第2話

「頼んだら私のこと食べてくれないかしら……」

 紀衣香の呟きで、尊敬する先輩の嗜好の奇天烈さが刺さって痛い。

 怪しい呟きを聞き取った磯女はジロリと紀衣香をにらむ。

「ふん。……食べられたい、か」

「なあに?」

「栄養が偏っている」

「っ、なん、ですって……⁉」

「わたしに血を吸われたいのならば野菜を食べろ。肉ばかりで淀んだ血など飲む気にならん」

「が、頑張る! 私、健康になる!」

「妙なことを決意するなよ……いや、野菜食べさせるには頑張ってくれた方が……?」

 《紀衣香の世話係》の称号を認める幹也が何やら苦悶している。

 長身で端正な容姿の彼が女性と付き合えないのは、幼馴染の紀衣香といつも行動しているせいであったりするのだが、それを指摘する親切な人物はいない。

 和井田は二人をニヤニヤと眺めながら、自身の背にひっしとしがみつく羽菜をおんぶしたままで磯女に会釈した。近づくのは背中の羽菜への嫌がらせも兼ねているのだろう。

「初めまして、お嬢さん」

「その呼び名をやめろ人の子。わたしはお前より年上なのだぞ」

「失礼。なんとお呼びすれば良いかな?」

「磯辺乙女」

 少女は胸を張って名乗りを上げた。

「お前は悠真の師と聞く。気軽に乙女と呼ぶがいいぞ」

「ほう……磯辺の乙女とは。明快にして音の並び良しな名前だね」

「当然だ。悠真が名付けてくれたのだから!」

「おお?」

「あの……もしかして、安直に聞こえますか?」

 和井田の反応に不安を覚え、悠真は慌てて感想を問う。

 すぐに彼女は首を横に振った。

「いいや? 素敵だと思うよ。シンプルに名付けることは、いっそ奇を衒うよりも難しい」

「……そうでしょうか」

「そうだとも」

「よ、良かったです……!」

 強く頷いてもらえて安堵する。

「私のペットなんてスナギモだしね。奇を衒い過ぎたと今では思う」

「ペットってまさか鳥類じゃないですよね?」

「非常食なのやもしれん」

 冷静にコメントした乙女は、和井田の背後から窺う羽菜を見やる。

「不躾に見るな。腹立たしいぞ」

「っ……」

 背から降りて着地する身のこなしが猫のようだ。

「……本当に妖怪さん?」

「お前たちがそう呼んでいるだけだ。私は私であり、いまは磯部乙女という名を持つ存在」

「乙女ちゃん。……握手してください」

「良かろう」

「おててスベスベ。意外と体温あるんだね」

「これでも生きておるからな。お前もなかなかに手触り好ましいぞ」

 ホラーの苦手な羽菜と、ある意味ホラーそのものである乙女の邂逅をはらはらと見守っていると、二人は意外にも和やかに握手を終えた。

「他のメンツとの挨拶は要る?」

「ふむ。気の利いた提案はありがたいが、それはまたの機会に」

 彼女は悠真を見て微笑む。

「悠真がいているでな」

「い、今の流し目、ドキドキした」

「……んふん……」

 可憐にして妖艶な彼女と触れ合いたい衝動を抑えつつ、本題を切り出す、

「和井田先生にお願いがあります」

「なんだね?」

「デザイン学の課題である異文化交流のレポート……その条件を彼女で満たすことはできませんか?」

「ほーう?」

 リアルに即した自然科学から、デジタルな情報工学まで幅広い科学を扱うこの大学では、各種分野の融合を目的としてデザインについて学ぶ講義が存在する。

 他人を慮ってこそデザインであるという題目を掲げ、ゴールデンウィークをまたいでのレポートのテーマは、異文化交流であった。

「毎年毎年、観光客にインタビューをするあれだね。しかし、レポートは昨日の23:59までだったはずだがねえ?」

