第7話
「ではここにサインをだね……」
悠真が泣きながらペンと印鑑を掴む。
怪しげな契約書を書かされる様子を見て、先輩たち三人は口々に言う。
「……指導教員の立場を利用した脅迫っすよね……」
「私も昔、あんなん書かされたなー」
「羽菜ちゃん先輩も変態研究者なんですか?」
「違えよ。紀衣香たんにだけは言われたくないし」
四方八方から心を切り裂かれる最中、乙女だけが「未来の夫は有望なのだな」と嬉しそうに呟いており、何よりの慰めであった。
「商談成立……」
署名捺印を終えた書類を嬉しそうに回収し、和井田は実に爽やかな笑顔を見せる。
「後できちんとコピーを渡すからね」
「……はい。もう煮るなり焼くなり好きにしてください……」
「もっと明るい未来を信じようぜ、若人」
空気の読めない幹也が明るいトーンで発言する。
「詐欺った直後によく言えますね。尊敬です」
「ほいほい名前書く方が悪……あっ、詐欺じゃないよ? 勘違いしないでくれたまえ?」
「どっちですか……いやもう、どっちでもいいや」
羽菜は呆れながらも場の収拾にかかる。
「研究のためにデータを増やすべきですよね。手探りの研究で悠真くんが困らないように、初期段階では色んな方向性でもって収集すべきです」
「その通り。データが観察日記だけなのは心もとないね。さて、アイディアを出し合ってみようか。3分」
拍手を合図に、それぞれ卒業論文や修士論文で研究中の先輩三人が話し合う。ひよっこな悠真は未だに勉強中だ。
漏れ聞こえる言葉にメモを取りつつ、乙女からの質問に答えていく。
「でーたとはなんぞ?」
「情報のことだよ。研究を進めるために必要な材料って感じ」
「なぜ材料が観察日記ではダメなのだ?」
「丸っきりダメなわけじゃないんだけど……一人だけで観察して文章を書くから、どうしても主観が含まれちゃうんだ。科学は客観性が大切だからね」
「客観性とな」
「データへの信頼性と言い換えてもいいかな。僕が書いた日記を元に僕が研究したって、『え、それってあなた一人が思ったこと? 他の人にも意味あるの?』みたいなツッコミを受け止めきれないでしょ?」
「ふむう……なんともはや、難しい」
「そうかもしれないけど、大切なんだよ。客観性を保つためには、日記とはまた違った方法でデータを集めたり、観察者を複数人そろえたり……」
自信がないままに喋って恥ずかしくなった悠真は頬をかく。
「いくつか方法があるはず。素人の僕へのフォローもあるかな? ……ごめんね、曖昧で」
「未来の夫が勉強しているのだと感じられて嬉しいぞ。努力家であるな」
「あ、ありがとう」
しかし、乙女の質問もなかなかに鋭く、その証拠にストップウォッチを持つ和井田が楽しそうにこちらを見ている。
(……乙女ちゃんも大学で勉強できたらいいのになあ)
パソコンと基盤が友人だった自分に、本物の恋人ができるなど考えてもみなかった。
彼女とキャンパスライフを過ごせたらどんなに幸せだろうか。
そんなことを想像しているうちに、電子音が話し合いを止めた。
「よーし。意見がある者から挙手したまえ」
「あ、俺から乙女さんに」
「おやおや? 砂島くんがトップバッターとは。……どうぞ」
幹也は乙女に向き直り、一礼する。
「?」
「乙女さんの協力がなければならない提案なんで、先に失礼がないように」
「なんぞ?」
「髪の秘密に迫るのはどうかと思って。嫌ならプライバシー尊重します」
「秘密といえるほど大したものもないが」
「一族の秘密って感じでもないですか」
「改めて知ろうとも思わなかったゆえ、お前に言われてようやっと気にしたくらいだ」
ジトっとした目で幹也を見据える。
「というか、不器用な敬語をやめよ。むずがゆいわ」
「ありがとう。普通に喋るよ」
堅苦しいのが苦手だと常にこぼす彼は、いつものフランクな雰囲気に戻って切り出す。
「解剖は論外中の論外だけど、髪が伸びる様子の記録や髪を切ることならできないかなーと。髪を切るのってどう? 痛覚とかある?」
「切断可能だ。毛先であれば違和感くらいはあろうが……痛覚はないのう」
「おおー。いけるんだ?」
「うむ。海中で絡まった場合などには、ほぼ自動で切れるぞ。そして元の長さに、」
「なんたることかカニの
テンションがぶちあがってしまった和井田が手を振り回す。
「お前の師匠、発狂しているのだが」
「いつものことだよ」
「……大変なのだな……」
「うちの先生はさておき。大丈夫そうで良かった」
