第6話

 悠真はそれからも日記を書き続けた。乙女に見せてはコメントをもらい、時折インターフェースや表示デザインを改善しながら、時に簡素に、あるいは綿密に記述した。

 そんな観察日記が続いて一週間と少し。

 週末の和井田研究室にて、観察日記の報告会が行われていた。

「【乙女ちゃんに「血を吸ってほしい」とリクエストをしてみた。貧血にならない程度という条件も付け加えても、僕と彼女は緊張していた。感情の共有こそ親近感を深めるという研究結果は知っていたが、緊張感の共有でも起こり得るという新たな発見を得た。心理学は遠い分野とはいえ、僕の調査不足と言わざるを得ない。

 さておき、僕のお願いに頷いた彼女はもじもじしながらも髪をするりと僕の肘窩まで伸ばし、静脈の位置を探り当てた。彼女は赤い顔を僕に押し付けて隠したまま、器用に髪の毛を皮下へと差し込むのだ。僕はあまりの興奮に】――」

「朗読はやめてください‼」

 あまりの羞恥に耳まで真っ赤になった悠真が、和井田の声を遮る。

 彼女はポリポリと頬をかきつつ、手元のタブレットに映し出す《乙女ちゃん観察記》を最初からスライドする。

「途中までは釣りの体験記を挟みつつ《妖怪に魅せられた男のサイコホラー~恋愛風味~》みたいなのを読んでいる気分だったんだが、ぶっ飛んだ愛情表現に慣れた後半からは赤裸々な夫婦生活を垣間見ているような気分に。各日の簡潔な出だしが嘘かのようでゾっとさせられるね」

