六月二十六日
先ほどまで降っていた雨が上がった。麓を覆っていた靄が山肌を駆け上がり、雲となって、幻想的な景色を作り上げる。昔観たアニメのワンシーンを彷彿とさせるような、梅雨の山の日常だ。
「良かったー。せっかく旅行に来たのに、ずっと雨降りじゃ、なんだか気分もあがらないもんね」
窓の外を見てそう言ったのは、今日から二泊するグループの一人、福田さんだ。
女の子がもう一人、和泉さんという方と、男の子が二人、清水くんと中川くん、カップル二組での宿泊だ。
最初、予約が入ったときは、若者のダブルデートの旅行先として、果たしてこの民宿で満足のいくものを提供できるか、疑問だった。
今日移動中の車内でした話によると、どうやら四人は、大学の旅行サークルで知り合ったらしい。メジャーな観光地よりも、体験系のアクティビティが好きらしく、国内を中心に、そういった旅行先を巡っているとのことだ。
とはいえ、この民宿も世の旅行地の御多分に漏れず、梅雨の時期は、農業体験をはじめとする体験プログラムがままならない。
今日のところは、午後からちょっとした野菜の収穫でもして、明日はとりあえず、民宿と提携している近くの博物館にでも行こうかと思っていたくらい、民宿周りで出来ることが減ってしまう。
「雨が降ると、選べる体験も減ってしまいますからね。ただ、私たち農業に携わる者からしたら、多少は降らないと困るんですけれど」
福田さんの横から外を見ると、西の方はすでに晴れているようで、雲一つない。
今年の冬は雪が少なかったため、夏以降の稔りは、梅雨にどれだけ雨が降るかにかかっている。そうはいっても、やはり降りすぎも困りものではある。
作物は、ひと月晴れが続いても育つが、ひと月雨が降り続ければ腐ると、祖父がよく言っていた。
天気は、常に農家の悩みの種の一つだ。
「このまま晴れそうですし、少し外に出ましょうか。そうだ、午後は桑の実を摘んで、ジャムを作りませんか?」
私の提案に、四人は両手を挙げて賛成してくれた。
早速民宿のバンに乗り込み、車で五分ほどのところにある桑畑へ移動する。
雨上がりということもあって湿度はかなり高いが、気温は涼しいどころか、少し肌寒いくらいだった。これも、山の梅雨の特徴だろう。
葉っぱの上で玉になった雨粒が、緑の色を、より鮮やかに浮き上がらせている。
移動中の車の中で、簡単な注意事項を説明する。黒い実の方が甘く美味しいこと、ジャムにする分は、少し赤みが残っていても問題ないこと、熟した実は潰れやすく、色が服に着くと簡単には落とせないことなどだ。
「それと、皆さんは、虫は平気ですか?」
桑は、野生化した木でも非常に甘い実を結ぶ。それが好きなのは、当然人間だけではない。鳥をはじめとする野生動物や、虫たちにも大人気の木の実なのだ。
女性陣はその話を聞いて顔をしかめていたが、男性陣は虫なら任せろと、クワガタやカブトムシの話で盛り上がっている。
田舎の夏といえば、子供にも人気な甲虫のイメージなのだろうが、今日遭遇するであろう虫たちは、そんなかっこいいものではない。
第一、クワガタやカブトムシを獲るには時期を外しているし、桑の木は甲虫が集まる種類の木ではないのだが、せっかく盛り上がっているようなので、黙っておこう。
親切心百パーセントの考えではないが、水を差してまで訂正するほどのことでもないだろう。
そんな私の胸中などつゆ知らず、二人は、もしも獲れたら虫かごを買って持って帰ろうと、桑畑に着くまで楽し気に話していた、
桑畑は予想通り、葉っぱや草が雨のしずくで濡れ、上も下も水浸しだった。持ってきていた雨具を羽織って長靴に履き替え、さっそく桑の実を摘む。
「よかったら、虫に注意して、出来るだけ真っ黒な実を食べてみてください」
まずはその場で、摘みたての桑の実の味を楽しむ。雨に濡れた実は、日の光を反射して、アメジストのようにきらきらと輝いている。
「あまっ!こんなに甘くなるんですね!」
中川くんが率先して一つつまみ、感嘆の声を上げると、三人もそれに続いて二、三個口へ放り込む。
「ははっ、舌が真っ黒だ」
彼らは、お互いの顔を見合わせて笑っている。
「ここは昔、養蚕が盛んだったんです。養蚕は、農家の貴重な現金収入源だったので。だから、その餌になる桑畑が、あちこちにあるんですよ」