「う、うむ。我が黒髪は長さがもとより自由自在であるゆえ、ハサミでわざわざ切ったことはないが……不可能ではない。そして悠真になら許す」
「じゃあ、岸里。近いうちに乙女さんの散髪をビデオに撮って、髪の毛持ってきて」
唐突に話を振られた悠真が飲み物を噴き出しかける。
「むっ……無茶ですよ! 女性の髪の毛の扱いなんて……! 乙女ちゃんが変な髪形になっちゃったら……⁉」
「悠真よ、話を聞けい」
くいくいと袖を引き、乙女は自身のこめかみ付近に垂れる黒髪の一束をしゅるしゅると伸ばしては戻してみせた。
「わたしの髪は思うがままに伸ばせるのだぞ? 失敗しようとも容易く修復できるに決まっておろう」
「あ……」
「焦りすぎというものだ。……気にせず切っておくれ」
「あふん可愛い」
スルースキルの高い幹也はバカップルを放置し、周囲に向かって話を締める。
「磯女の生態は紀衣香の方が詳しい上、それを元に他のことも検証や質問をさせてもらうかもなんで……こういうのは他の人にもアイディア出し協力してほしいです。俺からは以上」
「あーい」
「わーい!」
「良かったよ」
女性陣が口々に応答した。
全員が落ち着いたところで、挙手した紀衣香は嬉しそうに告げる。
「趣味嗜好を共有してこそだと思います!」
「ああうん。良かったね」
和井田は切った爪にヤスリをかけながら上の空。
「聞きもしないでその反応! そーゆーのよくないですよ!」
「まともだったら聞き続けるから続けて?」
「むむむー……いいです。話してあげましょう!」
「わーいやったあ」
完全に棒読み。
「そもそも、乙女ちゃんの視界が私たちと同じかどうかも定かじゃないですよね? 日差しが苦手な海中の動物と陸上動物ですもん。もしかしたら色覚からして違うかもです」
「お、確かにそうだね」
「生物がどんな色を好み、どんな色を避けるのかを調べるのも立派な研究ですよ。なら、そういう方面からもいいんじゃないかなって思います」
「うんうん。いい着眼点だ」
「他にもたっくさんあります。食べ物・音楽・服……そういった趣味嗜好を知り合って親交を深めて、いつかは天国にゴールインしたいです!」
「危ない願望はチラシの裏にでも書いてくれたまえ」
「! 書いたら先生にお見せしますね」
「砂島くん、紀衣香くんを頼む」
「ういっス」
爆弾処理班のごとき扱いながら、幹也と紀衣香はベストコンビだと悠真は思っている。そうでも思っていないとやっていられない感が漂うせいでもある。
和井田はにっこり笑って乙女を両指で差す。
「さて乙女くん。二人の話を聞いてどう思った? 違いはあったかな?」
「うむ……砂島の話は、わたしの身体機能の検証のようであった。紀衣香はわたしの内面……あるいは感じ取り方から観察しようとしているのか?」
「素晴らしい」
悠真には、人に嫌がらせをして笑うのも和井田一葉ならば、人の気付きや成長を心から喜ぶのも和井田一葉であると感じられる。
これまでの会話からも情報を拾い上げながら、乙女に提示していく。
「砂島くんは乙女くんの生態から攻めようとする、いわば生物学的な発想。他の生物との類似点や相違点を探す作業だ」
「お前と同じか」
「さらに素晴らしいね。……それに対し、紀衣香くんは精神性や認知能力から攻めていく心理学的発想。ま、どっちの分野もけっこう繋がっているがね。生物である肉体とその心理は、決して切り離せない」
「どちらも大切なのだな」
「うん。それに、岸里くんの観察日記は貴君の生態と心理を含んでいたから、両者を補強するためにもデータを揃える発想は悪くないと考えている」
和井田が乙女に入れ込む姿に、悠真はかつて自分を引っ張り込んだ際の彼女の手腕を思い出した。彼女は科学と知識を愛しているから、興味を惹くためのプレゼンは惜しまないのだ。
圧倒された乙女は小さく呟く。
「……ああ……人間は考える生き物か」
「?」
悠真を見上げて微笑んだ。
「お前との出会いに感謝しよう」
「…………」
あまりの可愛さに心臓が止まりかけた。
興味を失った和井田は羽菜に問う。
「赤嶺くんからは何かある?」
「初心者の悠真くんに並行作業させちゃっても可哀想ですから、オブザーバでいようかと」
「賢い選択だ」
「選択っつーか、砂島は体育会系の体力オバケ基準でとんでもない要求しますし、紀衣香たんは素でサイコな要求をしますから。先生がアテにならないならフォロー必要でしょう?」
「ひどいや」
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