「削り忘れです……! 忘れてください……」

 ついには半泣きの悠真の横では、乙女が恥じらいつつもウットリ顔。

 それを見た砂島が「割れ鍋に綴じ蓋」とまさに身も蓋もないことを呟いたが、紀衣香にデコピンされて沈黙する。

 羽菜は嘆息。

「せめて恥の感情が残ってたのが救い?」

「残念ながら、乙女くんに文を見せている時点で大した機能はしてないと思うよ?」

 和井田が見せた画面端には、次回をひそやかに乞う乙女のコメントが入っていた。

「なんかもう……可愛かった後輩が一皮剥けて異常性を花開かせていくのがヤダ」

「何を言う、赤嶺くん。引っ込み思案だった後輩が、ついには自身の趣味嗜好やプライベートをさらけ出すようにまでなったことを喜びたまえ!」

「まともだと思ってた悠真くんが紀衣香たんに近い属性だったのが嫌なんです!」

「嫌よ嫌よも好きの内。自分が苦手なものと触れ合うことで逆に興奮を生む。人はそうして性癖を開拓していくんだ。貴君にもいつかわかるよ」

「そんな高度なプレイはしたくない‼ 可愛い後輩は可愛いままで見てたいのー‼」

 悲鳴を上げる羽菜を堪能してから、和井田は乙女に向き直る。

「さて。お楽しみの時間だよ」

「あちこち阿鼻叫喚の様相であるが、良いのか?」

 未だに身悶える悠真と羽菜、言い争う幹也と紀衣香を指して言う。

「いやあ、私は油まいて火をつけることは出来ても、鎮火は下手くそなんだ」

「火をつけなければよかろうに」

 乙女はいそいそと悠真に寄り添い、和井田に向き直る。

「インタビューをしてくれるのだな? 楽しみにしていたぞ」

「それは嬉しいな」

「深い知識を持つ者と話せば新たな発見を得られる。お前と出会って気付かされた」

「褒めるのやめてくれたまえ。純粋な称賛とか慣れてないんだから」

 復活した羽菜が場を収め、悠真が和井田に渡したデータから恥ずかしい記述を削除し、ようやくのセッティング。

「さすがは我が研究室のホープ。《乙女ちゃん観察記》、楽しく読ませてもらったよ」

 和井田の発言に、悠真が長机に突っ伏す。

「あああ~……」

「嫌みじゃなくて、彼女の……磯女の生態について推測がなされているのが良かった。特に既存の生物と比較しつつ類似点を探っているのが素晴らしい」

「……恐竜など未知なる生物は、鳥や爬虫類などの近い種から生態を推測します。それに則り真面目に書いたつもりで……本当にあの吸血シーンは忘れてくだ、」

「はいはい忘れた忘れたー」

 にやけた笑みで指を回す。和井田が話を聞いていないときの癖だ。

「おおおお……‼」

 慟哭する悠真に引きつつ、羽菜が代わりに訴えてやる。

「あんまり悠真くんいじらないであげてくださいな?」

「わかってるって。……無理に観察日記つけさせちゃって申し訳ないから誉めようと思っただけなのに、岸里くんが余計な事蒸し返すからさー」

「褒め方に悪意が滲んでましたよ」

「もー……赤嶺くんしつこい。次回から前向きに検討していく所存だよ」

 全く前向きではない返事をしながら、乙女に微笑みかける。

「お待たせ。どうしてこう私は前置きが長くなるんだか」

「人徳であろうよ」

「いいこと言うね。私は人徳に満ちてる。うん、良い響きだ」

「……良かったのう」

 和井田が背後へ合図すると、紀衣香の髪をブラシで梳いていた幹也がパソコンを構えて書記をする。

「まずは改めての自己紹介から。私は和井田一葉。人は私を《科学ジャンキー》と呼ぶ」

 主に、和井田の同僚である教員がそう呼ぶことが多い。

「じゃんき?」

 羽菜がこそっと耳打ちする。

「中毒って言葉はわかる?」

「うむ」

「英語では何かの中毒になってる人をジャンキーって呼ぶのだにゃあ」

「つまり和井田は、麻薬のごとく科学に溺れている女なのか」

「正解! 横文字に臆さないとは素敵だね」

「……こやつがあだ名を喜ぶ理由がわからんのだが」

「安心して。私らも理解できない」

 唯我独尊を地でいく和井田は、自らの欲望を嬉しそうに吐き出す。

「私は貴君のことを知りたい。つま先からてっぺんまで、皮膚表面から臓器内部まで全て知りたい。髪の毛の秘密も知りたいし……つまりは何もかもを知りたい」

「悠真とはまた違った動機かの?」

「うん? ……推測でいいのなら、彼の動機は『思考を乱すほど魅力的な彼女について知りたい』という恋心だよ。少々歪んでいるがね」

「納得した」

 ひそかに悠真が「僕の恋って歪んでるんですか……?」と先輩たちに聞いて目を逸らされていたが、その程度を気にかける和井田ではなく、また、恋人の立ち直る強さを信じない乙女でもなかった。

 そのまま話を続ける。

「であれば、お前はどういった思いで私を。磯女を知りたいのだ?」

「……そうだなあ。目の前に新種の生物がいて、図鑑のページを埋めるチャンスが転がっている気分。もう大興奮だよ。国際学会で発表できないのが残念だ」

 乙女はふっと笑って目を伏せる。

「大昔、お前のような人間が同族たちに喰われて死んだ。懐かしや」

「マジ? 興奮するね」

「……お前、磯女よりも化け物なのではないか?」

「人間性なんて母親のおなかに置いてきたさ」

「…………」

 不可解なものを見る目を向けられた和井田は、恍惚に震えて笑う。

「わたしを知ってなんぞする?」

「知らない。昨今では役立てるお題目がなければ予算がもらえない傾向にあるが、私にとっては研究の行く先なんて心底どうでもいいんだ。そんなの、大いなる自然から見つけたものが運よく人間に役立った。それだけの話じゃないか!」