昔は養蚕で確保していた現金収入源を、私は今宿泊業で得ている。あとは、一日中畑仕事をしていれば、民宿で提供する分のお米と野菜は賄える。現金は、生鮮食品や民宿の維持修繕費などに充てている。実を言えば毎月カツカツなのだが、特別贅沢さえしなければ、立ち行かなくなるようなこともない。
「自分たちの生計を立ててくれる蚕のことは『お蚕様』なんて呼んでいましたし、湿気を嫌うので、家で育てていた頃は、南向きの一番いい部屋をあてがったそうですよ。繭からとり出す際に死んでしまう蛹も、無駄にならないよう、佃煮にして食べます。まあ、ここは内陸なので、貴重なタンパク源という理由もありますが」
こういった歴史を学ぶために、小学校では今でも蚕を育てる学年がある。蚕を育てているクラスでは授業中も、蚕が桑を食べる、雨が降るのに似た音が、教室中に響く。
「虫に注意してくださいって言った矢先に、虫を食べる話なんて……」
福田さんが、苦々しくつぶやいた。
女の子たちは、まさに苦虫を噛み潰したような、みるからに嫌そうな顔をしている。
「ちなみに、蚕の佃煮ってどんな味なんですか?」
対する男の子たちは、少なからず興味があるようだ。中川くんが、窺うように聞いてくる。
「うーん、味ですか……。まあ佃煮なので、醤油と砂糖の味ですね。強いて言うなら、ちょっとえぐみがあるかな。あと、結構ぱさぱさしてます」
蚕は、繭から蛹を取り出す際に、お湯で十分に茹でる。その上さらに、佃煮にするときにまた火を通すため、幼虫系の昆虫食にあるようなクリーミーさは、全くと言っていいほど感じられない。
「じゃあ、有名な蜂の子は?」
彼らは、どことなく楽しそうだ。それは昆虫食に対する関心というより、虫を食べたことのある人間への好奇心かもしれないが。
「蜂の子は、私も昔食べたきりなので、あまり覚えてないですね……。ただ、私は幼虫より蛹の方が好きでした。サクッとしていて」
それを聞いて、女の子たちはきゃーっと、男の子たちはうわーっと、悲鳴にも近い声をあげる。
初めて見る生き物を見たような、好奇の視線だ。
「そもそも、有名な蜂の子は地バチといって、土の中に巣を作る種類です。その辺に巣をかける蜂とは違う種類で、このあたりの人間でもめったに食べないだろうし、それ故にスーパーで売ってる瓶詰なんかも、結構いいお値段します。身近に食べるのは、蚕やイナゴですよ」
「そもそもスーパーで虫を売ってる状況が、身近じゃないです!」
中川君が、否定の声をあげる。
そういえば、家族といたときは、食卓に上がるものを自分で買う機会も少なかったので気付かなかったが、都会のスーパーでは見かけたことがなかった気がする。
「そんなに普通に売ってるなら、俺、帰るときに買ってみようかな……」
話を聞いていた清水くんが、ぼそりとつぶやいた。
「マジ!?やめとけって!俺は絶対食わないからな!」
中川君が、ものすごい勢いで後ろを振り返り、全力で制止にかかる。
「わ、私も、一回だけ、一匹くらいなら、食べてみたいかも……」
清水くんの彼女の和泉さんも、同意の姿勢を見せる。
「ちょっと、祐奈!?私、虫を持ち歩いてる人と、一緒に歩くのやだよ!」
福田さんも、信じられないものを見る目で、自分の友人を見つめている。
「でも、和美ちゃん、死んじゃって、味付けもされていたら、それはもう虫じゃなくて食べ物じゃないかな。お惣菜の魚とかと一緒だよ」
和泉さんの表情は、何かを悟ったように、とても穏やかだ。
「い、いやだ!魚とは絶対に違うよ!ねえ、考え直してよ!」
福田さんは、殺人を決心した友人を押しとどめるかのような必死さで、和泉さんに食ってかかる。目尻には、薄っすらと涙が浮かんでいるように見えた。
その後は、清水くんと和泉さんが、詳しい値段やおすすめの昆虫食について私に尋ね、そんな二人を中川くんと福田さんが、思い直させようと必死になって説得しながら、桑の実を摘んだ。
「雨が降っていたときは、涼しくて湿気も気にならなかったですけど、むしむししてきましたね」
民宿に戻り、バンから降りた福田さんが、ふう、と息をついた。
先ほどまでのひどく取り乱した様子はなく、とりあえず今は落ち着いている。
