六月九日

「今年は梅を漬けないの?」

 唐突にそう聞いてきたのは、真秀ちゃんだ。彼女は梓くん同様近所の子供で、今年十六歳になる。梓くんほどではないが、彼女もたびたびここへ来ては、私の仕事を手伝ったり、本を読んだり、ゲームをしたりして過ごしている。

 彼女の言葉にはっとしてカレンダーを見ると、六月もすでに一週間が過ぎたところだった。

 そうだ、そろそろ梅を漬けなければならない。

「ありがとう、真秀ちゃん。すっかり忘れていたわ。そうねぇ、一応予定表では……」

 丁度開いていたパソコンで、予約の予定表を見る。せっかくの収穫だから、お客さんがいるときにやっておきたい。

 ちょうど明日から、農業体験希望のお客さんの宿泊の予定があった。青梅の収穫時期を逸してしまったかと焦ったが、ひとまず間に合いそうで、ほっと胸をなでおろす。

 そこでやろうかしら、と言うと、真秀ちゃんが抗議の声を上げる。

「明日だと平日じゃん。それじゃあ私が出来ないよ。いつも、梓ばっかり色々やってるじゃん」

 彼女は、そのままこたつに突っ伏してしまう。こんな時期までこたつを出していると、お客さんには驚かれることも多い。ここ何日かは雨も降らず、暖かい日が続いたので、今は電源こそ入っていないが、朝晩はまだまだ冷えるのだ。

「しょうがないじゃない。真秀ちゃんは、部活もあるでしょう?美味しく漬かったら、シロップのソーダ割りを作ってあげるから。ね?」

 そう言うと、彼女はしぶしぶ『はーい』と返事した。

 この年頃の子が、進んで手伝いをしてくれるのは、かなり貴重なことだろう。彼女の家では田んぼも作っていないし、畑は作っているがつくっているがそれほど広くないから、物珍しいのかもしれない。

 そう思うと、彼女のやる気を全くの無駄にしてしまうのは、申し訳ないと思うと同時に、もったいない気がした。

 突っ伏したままの彼女の顔を、横からのぞき込もうとすると、首を回して向こう側を向いてしまった。高校に上がって少し大人びたように見えたが、こういう仕草は、まだまだ年相応に幼く可愛らしい。

 どうにか、お客さんの作業を確保しつつ、彼女のやる気に応えられないだろうか。

 しばらく思案し、時計を見る。時間はまだ十四時前だ。

「それじゃあ真秀ちゃん、良かったら……」

 私の思い付きを提案すると、彼女はパッと顔を上げ、勢いよくこたつから飛び出した。


 翌日、今日から三日間宿泊予定の佐々さんは、朝の電車でやってきた。

 お迎えの車内で、本日の予定を伝える。彼女は、梅仕事なんてしたことがない、帰ったら自分でもやってみようかしら、と、すでに楽しそうだ。

 民宿に着いたのは、九時半過ぎだった。荷物を置いて、早速本日の作業に取り掛かる。まずは、梅の実の収穫からだ。

「こちらが、うちの梅園です。といっても、そんなに広くないんですが」

 簡単に土地柄の説明を交えながら、佐々さんを梅園へ案内する。

 過疎地ではありがちな問題だが、高齢化が進み、手入れをできなくなった、もしくは所有者の不明になった、遊休農地や耕作放棄地は多い。

 私は祖母から民宿を受け継ぐ際、周囲の家々や、役所に問い合わせ、いくつかの土地を買い上げて、農耕地として整備しなおした。 

 そのうち、一枚の畑を丸々梅園にしたのが、一昨年、昨年から実を結び始めた。今年も、なかなかの実りを見せている。

「ここからあそこまでが、大粒の梅で、その向こうが小梅です。今残っている大粒のものは、梅干し用です。梅雨の間熟させるので、今日は収穫しません」

 笹さんに品種の説明をしながら、畑の奥へと入っていく。

 梅の木は、毎年枝が横へ広がるよう剪定をするので、それほど高くならない。私は脚立を使い上の方の実を、笹原さんには低いところの実を採ってもらう。

 小梅はそれほど量を作っていないので、二人がかりで作業すれば、午前中のうちには収穫しおえた。

 それでも、大きなバケツに一つ分、一年食べるには十分な量だ。

 お昼の休憩をとって午後、梅仕事といえば、の作業に着手する。

 収穫した青梅はよく洗って、バケツに入れたまま水に浸し、あくを抜く。ただし、今日中にあく抜き後の作業をしようと思うと、全て終えるのは夜中になってしまうだろう。なので、夜寝る前に水からあげ、続きは明日の朝からできるようにしておく。

