引き出しの中の人形②

 この実家の近所には凛奈という娘が住んでいた。色白で、長い漆黒しっこくの髪を持つ、どこだかはかなげな、幸薄さちうすそうな印象のある、繊細せんさいな美しさを持つ少女。俺は彼女と幼馴染おさななじみだった。頻繁ひんぱんに互いの家に行ったり、親に頼んで一緒に遊園地や映画に連れて行って貰ったり、極めつけは旅行にまで行ったり。仲良く遊び、楽しい時を過ごしていた。

 凛奈は難病なんびょうを抱えていた。再生不良性貧血さいせいふりょうせいひんけつという難病で、毎週輸血ゆけつを受けなければならなかった。俺は当初、その事を知らず、小学四年生の頃に偶然、凛奈の両親の話を盗み聞きした事で分かり、本人に本当かと聞いたら、「うん」と、暗い表情でうつむきながら返事をしていた。十八歳まで生きられれば奇跡、という言葉すら聞いた。本人も、その両親も、難病の事を隠蔽いんぺいしていたのだ。恐らく、俺と凛奈の関係に波風なみかぜを立たせたくなかったからだろう。

 その話を聞いて、ショックの余り俺は無気力に陥った。まさか、凛奈が難病で、長く生きられないと、信じたくなかったし、受け入れられなかった。一時期、不登校にすらなった。そんな中、凛奈は俺の元を訪ねた。

「涼平君、元気出して! つまらない物だけど、これ、受け取って。ほんの少しの、私の気持ち……」

 その時に貰ったのが、そう、この人形だった。量産型の、安物の、別に好きでも無いアニメのキャラクターの人形だったけれども、たまらなく嬉しかった。

「ありがとう、凛奈ちゃん。生きる希望が湧いてきた」

 俺は目一杯の感謝を込め、凛奈に言った。

「私は奇跡を信じて闘っているから、だから私を信じて! もし奇跡が起きたら……涼平君と…結婚したい……な」

「うん、信じる。だから……結婚できる歳になったら…結婚しようね」

 でも……でも……奇跡は起きなかった。凛奈が俺の元を訪ねた翌日、凛奈は入院した。どうやら容態は想像以上に悪かったようで、急性骨髄性白血病きゅうせいこつずいせいはっけつびょうに移行してしまったらしい。ようやく生きる希望を見出せたかと思ったのも束の間、俺は絶望のどん底へと叩き落とされ、食べ物がのどを通らず、その場で吐き出してしまう程の状態になった。ゲームも漫画も、何も出来ず、一週間くらい学校にも行かず、ただ寝込んでいた。もう、何もかも、どんな事にも気力が出なくなってしまったのだ。

 それでも、幾日いくにちか経った後、残されたわずかな気力をしぼり、凛奈の見舞いへと行った。その日にはもう、凛奈は危篤きとくだった。身体中にチューブが繋がれ、もうこれが無いとすぐに死ぬのだと、素人目にも分かった。シュッと綺麗きれいに整っていた顔の輪郭りんかくは、ガリガリにせこけくぼんでおり、目からは光が失われ、うつろに天井を見上げていた。痛々しすぎて、見ているだけで大粒の涙があふれてきた。

「バカ、凛奈っ! 俺に元気を出して欲しくて、嘘言ってただろ!」

「ご…め…ん……だっ…て……」

 凛奈の声はかすれていて、呂律ろれつが回らない様子だった。相当無理をして、声を出しているのが分かった。俺は凛奈の手を握り、その温もりを確かめた。体温は低下し、冷たくなっていた。でも、どこだか人としての温かさを感じる冷たさだった。

「ありがとう、凛奈。あの人形……大事にするからね」

 この『大事にする』と言うのが、あの頃の俺にとっては『丁重ていちょうに扱う』では無く、『思う存分に人形で遊ぶ』だった為、残念ながら、ボロボロにしてしまった。凛奈にとってこれが良かったのか、疑問はあるけれども、この人形で遊んだ思い出は本物だった。

 俺は餞別として、凛奈の口唇こうしんに口付けをした。そうしたら、凛奈は安らかな顔をして「ありが……と…う」と擦れた声で言い、静かに息を引き取った。俺は凛奈の臨終りんじゅうを見届けたのだ。俺はその場でひざから崩れ、涙が枯れるかと思う程泣いた。俺はあれ以来、一度も泣いていないのは、あの時一生分の涙を使い切ったからだろう。人生で最も辛く、悲しかった瞬間。あんなに胸が張り裂ける思いをしたのは、後にも先にも、あの時だけだろう。

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