカーに見覚えのないことから、パーカー好きの彼女が贈ったのだろうと推測する。それには斜めに大きく《I am a Monster》とロゴが入っており、思わずふき出しそうになった。
二人の朝食も心安らぐが、三人では楽しく弾む。
「乙女ちゃんと勝手に話し合ったけどー。朝はつみれの味噌汁とおかず。昼はありものを適当に。夕方から紀衣香たんとスナジマンが合流ってんで、夜は外で食べようとさ」
「楽しみですね」
「うん。実は私、乙女ちゃんの手料理がものすんごい健康メニューなことに驚いてるよ」
「一汁三菜こそ食卓の基本だ」
「料理スキルが高いにゃあ」
「また遊びに来ればよかろ。良いよな、悠真?」
「うん。……僕もぜひ先輩に来ていただきたいです。邪魔でしたら乙女ちゃんと二人きりのシチュエーションにしますし!」
「お前が二人きりになれボケ男」
そんな会話をしつつ、羽菜は単刀直入に切り出す。
「わかっていたかもだけど。この私は和井田先生の指示を受け、研究に悩む悠真くんのお助けマンとしてやってきた。だからヒーロー風に登場したのさ!」
「あ、そこ伏線張ってたんですね……」
「ふっ、紀衣香たんの暴走と砂島の無関心ぶりと和井田先生の奇行には慣れてるからね。カオスになってくのも悪いから、さっさと引き受けて移動したんだ」
羽菜は和井田研究室の最古参であり、多くの経験を積んでいる。鈍い悠真でさえ恐れおののくメンバーを次々押しのけていく姿には畏敬すら抱いていた。
「ありがとうございます、羽菜先輩!」
「むふふ。後輩からの感謝も悪くない。……では、先輩の推理力を見せてあげよう」
「よ、よろしくお願いします」
ちらと視線をやれば、隣の乙女はミートボールを食べてしみじみと味わっている。
羽菜がなんでもないような調子で切り出す。
「乙女ちゃん」
「うむ」
「あなたはきっと、人間として暮らしていた時期があるよね?」
「っ――」
目を見開く悠真をよそに、二人は笑みを交えながら質疑応答を進めていく。
「うむ。正味では12と少しくらいかの」
「で、お父さんは人間?」
「羽菜は鋭いのう。正真正銘、我が父はこの地で生まれ育った人間の男だ」
「そかそか。乙女ちゃんって、年齢は百とかまでいってないでしょう?」
「今年でおおよそ80ちょっと……くらいだったはず。曖昧ですまぬな」
「終戦前なのかな。あれこれ納得」
手を差し出して微笑む。
「答えてくれてありがとうね」
「良い。楽しかったぞ」
握手を終えると、羽菜は悠真を振り向いた。
「はーい、悠真くんの知らない乙女ちゃんの一面が見えたねー? どうしてだと思う?」
「…………ぼ、僕の……会話不足、ですか?」
「会話はしてたでしょ? お互いの好き好き以外なら、プライベートスペースとか。磯女として気遣うべきポイントはどこかとか?」
「はい……」
「悠真くんは合理の男で、根っこの考えがエンジニアだから、互いに快適な共同生活を営むための《解決策》を第一優先で探ってたってだけ。生物と心理の話みたいに、着眼点が違うだけなのだにゃあ」
彼女は味噌汁を飲み終えて手を合わせた。
「……ご馳走様。美味しかったよ、ありがとう」
「どういたしまして」
全員が食べ終わったところで種明かしを始める。
「私がヒーローの登場シーンをやったら、乙女ちゃんは『おひねりを飛ばす』って表現を使った。悠真くん、おひねりってわかる?」
「役者さんに向かって、紙で包んだ小銭を投げるやつですよね」
悠真は実際にしたことはないが、テレビで見たことはあった。
「うん、芸を称えてお祝いするものだよね。これって、乙女ちゃんはおひねりを使う文脈が理解できてるってことだよ。何か舞台を見たことがあるんでしょ?」
「そうさな。8歳のころ、母に連れられて行った温泉宿で、簡単な落語や歌舞伎をしているのを見た。なかなかに楽しかったぞ」
「それ私も見たい。……ん、ごほん」
恥ずかしそうに咳払い。
「舞台を楽しむ……文化に触れてるってことは、文化溢れる人間の町で、人間らしく暮らしてた時期があったんじゃないかと推理したわけよ」
「す、すごいです」
「あとね? 乙女ちゃんには家電への忌避感が見受けられない。もともと、電話とかラジオくらいの簡単な機械は体験してるんじゃないかなって」
「だからこそ、悠真が見せてくれたラジオに感動したのだぞ! 電池も使わないでラジオになった」
乙女に見せたのは、回路の一部に特定の鉱石の結晶を用いたラジオ。小さい頃から回路をいじるのが好きだった悠真が自作したそれを、彼女はどうしてかいたく気に入ってくれていた。
「鉱石ラジオ見たって言ってたね。説明できる?」
「覚えているとも。この世には電波なるものがあちこちを飛んでおり、それを上手く捕まえてやると、その電波の持つデータを使って色んなことができる」
「うんうん」
「鉱石ラジオでは石を使うことで電波から音声を取り出せる。電波自身が電気だから、受け取った電波をそのまま使って、動力なしにラジオになってくれるのだ」
「完璧。乙女ちゃんも研究者になったら?」
「んふん……」
何度も見てわかっていたが、乙女はやはり、照れた時はこの声を出すらしい。
「知識だって、受け入れる土壌の常識がなきゃ難しいよ。『人間のやることなんぞわからん。気味の悪い』みたいに、文化と技術をシャットアウトする反応は一度もしてないじゃない。あとそもそも人語喋ってるし」