「若い梅でなければ、あく抜きは必要ないんですか?」

 佐々さんが、私の隣からバケツを覗き込む。

「えぇ、熟していくほど、えぐみや苦みはなくなっていきますから。黄梅は、それは甘く芳醇な香りがしますよ」

 梅と水でずっしりと重くなったバケツは台所の端に寄せ、縁側へ移動する。

「そして、昨日のうちに水に浸けて、さらに乾燥させたものがこちらです」

 障子を開けるとそこには、梅を広げたエビラが、三枚並んでいる。今日は風があったので、いい具合に乾いたようだ。

「料理番組みたいですね!?」

 笹さんは、気持ちのいいリアクションを返してくれる。

「ふふ、昨日、近所の子が収穫を手伝ってくれたんです。なので、すぐ次の作業に取り掛かれるよう、準備しておきました」

 こう段取り良く進められるのも、真秀ちゃんのおかげだ。残念ながら、本格的な作業は出来なかったが、そこは飛び切り美味しい梅シロップを作って、許してもらおう。

 次の作業は星取りといって、竹串で、木に繋がっていた軸の部分を取り除く。

 梅をエビラごとダイニングへ移動させ、座っておしゃべりしながら、手を動かす。

 佐々さんは、今年五十歳になったばかりだそうだ。専業主婦として、二十数年家の切り盛りをしてきたが、このたび誕生日プレゼントのひとつとして、家族から一週間のお休みをもらったらしい。土日はお友達と会い、三日間はこの民宿で過ごし、最後の二日は、家でのんびりする予定とのことだ。

 『とか言って、家にいると、結局働いちゃうんですけどね』と、彼女は楽しそうに笑った。

「あぁっ、佐伯さん、梅に傷がついちゃったんですが……」

 しばらくすると、彼女が大きな声をあげた。どうやら、軸がうまく取れず、勢い余って竹串を梅にさしてしまったらしい。

「あぁ、まったく問題ないですよ。もとから傷ついているものもありますし。傷がついている梅はこちらのボウルに入れておいてください。ある程度まとめて冷凍しておいて、あとでジャムにします」

 青梅で作るジャムは、すっきりとした甘みとさわやかな酸味が特徴で、個人的には黄梅のものより好きなくらいだ。

 作業を進めるたびに、すっとした若い梅の香りが、家中に広がる。これも、梅仕事の楽しみの一つだろう。

「収穫のときから思っていましたが、さわやかで、美味しそうな匂いですね。このまま食べてしまいたい」

 佐々さんは、うっとりしながら大きく息を吸い込んだ。

「ふふ、私もそう思います。子供の頃は梅漬けがあまり好きではなかったんですが、とれたての梅は美味しそうな匂いがして……。こっそりつまもうとして、祖母にこっぴどく叱られた覚えがあります」

 まだ私が小学生だった頃、畑の隅に大きな梅の木があり、その梅で祖母は毎年漬物を作っていた。その梅のさわやかな香りが好きで、梅の漬物が嫌いだった私は、何故わざわざ漬物にしてしまうのか、不満に思ったものだ。

 ただ、祖母は漬物と一緒に、シロップ漬けも作ってくれていた。夏休み、学校のプールから帰ってくると、そのシロップを水で割り、氷をたっぷり入れて冷やしたものを用意してくれたのを、今でもよく覚えている。

