八月七日
学校が夏休みに入ってからというもの、梓くんはほぼ毎日のようにこの民宿を訪れている。
土地柄、同年代の友人が近所にいない彼としては、昼間家にいても退屈なのだろう。朝から宿題を持ってやってきて、お昼は家に帰り家族の用意したご飯を食べ、午後は学校のプールから帰ってきてから、今度は手ぶらでやってきて好きなことをしながら過ごしている。
たまに気が向くと、私やお客さんと一緒に畑へ出たり川へ行ったりして、来週は、早朝から一緒にカブトムシやクワガタを取りに行く約束までしている。
そして今日は、部活のない真秀ちゃんも一緒にやって来た。
二人ともご両親が共働きなうえ、梓くんの家は町の外から引っ越してきた家族であり、真秀ちゃんの家はおじいさんもおばあさんも早くに亡くなっているため、日中は家に一人きりになってしまう。
長期休暇の際は特に、いつでもこの民宿を使ってもらうようそれぞれのご両親へ私から持ち掛けて以来、二人は遠慮なくここへ来るようになった。
「由姉、何か手伝うことある?」
午前中から梓くんとずっとゲームをしていて流石に飽きたのか、真秀ちゃんが台所へやってきてそう尋ねてきた。
「そうね、それじゃあ」
私は鍋をかけたコンロの火を止め、梓くんのいる居間まで行き、押し入れから一つのビニール袋を取り出した。
「これ、作っておいてもらえる?」
真秀ちゃんは私からビニール袋を受け取ると、がさがさと中身を取り出した。
先ほどまで一人モードでゲームをしていた梓くんも、興味があるのかゲームを一時中断して横からのぞき込む。
「あっ、僕も書く!」
中身を見た彼は顔を上げてぱっと笑うと、ペン立てからマジックを二本とはさみを取って、駆け戻ってきた。
「こら、梓!はさみ持ったまま走るんじゃない」
真秀ちゃんは梓くんを叱りながら、袋の中身を机の上へ広げる。
中身は、可愛らしいイラストが入った七夕セットだった。
押し入れの奥からさらに、色とりどりの短冊と折り紙、こよりの束を取り出して、真秀ちゃんに手渡す。
「私は今から古澤のおばあちゃんの家に行ってくるから、留守をお願いね。今日はお客さんも先生だけだし、特に問題はないと思うけど」
真秀ちゃんは「はーい」と一言返事をすると、梓くんとわいわい言いながら、さっそく七夕飾りを作りにかかった。
原付でしばらく走り、古澤さんの家の前に駐車する。
玄関の網戸を開け、「ごめんください」と声をかける。
古澤さんの家は、昔ながらの家屋だ。玄関には三和土が設けられ、中はひんやりとしている。廊下の奥は昼間でも薄暗く、古い家特有の匂いが漂っている。
しばらくすると、家の奥からぱたぱたという足音と共に、老年の女性が現れた。
「あら、由乃ちゃん、わざわざ来てくれたの?」
古澤のおばあちゃんは今年で八十九歳を迎えるとは思えない程、元気な人だ。玄関まで来るとその場で膝をつき、頭に巻いていた手ぬぐいを外した。
「えぇ、今年も竹を少しいただきます。これはほんの気持ちですけど、皆さんで召し上がってください」
そう言いながら、持ってきた紙袋を差し出す。
「まぁまぁ、こんなのいいのに。いつもありがとうねぇ。竹は好きなのを持っていきなさいね。あ、そういえば由乃ちゃんちはオクラはあるかね」
古澤のおばあちゃんは、脈絡もなく話題を変える。そして、私の返答を待たずに立ち上がった。
「今年は五株作ったんだけどねぇ、うちだけじゃ食べきれないのよ。貰っていってくれる?」
「わぁ、ありがとうございます。こちらこそ、いつもすみません」
こちらへ来て最初の内こそ私も遠慮していたが、ここでは貰えるものは素直に受け取っておくのが上手い世渡りの仕方だと学んだ。今では梓くんにも色々なものを持って帰らせるあたり、私もこちらにだいぶ馴染んだのかもしれない。