結局あの後、中川くんと和泉さんは二人を説得しきれず、購入した昆虫食に関しては、清水くんのほかのお土産類と一緒に、彼のアパートに宅配便で送るということで、決着がついた。
雨上がり、風は雨雲をあっという間に東の山の彼方に吹き飛ばしてしまい、午後は、夏の気配を帯びた日差しが、燦燦と降り注いだ。
日の光は、地上に取り残された雨粒たちを蒸発させ、今はじっとりと肌にまとわりつき、不快指数を上げるばかりだ。
午前中感じていた肌寒さなど、今はみじんも感じられない。
「田舎に来たら、もっと涼しいと思ってました。いや、都会に比べれば、段違いに過ごしやすくはあるんですけど」
清水くんも、自らのシャツの襟もとを、ぱたぱたとさせている。雨具を着て作業をした分、湿気がこもって、暑さをより増長させてしまっているのだろう。
「ここは市内よりも標高が高い分、体感温度も二度ほど下がりますけど、それでも、最近の夏は結構暑くなりますからね」
和泉さんに持ってもらっていた、桑の実入りのバケツを受け取り、民宿に入る。
「そうだ、よかったら、夕食のあと出掛けませんか?この蒸し暑さなら、たぶん……」
私の再びの提案に、四人は目をキラキラと輝かせて、大きくうなずいてくれる。
ジャムにする作業は、ほかの果物と大して変わらない。ただ、非常に色が付きやすいため、手や服が汚れない様、普段以上に用心して、エプロンと手袋をきっちりと着けて行う。
まずは、緑の軸の部分を外す。自分で食べる分だけなら省略してしまう作業だが、お客さんに出すものなら、そうもいかない。
軸から外した実は、鍋にまとめ、桑の実の半量ほどの砂糖を加え、煮る。途中レモン汁を絞り、更に煮詰めたら完成だ。
夕食時、出来上がったジャムをヨーグルトに添えて出した。
「少しクセのある味ですけど、甘くておいしいですね。それに、種がプチプチして食感もいい」
清水くんが、ゆっくりと味わいながら、感想を述べる。
「桑の実、なんていうと、その辺に生えている木の実感が強いですけれど、西洋ではマルベリーと呼ばれていて、いわゆるベリーの一種です。そういうと、なんだか少し、おしゃれじゃないですか?」
それを聞いて女の子たちは、スコーンと合いそう、お茶会っぽい響きだね、などと、楽し気に会話を膨らませていた。
夕飯の片付けを終えると、再びバンに乗り込み、移動する。
途中、コンビニによってアイスや飲み物を買って、散策しながら食べ歩くことにした。
広くなっているところに車を停め、川沿いを歩く。夜の川辺は蒸し暑さを抑え、ひんやりとした空気をあたりに漂わせている。
「あ、ほら、あそこに」
しばらくぶらぶらと歩いていたが、ようやく目的のものを見つけられた。
私が指さした方を、全員が一斉に向く。
「わぁ、綺麗!初めて見ました」
視線の先では、川の上を、蛍がすうっと横切っていくところだった。一匹見つけると、その周りにも、無数に飛び交う蛍がいたことに気付く。
「和泉さん、うちわを出してください」
近くの草にとまっていた一匹を捕まえて、彼女が持っていたうちわの上に乗せてあげる。
和泉さんと福田さんは、顔を寄せて、うちわの上の蛍を観察している。昼間はあんなに虫を嫌っていた福田さんも、蛍なら平気なようだ。
「ほ、ほ、蛍こい」
小さく、そっと呟いた。
「何の歌ですか?」
中川さんがそれに気付き、私の斜め後ろから尋ねてくる。
周囲はかえるの大合唱と川の水音で、夜とはいえ、相当にぎやかだ。聞き取られているとは思わなかったため、頬がかっと熱くなる。
「蛍が寄ってくる歌です」
そう答えて、少し迷ってから、今度は普通の声量で歌を続ける。
私の歌声に重ねて、聞いていた四人も歌いだす。
夜の闇に、懐かしい童謡と、かえるの鳴き声、そして、川の音が響き渡っている。
歌の節で大きく息を吸うと、暗闇の中に、夏の夜の匂いがあったことに気付いた。
季節の変わり目は、どうしてこうも胸が高鳴るのだろうか。
都会にいた頃は、毎度のように体調を崩し、陰鬱な気分で過ごしていた気がする。それが、こちらへ戻ってからは、次の季節の到来が待ち遠しくて仕方がない。
とはいえ今はまだ、夏への期待に胸を膨らませながら、つかの間の涼しさを楽しむ。
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