「そういえば、このままの梅は毒があるんですっけ?こんなに美味しそうなのに、なんだか残念ですね」

「毒というほどではないですが、たくさん食べると中毒症状を引き起こすそうです。なにより、青梅は加工しないとえぐみと渋みが強くて、たぶん美味しくないと思います」

「あく抜きをするくらいですものね」

 佐々さんはそう言って、残念そうに手に持った青梅を見つめる。

 星を取り終えると、まだ梅に残っている水分を、キッチンペーパーでよくふき取る。保存食に水分は大敵だ。

 そこから甘く漬ける分だけふま、梅をまな板の上で割り、種を取り出す。

 これで、一通りの下拵えが終了する。

「今年はたくさん採れたので、この大粒は、梅酒と、シロップ漬けと、甘い漬物にしましょう。今日収穫した粒の小さいのは、毎年紫蘇のカリカリ漬けにしています」

 煮沸した瓶に、それぞれの材料と梅を入れていく。

 シロップ漬けは、梅と同量の氷砂糖を交互に入れる。

 梅酒は、シロップ漬けと同じ要領で瓶詰めしたものに、ホワイトリカーを注ぎ入れる。

 甘い漬け物にする分は、割った梅と、笹さんが星取りをしている間に塩揉みしておいた紫蘇を交互に入れ、上から砂糖を入れ蓋をする。

 今日収穫した小梅は、明日、今日行った星取りまでの作業を再びして、ざっくり言えば、まず塩漬けする。その後赤紫蘇で本漬けをするのだが、それがなかなかに工程が多く、手間がかかる。

 とりあえずは、今日漬けた梅の瓶を土間へ移動させ、他の漬物と並べて保存する。

「さて、なからですね。あとは片付けして、そろそろ夕飯の支度も始めようかな」

 土間から出る際、昨年の梅酒をもって台所へ戻る。せっかく梅仕事をしたのだから、呑まないわけにはいかないだろう。

「今日は、採れたてアスパラと鮭の炒め物に、フキの煮物、それから、今が旬、根曲がり竹とサバ缶のお味噌汁です」

 本日のメニューを伝えると、佐々さんは少し不安そうな顔を見せる。

「魚の味噌汁ですか?それも、サバ缶……。私、魚の煮つけはあまり得意ではないんですが、大丈夫でしょうか」

 缶詰の味噌汁なんて、いまいちピンとこないのだろう、想像があらぬ方向へ向かっているようだ。

 鯖缶の味噌汁というと、手抜きのように感じられるかもしれないが、これがなかなか侮れない。それに、苦手なのが煮つけだけなら、問題ないだろう。

「ふふ、味は保証します。煮つけとは似ても似つかない味なので、おそらく大丈夫かと思います。アラの味噌汁ともちょっと違いますし」

 話しながらそエビラを洗い、縁側へ持っていく。夜には再び、ここに今日収穫した梅を広げる。梅仕事をする期間は、ずっと家中が梅の匂いで包まれる。

「そうだ、よろしければ、先にお風呂に入られますか?今日は菖蒲湯です。本当は端午の節句は二、三日前なんですが、せっかく佐々さんがいらっしゃるので、今朝取ってきました」

 片付けもすべて終えて、佐々さんにお伺いをたてる。

 今日は外出した先生がまだ帰ってきていないので、せっかくついでに一番風呂にはいっていただきたい。

「そうですね、収穫で汗をかいてしまいましたし、お言葉に甘えてお先にお風呂を頂戴しようかしら。菖蒲も、気を使わせてしまったようで、かえって申し訳ないです。そういえば、もう六月なのに、来る途中で鯉のぼりが上がっていましたね」

 彼女の返答を待って、風呂に湯を張る。菖蒲は朝採ってきたものを、切り口を水に浸けて勝手口に置いておいてある。五本ほどをまとめて、根元を輪ゴムで留め、それを二、三束作る。

 佐々さんも、私の手元を見て、同じ要領で束を作るのを手伝ってくれる。

「菖蒲は、朝、犬の散歩のついでに採ってきただけなので、お気になさらず。この辺りは月遅れで節句をするので、まだ鯉のぼりが上がっている家もありますね。うちも一昨日まで上がっていたんですが、こちらはちょうど片付けてしまったところです」

 出来上がった菖蒲の束をお風呂に投げ込み、台所へ戻ってくると、佐々さんが菖蒲の入っていたバケツの水を払ってくれていた。

「玄関にも菖蒲とヨモギが吊るされていましたが、あれも端午の節句のものですか?」

「軒菖蒲ですね。おっしゃる通り、あれも端午の節句の飾りです。あちらは四日から飾って、しおれるまでそのままにしてあります。今日見たらだいぶしおしおになっていたので、明日には回収しようかと」

 彼女からバケツを受け取って、勝手口の外に積み重ねてある、ほかのバケツの上に重ねて置いた。

「よし!菖蒲の準備まで手伝っていただいて、ありがとうございました。お風呂の準備をしていただいてる間に、お湯も溜まると思うので、どうぞゆっくりなさってきてください」

 そう伝えると佐々さんは『菖蒲湯も、一番風呂も、何年振りかしら』と言って、部屋へ戻っていった。

 楽し気な彼女の背中を見送りながら、私は夕食の準備を始めた。

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