そんなことを思っていると、古澤のおばあちゃんが再び家の奥から現れた。戻ってきたおばあちゃんの手には、明らかにオクラ以外のものも入っているビニール袋が握られていた。袋の底は丸みを帯びて、重さがあるのか、持ちての部分はピンと張っている。
「これもね、久しぶりに作ってみたんだけど結構うまくできたから、よかったら食べてね」
そういって袋の中身を見せてくれる。
「こんなものまで、いいんですか?私も久しぶりに食べます!本当にたくさんありがとうございます」
お礼を言って袋を受け取り、その場をあとにした。
家に帰ると、梓くんと真秀ちゃんが居間で七夕セットの厚紙に描かれた、イラストの織姫と彦星を切り抜いている最中だった。
「ただいま、どこまで進んだ?」
「おかえり、飾りはもうだいたい作り終わったよ。今から短冊を書くところだけど、由姉も書くでしょう?」
真秀ちゃんが、顔だけ上げて答える。
「私は、竹を取ってきてから書くわ」
古澤のおばあちゃんから貰ったビニールを、ひとまず一緒くたに冷蔵庫へ入れて、再び出かける準備をする。
「今から行くの?私もついていこうか?」
「そんなに大きいのを取ってくるわけじゃないから、一人で大丈夫よ。飾りと短冊を、玄関に持って行っておいてくれる?」
「はーい」
倉庫から小さなのこぎりを持って、今度は軽トラに乗って竹林へ向かう。
一人で来たので、それほど大きなものは持ち運べない。けれど、せっかく二人に手伝ってもらったのだから、あまり小さなものでは格好がつかない。
竹林の前に仁王立ちすると、入り口からそれほど離れていない場所の竹をざっと見渡す。身長の倍ほどある、それほど太くない竹に目星をつけ、根元から切り倒す。
引きずりながら軽トラへ運ぶが、竹は思ったよりも重く、汗が筋になって額から首筋へと流れる。やはり真秀ちゃんに来てもらえばよかったかもしれない。
家へ着くと、今度は先に真秀ちゃんを呼んで、下すのを手伝ってもらう。
玄関の横へ竹笹を固定すると、さっそく梓くんが飾りつけを始める。
「ふう、ありがとう。最初から手伝ってもらえばよかった。一人でもいけると思ったんだけどな」
腰に手を当てて、ぐーっと伸びをした。
「由姉も、もう若くないってことだよ」
腰をトントンと叩く私を見て、真秀ちゃんはふふんと鼻息を鳴らしながら「困ったときは私を頼りなさい」と胸を張った。
「はいはい、じゃあ若くない私は中で短冊を書いてくるから、飾りつけをお願いね」
家に入り短冊を書いていると、梓くんから縁側越しに声をかけられた。
「由姉、脚立どこ?上の方に飾りたいんだけど、届かないんだよ」
彼は待ちきれないようにその場で足踏みし、私の返答を急かす。まち
「確か、倉庫に入って右の方に置いてあったと思うよ。熊手とかの置いてあるところの奥。危なくないようにね」
梓くんは「ありがとう」と言って倉庫の方へ行こうとして、足を止めてすぐに戻ってきた。そしてその場に靴を脱ぎ捨てると、縁側から家に上がって私の隣に座った。
「由姉はなんて書いたの?」
梓くんは横から手を伸ばし、脇に置いてあった短冊の一枚を手にした。短冊には、『交通安全』と書かれており、そのほかの短冊には『家内安全』『商売繁盛』など、お守りにありがちな言葉が並んでいる。
「えー、つまんない……」
梓くんはあからさまにがっかりとした顔で、短冊を握りしめていた。
「いいのいいの、神様にお願いしてまで叶えたい願いも、もうこのくらいしかないんだから」
残りの短冊も梓くんに渡し、飾りつけは二人に任せることにする。
しばらくすると、外から二人が戻ってきた。
「あっつー。全然動いてないのに、汗かいたー。まだちょっと暑いね」
真秀ちゃんは襟元をぱたぱたと仰いで、扇風機の電源を入れた。梓くんは、手を洗うなりテレビの電源を入れ、早速ゲームの続きに熱中している。