 子どものようにはしゃいで乙女の手を取る。

「知りたいからあれこれ試すんだよ。科学者ってそういうものだろ?」

「和井田も科学者なのか?」

「もちろんだとも。貴君のすべてを知りたくてたまらない」

「解剖でもする気か?」

「殺せば終わりの一体を解剖するなんて非効率。サンプルがいるならまだしもやらないよ」

「本当に悠真の師匠らしい師匠だ」

 呆れつつも手を振って話を打ち切る。

「……良い。研究とやらに協力してやろう」

「やっりい‼」

「ただし」

 全力ガッツポーズの和井田に釘を刺す。

「万が一、命に係わる危害を加えられた場合には……悠真以外の人間を殺さないでいる保証はない。また、悠真に危機が迫った場合でも同様である」

「要は本能的な防御かね?」

「うむ」

「じゃあ別にいいよ。危害加える奴が悪いってことで。……研究生たち、賛成なら挙手」

 振り向いた先の光景を見て、にっと笑う。

「ってことで、その話は以上だ」

「……そうか」

 乙女は胸に手を当て、隣の悠真をじっと見上げ、感慨深く呟いた。

「面白い人間もいるものだ」

「? どうしたの、乙女ちゃん」

「ひみつ」

「あふん可愛い……」

 悠真の思考は慣れない恋心に熱暴走を起こしている。

 そのせいで、生暖かく眺める先輩たちと先生にも気づかない。

「ふふ、ほんっと、天才と何々は紙一重だなあ」

「言ってる場合ですか?」

「わかっているよ」

 和井田が腕を振り上げて宣言する。

「磯女の研究は岸里くんに任せよう!」

「へ? ……ケンキュウ? ミー?」

「イエス。ユー」

「……僕が乙女ちゃんを研究するんですか?」

「やるんだ。この私が命じる」

「うおあえぇ⁉ ど、どどどどどういうことですか和井田准教授⁉」

 あまりの衝撃に熱暴走も吹っ飛び、奇妙な身振り手振りとともにまくしたてる。

「研究は主観を排して行われるべきであり、また恣意的に歪められた観察眼を持つ人物が取り掛かることは避けるべき事態ではないかと‼ つまり僕では途中で何を思って何を発見しようと結論が『乙女ちゃんカワイイ』で終わると思います‼」

「思考が壊れてる中、的確な進言をご苦労」

「で、ですが……薦めて頂いたことは光栄ですが……僕はまだ学部1年で、経験も知識も、論文を書けるほどのラインには達していません……」

「ほう? では、赤嶺くんや紀衣香くんに任せちゃおうか? 乙女ちゃん困るだろうなー♪」

「っ‼」

「……わたしもお前がいい……」

 乙女は頬を染めて悠真を見上げている。写真を撮る幹也が気にならないほどの可愛さに、胸が撃ち抜かれた。

 和井田は悠真が揺らいだ瞬間を見逃さず、一気に畳みかける。

「あれは忘れもしない、4月のオープンラボ。始まるなり我が研究室を訪ねた貴君を、私はずっと有望な学生だと思っていた」

「先生……」

「他に魅力的な教授陣が多くいる中から、よく私を選んでくれたね。1年生でその選択は重いものだったろうに」

 悠真は不意打ちに涙が出そうだった。

「そう。合理を極めたせいで、他人のことを思いやる優しい性格なのに致命的なズレを生じる思考回路。それでいて狂いのない計算能力と柔軟な発想力。困難に立ち向かうイカレた努力量……貴君のどれもこれもが研究者向きと言わざるを得ない!」

「あの……僭越ながら褒められている気がしないんですけども……あの……」

「研究者になるやつなんてネジの吹っ飛んだ変人かニッチな分野に恋する変態ばかりだ。他は叩き上げのエリートか、逆に目を疑うくらいの常識人くらいしかいない」

「常識人になりたいです……!」

 悲痛な声を上げる悠真の肩を優しく叩く。

「貴君には無理だ」

「うわあん‼」

「とにかくだ! 彼女との共同生活を通して磯女という種を学び、論文に仕上げたまえ! 切り離せぬのなら恋心を絡めても構わない! 色んな意味で表に出せない論文になるが、私は全力で評価する。もし研究してくれるのなら将来に亘っての絶対的なサポートも約束しよう!」

「うっうっ……」

「いいかね?」

「はい……よろしくお願いします……」

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