第3話
おい、デュエルしろよ。
端的に言えば、青識先生の表現の自由はこれである。
青識先生はデュエリストである。
しかし、それは表現の自由の一部ではないのか。
いや、表現の自由とはもっと抽象的な概念であるはずではないのか。
そこのところの個人的な見解を述べていこうと思う。
表現の自由について。
まず、そもそも表現の自由とは何かを定義しなければならない。
そして、なぜ表現の自由が必要なのかについて語る。
これを前提にツイッターの表現の自由との違いについて述べる。
表現の自由とは何か。
結論から述べよう。
ミルの自由論で最初に述べられているように、市民的な自由、社会的な自由についてである。
逆にいえば、個人に対して社会が正当に行使できる権力の性質、およびその限界についてだ。
ただし、これだけでは抽象的すぎてわかりづらい。
そこで表現の自由という言葉を少し吟味することにする。
表現の自由とは表現と自由に分けられる言葉である。
表現とは何か。
辞書によると以下の意味である。
”心理的、感情的、精神的などの内面的なものを、外面的、感性的形象として客観化すること。また、その客観的形象としての、表情・身振り・言語・記号・造形物など。”
参照:https://kotobank.jp/word/表現-121236
まず、上記の引用からわかる重要な点は2つである。
1つは、精神の自由と密接な関係があることで、もう1つは、客観視できることだ。
これらの点は後に取り上げる。
次に自由とは何か。
同様に辞書から引用すると以下のとおりだ。
”一般的には,心のままであること,あるいは外的束縛や強制がないことを意味する。哲学上は,人間が行為する際に一つの対象を必然的に追求するのではなく,それ以外の対象をも選びうる能力をいう。この場合,自由は選択する意志の自由であり,意志とはその本質上「自由意志」 liberum arbitriumにほかならない。”
参照:https://kotobank.jp/word/自由-76701
ミルが言うところの自由とは自由意志ではなく一般的な意味の自由である。
これらの事から表現の自由は、個人の内面を客観的形象にすることに関する市民的自由のことである。
また、表現の自由についても辞書から引用する。
”好きなときに,好きな場所で,好きな方法で,好きなことが言えるという,思想,主張,事実などを対外的に表明する権利。政府が発表内容を事前にチェックして意にそわない場合に公表を止める,検閲からの自由である(→事前抑制)。今日においては,情報の収集・伝達・頒布という,コミュニケーションの全過程の自由がすべて保障されることが求められる。”
参照:https://kotobank.jp/word/表現の自由-121245
上記で引用した”好きなときに,好きな場所で,好きな方法で,好きなことが言えるという,思想,主張,事実などを対外的に表明する権利。”は重要な点である。
なぜならば、表現の自由の問題はつまるところ表現規制はどこまで許されるのかという話にならざるをえないからだ。
さて、表現の自由の定義についてはここまでにして表現の自由がなぜ必要なのかについて語ることにしよう。
表現の自由がなぜ必要なのか。
これは2つの立場が考えられる。
1つは表現の自由自体が重要だという立場。
もう1つは表現の自由が社会の発展に必要不可欠であるとの立場だ。
個人と社会、表現の自由が必要か必要ないか、の4つのマトリックスで簡単に考える。
まずは個人と社会にも表現の自由が必要ない場合について。
これはあらゆる問題に対して正解が予め判明しているのならば表現の自由は必要ない。
少なくとも功利主義上の問題はないだろう。
例えば、神やその代弁者が書いた指南書があればそれに従うだけで良い。
逆に言えば、その指南書に従わないことが倫理違反になるわけだ。
次に、個人の表現の自由は必要ないが社会にとって表現の自由が必要な場合だ。
これは社会の発展に必要だと認められた機関にのみ表現の自由を認めることだ。
要するに、場所や時間、そして表現の自由が認められる人間を限定することに他ならない。
また、その社会が決定した事項に対してその構成員は逆らうことは許されない。
さて、個人には表現の自由が必要だが社会には表現の自由が必要ない場合だ。
この場合、あらゆる種類の表現規制は認められない。
社会にとって表現の自由は必要ないのだから、国家のような機関の存在は許されない。
社会契約論で言うところの自然状態に近い。
最後に、個人と社会にとって表現の自由が必要な場合だ。
個人と社会にも表現の自由が認められる社会とは、逆説的に個人と社会との衝動を調整する必要がある。
ここからは実現不可能な社会モデルを消すことにする。
まず、個人と社会に表現の自由が認められないモデルだ。
いくら正解が提出されようともその解釈をしなければならないからだ。
故に誰かしらの表現の自由を認めなければならない。
次に、個人にしか表現の自由が認められないモデルだ。
人が集まれば個人間の紛争を調整する機関が必要になることは改めて説明する必要もないだろう。
そして、社会に対してのみ表現の自由が認められるモデルだ。
これは一見実現可能な社会に思える。
社会問題にのみ表現の自由が認められれば、個人と社会の紛争に対するコストは最小化されるだろう。
しかし、監視コストが膨大になる。
最後に、個人と社会に表現の自由が認められるモデルだ。
前途したモデルとは逆に監視コストは少なくなるが、個人と社会、あるいは個人間や社会同士の紛争は激化するだろう。
極論すればあらゆるモデルは実現できない。
実現可能なのは、個人や社会にも表現の自由をある程度制限しつつも認められる社会だけだ。
故に、表現規制を唱えたからといって必ずしも表現の自由の否定にはつながらない。
また、誰かしらの表現の自由が一切認められない社会というのも存在しないのだ。
この章で述べた所を前提にすれば、ツイッターの表現の自由を擁護しているような主張には違和感がある。
例えば、議論は1つの手段にすぎない。
それをことさら強調する意味もないだろう。
表現規制に反対する。
単純に考えれば正しい。
しかし、規制することも含めて市民的自由の範囲内かどうかは難しい問題だ。
簡単な問題はこの世に存在しない。
だかろこそ、表現の自由が必要ではなかったのか。
規定文字数は達成したので切り上げる。
ここまで表現の自由について少し語ったにすぎない。
自由意思と表現の自由の問題には触れなかった。
また、利己主義と利他主義の問題もある。
イノベーションについては無視してはならないが、語る気力がない。
最後に、滑り坂論法に触れて終わりにしよう。
「本を焼く者は人も焼くようになる。」
人を焼くような者は本だって焼くのだ。
逆ではない。
普通に考えればだが。
このような滑り坂論法を理論化するならば、S字曲線仮説が有名だろう。
S字曲線仮説は複数の均衡点に収束する。
どの均衡に収束するかは社会的な影響力で決まる。
例えば、多数派が男尊女卑を支持するのならば、男尊女卑的な社会に収束していくわけだ。
もちろんこれだけではない。
影響力の高い人間などにより、社会の構成員の選考に影響し他の均衡点に収束していく場合も考えられる。
この理論ではわずかな影響でも均衡が変わる場合もある。
しかし、それは仕方がないと割り切るべきだとも思える。
逆に希望とも考えられる。
啓蒙する事は無駄ではない、と言えるからだ。
自分が気に入らない滑り坂だけを容認する事は予め答えを決めているにすぎないわけだ。
では、その答えの正しさをどうやって決められるのか。
それこそ表現の自由の必要性である。
だからこそ滑り坂論法を持ち出す表現の自由擁護者には疑問を感じずにはいられない。
それを滑り坂とは思っていないのかもしれないが。
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