 和井田はデザイン学の担当教員の一人だ。

 悠真は反則とは知りつつも、1年生唯一の研究生見習いとして直談判に来たのだ。

「承知の上です。僕は連休を利用して指定された観光地に向かい、レポートの要件を満たすつもりでしたが……怪談でお話しした事態になり、動けなくなってしまいました」

「……。あ、吸血ダメージは受けてたんだね? 平然と話すから勘違いしていたよ」

「彼女の恐怖と美しさを描写したかったので冷静を心がけました」

「バカと天才は紙一重を体現するのやめてくれたまえ。……まあ、それはそれとして『妖怪に襲われました』でレポートの期限を延ばせるかとなれば別だね」

「はい……指定の観光地では大学側から観光客に協力を募ってその場に留まっていただいています。連休を過ぎては自力で協力者を確保することも難しく……」

「だから、究極の異文化を連れて直談判に来た……と」

 くつくつと笑う。

「……彼はさも自分でインタビューをするかのように言うが、していることは単位を受け取る生贄に貴君を差し出しているんだよ? この私がこんなにも楽しい状況の主導権を渡すわけもなく、インタビューは私がするつもりなのだからね」

 驚く悠真を手で制し、乙女は和井田と対峙した。

「こちらも承知の上だ。私のせいで悠真の行く道が遮られようとしているのならば、よく知らん人間の質問に答えるのも気にせんぞ」

 自他ともに常識外れであることを認める准教授は、胸を張る少女に畳みかける。

「ここまででわかるように、無神経な質問や対応で不快にさせない保証はない。貴君がイラついた瞬間に吸血死を迎えちゃうのは回避したいんだが」

「悠真の尊敬する師を吸いつくし殺すなどせぬよ」

「いえーいやったぜセクハラするぜ」

「ダメです!」

 乙女を抱き寄せる悠真にニヤニヤ笑いを向ける。

「ひひひ、しないから安心したまえ。……紀衣香くん?」

「はーい?」

 幹也に頼んで何やら撮影してもらっていた紀衣香が、上機嫌にこちらを向く。

「せっかくの貴君の知識が輝くチャンスを逃してはいけない。磯女について熱く語ってから、落ち着いて着席したまえ」

「でも、悠真くんが語ったのと同じ部分がありますよ? ネタかぶりは避けるべきでは……」

「改めて語られるのも新たな発見があるものさ。ついでに。おそらく砂島くんは磯女の概形を知らないだろう? 岸里くんの語りが主観なら、貴君は客観にて語りたまえ」

「そういうことなら喜んで!」

 威勢の良い返事に、羽菜がついにヘッドフォンで耳を塞いだ。

 紀衣香はホワイトボードまで走ってきて、九州の全体図を描いてから長机へ向き直る。

「準備万端です」

「よろしい。5分だ。……スタート」

 磯女。

 主に沿岸部付近での目撃譚を持ち、日本は九州地方を中心に伝わる妖怪である。

 地域によっての差異はあれど、大きな共通点は、濡れたような儚い姿に長い黒髪をたたえていることである。他の要素――例えば下半身は、半透明であるとも鱗を持っているとも、人間と同じであるとも伝えられ、話ごとで磯女の肉体描写は異なっている。

 海を見つめる妖しい美女。幻想的な光景に釣られて彼女に近づいた者は、その長い髪に絡めとられ、血を吸いつくされて死んでしまうという――

「……と、まあ。悠真くんの語りから思いつくのはこのパターンね」

 ホワイトボード前に立つ紀衣香が、青フレームの眼鏡をくいっとあげる。

「磯女は漁師さんや船乗りさんに関わるお話がメイン。『魚をくれ』と呼びかけられて、魚を分けてやった漁師さんが殺されてしまったり。磯女が夜の船に乗り込んで、眠る船員を殺してしまったり……色んなバリエがあるの」