「ありがとう。今年は二人が手伝ってくれたおかげで、思っていたよりずっと早く終わっちゃった。古澤のおばあちゃんから頂いたメロンを切ったから、よかったら食べていってね」
古澤のおばあちゃんから渡された袋には、オクラと一緒に小ぶりなメロンが二つ入っていた。
四角く切り分けたメロンを、涼し気な透明のガラスの器に入れ、小さな銀のフォークと一緒に今の机に置く。
「えー!いいの!?」
梓くんはテーブルに両手をつけ、ぴょんぴょんと跳ねている。
「梓、行儀悪いよ。先にテレビとゲーム消してきな」
真秀ちゃんは梓くんをたしなめながら、コップに麦茶を注いでいる。
二人がメロンを食べている間に、私は七夕のお供え物を準備する。土間から大きな鱈の一夜干しを持ってきて、コップに水を注ぐ。煮物を器によそい、銀のお盆の上にすべてを乗せた。
「それ何?」
食べ終わった器を流しへ持ってきた真秀ちゃんに、背後から声をかけられた。
「うーん、たぶん織姫様と彦星様へのお供え物かな。昔からこうするの」
続けて「この煮物が嫌いでしょうがなかったのよね」と苦笑する。
七夕のたびに夕食にこの煮物が出てくるのだが、毎回鼻を摘んで可能な限り咀嚼せずに飲み込めるよう、かなり苦心した思い出がある。
「今は平気なの?」
真秀ちゃんは銀盆から私の顔へ視線を移し、続けて尋ねる。
「うーん、今でもあまり好きではないかな……、食べられないことはないけどね」
味は薄く、昆布の生臭さが消え切らず、その出汁を茄子と油揚げが吸っていて……、とにかく、七夕以外では作ったことがなかった。
「でも作るんだ?」
「まあ、決まり事だからね」
真秀ちゃんの質問に、また苦笑しながら答える。
「ふーん、へんなの」
実をいえば、なぜそうするのか分かっていない風習がいくつかある。祖母から受け継いだ年中行事や風習の多くは、その理由についても教わっていたが、教えてもらっていないものもあるのだ。あるいは、祖母自身も分からないのかもしれない。
こうして受け継がれていくうちに、失ってしまったものがいくつあるだろう。それを思うと、なぜそうするのかは分からなくても、やらなくてもいいものかもしれなくても、たとえそれが自分の嫌いな料理だったとしても、今ある風習を自分で途絶えさせるのはあまりに忍びない気がした。
「少し食べてもいい?」
意外なことに、真秀ちゃんがそう言った。
「いいけど……、少なくともうちの子どもたちはみんな嫌いだったけど、大丈夫?」
その言葉に少しひるんだ様子だったが、そこまで言う料理がどんなものなのか気になったのか、器を覗き込みながらうなずいた。
鍋からなす、油揚げ、昆布を小皿に少しずつ取ってあげると、まずは油揚げをおそるおそる口へ運ぶ。しばらく咀嚼し、飲み込むと、無言でなすに箸をつける。それも飲み込むと次は昆布、そして小皿に残った煮汁まで飲んで、ようやく口を開いた。
「なんだ、結構美味しいよ」
真秀ちゃんは拍子抜けした様子でそう言った。
「好き嫌いのない由姉が食べられなかったなんて、どれだけまずいかと思ったけど、私はこれ結構好きだな」
真秀ちゃんは鍋から油揚げをひょいっとつまみ上げて、口に放り込んだ。
それを見て、思わず笑ってしまった。
用意したお供え物を、出窓へ置く。
出窓から外を覗くと、そこには雲一つない空が広がっていた。
「めっちゃ晴れたね。これなら織姫と彦星も会えそう」
横から、真秀ちゃんが顔を覗かせた。
日はすでに山の影に隠れ、昼間のうだるような暑さは収まりつつある。
涼しくなったからか、誰かが外で草を刈っているらしい。川の上を通ってくる風が、家の中を駆け抜けて、刈りたての草の青い香りで部屋を満たす。
庭では、秋の虫が鳴き始めていた。
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