「……確かに」
海に生きる磯女に人間が天敵だと思われていてもおかしくないというのに、科学の理屈と思考をこね回す悠真を見ても、彼女は微笑ましく見守り、気になることがあれば質問して吸収していた。
人間の性質への理解がなければあり得ない反応だ。
磯女にとってどうなのかと聞いてみると、乙女は微笑んだまま悠真に答えた。
「海は大いなる母である。生命の源たる海は誰のものでもない。長い年月をかけて、すべては海へと還り、また生まれ出る。それほどに大きな海をちっぽけな命がどうしようというのか」
「…………」
予想を超えた答えに圧倒される。
「力を手に入れて喜ぶ命が生涯に彩りを与えようとしているだけのこと。取るに足らぬ」
「……他の海に追いやられても……そう思える?」
「生きるように生きる。住みづらいと感じれば移るのは人間もだろうよ」
答えを終えて、乙女は番茶を飲み干す。
「……なんだか、今までで一番に、人間とは違うんだなあ……って思ったよ」
感心したような羽菜の呟きに賛同しつつも、悠真は締め付けられる胸を押さえていた。とことんまで乙女のことが好きなのだと自覚する。
恋の痛みを鎮めている間にも、二人は質疑応答を続けていた。
「まあ人間じゃなくても気にしないけど。ところで、磯女に対しての磯男っている?」
「なんとなく嬉しくない響きだな。知る限りではおらん」
「やっぱりか。人間の男を婿にとって繁殖するなら、磯女にとっては人間の名前をもらうことが婚約みたいな感じ?」
「んふん……」
「あっさりビンゴでチョロかわ。……人名を名乗ることで、妖怪だった磯女は人間の世界に近づき、結婚生活を営んで新たな磯女を生むのでは……そんな妄想もしてました」
「あっているぞ、羽菜……婚姻の際には仲人を頼む」
「や、そこは和井田先生に頼もうぜ。年長者差し置いてはできんよ」
なんとか落ち着いた頃、羽菜が手招きをする。
「さて、ここからは悠真くんが質問に答えてね」
「へ……あ、はい!」
姿勢を正し、二人の居る方へ顔を上げる。
「砂島は生物で、紀衣香たんは心理からの着眼点。ならば私の視点はどこの学問でしょう?」
「人文学でしょうか」
間髪入れずに返答する。
科学が自然またはそこから連なる現象について探求するものならば、人文学は、人間または人間が生んだものを対象にする学問。
羽菜がしていたことと言えば、この地域における歴史背景と文化を乙女の発言から照らし合わせ、穴埋めテストを解くがごとくの検証だ。
「ぴんぽーん♪」
「……なんだか……煮詰まってる自分を客観視できたというか……僕よりも、羽菜先輩の方が乙女ちゃんに鋭い質問をしてらっしゃったような……」
「面倒くせーな後輩。どうせキミ、物理化学一辺倒でしょ? 見るからに歴史背景に疎そうだもん」
「うぐっ」
「視点が違うだけだって言ってんのにわかんないかにゃー。磯女が快適に暮らせる工夫がある時点で、キミは自分の得意分野で十分に戦ってんのさ」
一週間分の気温と天気予報を書いてある小さなホワイトボードを指さす。乙女が日中に外出できる可能性が高い日には、花丸のマグネットをつけてあった。
「水浴び用の海水、見たよ。ろ過装置まで使ってた。あと、洗剤で肌荒れする乙女ちゃんに代わって掃除と皿洗いと洗濯は何から何まで引き受けてるとか、大学に居る間に寂しくないように本とおもちゃを用意したりとか……十分やってる。乙女ちゃんもそう思うよね?」
「うむ。視点の違いとはつまり、得意分野の違いなのだな」
「もうほら、こゆとこ乙女ちゃんの方が柔軟」
羽菜は乙女をひとしきり撫でる。
「……先生も私たちも、研究ド素人の悠真くんがいきなり大活躍する姿を期待してるんじゃないのさ。その証拠に、研究の方向性はバンバン提案してるわけよ」
「はい……」
「現時点での悠真くんの仕事は、乙女ちゃんへの無限の着眼点から、最も素敵でビビっとくるやつをチョイスすること。人に教えて回りたくなるくらい魅力的な乙女ちゃんの研究テーマを考えることだ。どう? これならほかの誰よりできると思わない?」
「…………。できます」
「ふふっへへ。年齢イコール彼氏いない歴には痛いぜ」
乙女は黒髪で羽菜を撫で返しつつ、ふと疑問を口にする。
「しかし羽菜よ。生物だの心理だの人文学だのと言っておるが、一分野に絞らねば大変なのではないか?」
「鋭いねー。でも、努力が無駄になることなんてないぜ。論文書くときに役立つんだよ。1年生、しかも正式な研究じゃない研究の時に経験しとくと有利だにゃあ」
「そういうものか」
「行き詰った時にも迂回路があると嬉しいし、先生もそう思って提案してんじゃないかねえ」
「今度のゼミで質問してみます。……相談に乗っていただき、ありがとうございました」
座布団から降りてお辞儀する悠真に、羽菜が照れて手を振る。
「そんな畏まらんでもいいよ」
手のひらの形になった黒髪を握って笑った。
「相談を口実に、乙女ちゃんと仲良くなれたわけだしね」
「うむ!」
「そしてパソコンタイム! おー!」
「おー!」
二人は嬉しそうに手を振りあげた。
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