 指示棒でビシバシと九州各地を叩いていくのを見るに、彼女は本気で妖怪譚が好きなようだと悠真は感じた。まさか地域まで覚えているとは。

「羽菜ちゃん先輩大丈夫?」

「……!」

「赤嶺くんもいい加減に背中から降りてくれたまえよ。33歳にもなると腰に負担をかけたくないお年頃だというに」

 無言で首を振る羽菜と、その彼女をおんぶしたままであやす和井田。

 この女性三人は仲が良いのか悪いのか。悠真には読み切れない関係性だった。

「まあどうでもいいわね」

「流すんかい」

 幹也は律義なツッコミを幼馴染に入れるが、肝心の彼女はまともに聞いていない。

「羽菜ちゃん先輩はすぐ回復するから、無問題よ」

 そらで書いた九州地方の絵を消しつつ、他ならぬ磯女本人である少女に問いかける。

「ほかの地方にも似た伝承はあるんだけど……今回はここで止めておくね。それでそれで。ご本人としてはどう? 自分や同族さんが怪談に語られているのは!」

「うむ、興味深い」

 乙女は紀衣香に静かな拍手を送る。

「かつてこの地の海に居た同族を語られるのも新鮮であるし、他の海にいた同族のふるまいを知るのもなかなかに趣深く、納得のいくものであった」

「わー。クール美少女!」

「くーる? とやらが何かは知らんが、自分が人間たちに何と思われているのかは理解した。感謝しよう、超絶不健康娘」

「そんなっ……!」

「せ、先輩。乙女ちゃんがすみません!」

「感謝されちゃった! 憧れの妖怪美少女とまた会話しちゃったどうしよう今日眠れないかもしれない‼」

「えっと……」

 空振りに終わった手を持て余している間にも、紀衣香ははしゃいで跳ね回っている。

「幹也、今のシーン録画してくれた⁉」

「してないし先に言って。あと夜はちゃんと寝ろ」

 悠真は「先に言ってたら録音したんですか」とか「早とちりしてすみません」だとか言おうとしたが、幼馴染コンビには話が通じなさそうなので諦めた。

 脱力する悠真に、腕の中の乙女が微笑みを浮かべて言う。

「お前のセンパイたちとやら、なかなかになかなかな面々だ」

「なんだか、ごめんね……?」

「構わぬ」

 彼女は胸を張って、膝裏近くまである白いパーカーの裾を翻した。

「嫁入りをするのならば、夫が世話になっている相手に挨拶をするのは基本であるゆえ!」

「っ」

 慌てて言い聞かせようとしたが、すでに和井田の手が悠真の肩にかかっていた。

「彼女、お嫁さんになったの? なんとも隅に置けないなあ岸里くん!」

「うわああ、捕まった‼」

 若干29歳で准教授の肩書を得たことで有名な和井田は、カップルが成立した直後の男子を捕まえて質問攻めにすることでも有名だった。

「こんな可愛い子とイチャラブしちゃって!」

「違います! まだお嫁さんどころか恋人でもなくて……!」

「お? こんなにまで愛してもらっておいて恋人ですらもないとは……なんてひどい話だ」

「ちちち、違うんです。僕はゆっくりと丁寧にお互いを知り合いながら仲を深めて恋をしていきたいんです! もっと彼女の人となりを知りたい。好きな食べ物も知りたいですし、もし良ければ可愛い服も着てみてほしいなと思ってるんです‼」

 やりとりを聞く乙女は白い頬を薄紅に染めてソワソワしていた。

「……悠真。待っている……」

「ぐはあ可愛い……!」

「早速めんどくせーなこのバカップル」

 楽しそうに笑う和井田の背から、たむっと軽やかな着地音。

 羽菜は伸ばした指示棒で悠真と磯女を丸ごと椅子に押しやり、和井田の首をつついて笑いをやめさせる。何やら言い争っていた幹也と紀衣香も落ち着かせて椅子に押し込んだ。

「……結局、こういうの私がやるんだにゃあ……」

「よっ、羽菜ちゃん名司会者ー」

「うるせーぞサイコパス」

 溜息を吐き終えて、部屋の端に積まれた椅子と折り畳みテーブルの方へ砂島を手招きする。

「砂島。セッティング手伝って」

「力仕事ですし、俺やりますよ。先輩座っててください」

「すまんね」

「いえいえ。四人掛けにしときゃいいですよね?」

「あ、僕も手伝います!」

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